ヴンダーカンマーの記憶② ナトゥラリア(Naturalia)の記録
Naturaliaの記録(約1,800字/読了目安:5分/全8話)
今日は標本室の点検作業をしている。
光に弱い標本たちが収められたこの部屋は、昼間だというのに暗い。
数少ない明かり取りの窓にも、紫外線を通さないガラスが嵌められている。
壁一面に並んだ標本箱と、小さな引き出し。
蝶や甲虫、植物、貝殻、鉱物。
棚の奥には瓶詰めの標本や、鳥や小動物の剥製もある。
自然が生み出したもの――ナトゥラリア。
この館の中でも、僕が好きな部屋のひとつだ。
昆虫標本の状態を、一つずつ確認していく。
古い標本箱を作業台へ運び、慎重に蓋を開けた。
青い蝶が並んでいた。
ずいぶん昔に採集されたものなのに、羽にはまだ深い青が残っている。
光の角度を変えると、色まで変わって見えた。
美しい。
そう思ったあとで、少し妙な気持ちになった。
この蝶を採集した人も、きっとそう思ったのだろう。
美しいものを保存するために。
その構造を知りたいという好奇心のために。
ここには、生物として若く、最も美しい時期に刈り取られた命がある。
羽が傷つく前に。
色が褪せる前に。
最も美しい姿で、永遠に留めるために。
標本箱の中の蝶は、百年を超えてなお美しい。
でも、その美しさは、この蝶の時間を止めることで残されたものだ。
生きているものは、命あるものを食べる。
だけど人間は、生きるためだけではなく、好奇心や知識への欲のためにも、多くの命を犠牲にしてきた。
僕は、目の前の青い蝶を見る。
もっと見たい。
もっと知りたい。
まだ誰も知らないものを見つけたい。
身体の仕組みを知りたい。
違いを見つけ、名前をつけ、分類したい。
その気持ちは、僕にも分かる。
その好奇心によって、人間は世界について多くのことを知った。
この蝶たちも、その知識の一部になったのだろう。
だから、犠牲になったことにも意味があった。
――そう考えてしまえば、簡単なのかもしれない。
でも僕には、そう言い切ることもできなかった。
知識を得られたことと、そのために一つの命を終わらせたことは、別のことだ。
どちらか一方だけを見ればいいわけではない気がする。
僕は蝶の状態を記録し、標本箱を元の場所へ戻した。
もう、この蝶を生き返らせることはできない。
だったらせめて、ここに残されたものを傷めないようにする。
いつ、どこで採集されたのか。
どんな生物だったのか。
その標本から何が分かったのか。
知ることのできるものを記録して、次へ渡す。
今の僕にできるのは、それくらいだ。
次の棚へ移る。
小さめの標本箱の入った引き出しを開けると、底に厚紙が敷かれていた。
茶色く変色した、ずいぶん古い紙だった。
無数の小さな穴が開いている。
「ああ、これか」
この館の古い収蔵箱には、ときどきこういう紙が敷かれている。
敷きっぱなしでは湿気が籠るので定期的に入れ替えないといけない。
この館が博物館になる以前から使われていたらしい。
捨てる理由もないので、繰り返し乾燥しそのまま使われ続けているのだという。
いくらなんでも古すぎるから、これから新しい紙に交換していこうか。
僕は標本箱を取り出し、紙をその上に載せて作業台まで運んだ。
標本箱の青い蝶が、その無数の穴の向こうに見えた。
何気なく眺めていて、手が止まった。
穴が、妙に整っている。
縦に並んだ穴。
少し間を置いて、また別の並び。
破れた跡でも、虫食いでもない。
通気のためなら、こんな一見規則的に見えるのに、複雑な並び方をさせる必要があるのだろうか。
別の引き出しを調べてみた。
そこにも同じような厚紙があった。
重ねてみる。
同じ位置に穴があるところもあれば、違うところもある。
まるで――
何かを書いているみたいだ。
そこまで考えて、自分でおかしくなった。
紙に穴を開けて、何を書くというのだろう。
「考えすぎか」
今日は標本の点検に来たのだ。
僕はその紙を捨てず、標本の記録と一緒に番号を控えておくことにした。
いつか時間のあるときに、調べてみよう。
作業灯の下で、次の標本箱を開ける。
また一頭の蝶が現れた。
羽を広げたまま、動かない。
その姿を見ながら、ふと思う。
人間は、ずっとこうしてきたのかもしれない。
美しいものを残したい。
失われる前に留めたい。
そして、知りたい。
その願いと好奇心が、どれだけのものを未来へ残し、どれだけのものを失わせてきたのだろう。
僕には、まだ分からない。
ただ今日も、この部屋に残されたものを確認していく。
一つずつ。
傷めないように。
失わせないように。
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この物語には、寄り添うBGMがあります。
※ モルフォ蝶など、青い蝶の多くの青は、色素ではなく鱗粉の微細な構造による「構造色」です。
色褪せにくく、見る角度によって色が変わって見えます。
標本室の暗さが守っているのは、主に光で褪せる色素のほうです。
