決裁堂 第4話「小数点の顔」
【前回まで】 北関東ひまわり銀行の融資見直し、四百件。AIの答えのままなら増収十二億。決裁堂の評決は、猶予百二十七、別枠二百十、決裁六十三——増収は三億に痩せた。差額の九億は、誰かの明日を買った金だった。切られた六十三の中に、佐々木印房があった。八十歳の判子屋は、店を畳む前に、最後の一本として、自分を切った男の印を彫った。桐生の机の上には、いまもその印がある。
一
朝の決裁堂は、静かだった。 静かというのは、音がないという意味ではない。芽以が湯を沸かす音がして、沢渡が新聞をめくる音がして、白石灯の椅子が、時々、軋む。音はある。ただ、誰も、急いでいない。 合議から、一ヶ月が経っていた。 今日の一件目は、商店の仕入れ与信だった。金額は小さい。AIの答えは、可。桐生が下読みをして、要点を三行にまとめ、白石の机に置く。白石は三行を読み、原本を全部読み、それから可と言う。三行にまとめさせておいて、必ず全部を読む。それがこの人のやり方だった。 「桐生くん、これ」 白石が、原本の隅を指した。「保証人の欄。息子さんの住所、県外になってる。AIは同居扱いで通してるけど」 「……確認します」 「決めるのは、確認のあとでいい」 電話を二本かけて、住所は転勤によるもので、保証意思に変わりがないことを確かめた。答えは同じ、可。ただ、確かめた可と、確かめない可は、同じ字で書いても、違うものだった。そのことを、桐生はこの一年で、覚えた。 昼休み、桐生は机で問題集を開いた。 決裁士試験。次の期は、秋にある。 「決裁士法、二条」 向かいから、芽以が覗き込んでくる。「決裁は、決めた者が、署名する。——ね、これ、あたしでも言えるようになりました」 「条文を言えるのと、署名するのは、別だよ」 「知ってます」芽以は口を尖らせた。「でも、まず条文からです。あたし、順番は守る方なんで」 机の隅に、印がある。 柘植の、白い一本。佐々木辰夫が彫った、桐生の実印。 問題集を解きながら、桐生は時々、それを見た。見るたびに、指の腹で、彫りの縁に触れた。触れると、落ち着いた。落ち着く自分を、少しだけ、疑った。 あの決裁で切られた側の一本で、切った側の自分が、落ち着いている。 その勘定が、合っているのかどうか、まだ、分からなかった。
二
午後、戸が開いた。 女の人が、立っていた。五十がらみ。喪服ではないが、色のない服を着ていた。旅行鞄をひとつ、提げている。 「あの」女の人は、堂の中を見回して、言った。「こちらに、桐生さんという方は」 「僕です」 女の人は、桐生を見た。上から下まで、ではない。顔だけを、長いこと、見た。 「佐々木の、娘です」 湯を運びかけた芽以が、止まった。 沢渡が、新聞を畳んだ。畳んで、立ち上がった。 「話なら、俺が」 「座れ」 奥の机から、二階堂の声がした。 「決裁書に名があるのは、堂だ。全員で、聞け」 沢渡は、少しの間、立ったままでいた。それから、椅子を引いて、座り直した。娘は、その一連を、静かに見ていた。怒鳴り込みに来た人の目では、なかった。それが、かえって、部屋の温度を下げた。 芽以が、湯呑みを出した。娘は、頭を下げて、手をつけなかった。 「父は、元気です」 娘は、そこから始めた。 「元気です、というのは、嘘のない言い方をすると——食べて、眠って、生きています。私の家で。孫の顔も、毎日、見ています」 「……はい」 「店を畳むとき、父は、しゃんとしていました。ご存じですよね。最後の一本を彫るんだと言って、三日、店に籠って。彫り上がった日に、いい仕事だった、と言いました。わしの彫った判子で、腹をくくった人が、大勢おる、それで十分だ——うちに来てからも、何度も、言います」 娘は、湯呑みの表面を、見ていた。 「何度も、言うんです」 同じ言葉を、繰り返した。二度目は、少しだけ、遅かった。 「ひと月で、二十回は、聞きました。いい言葉だと、最初は思いました。十回目くらいから、数えるのを、やめました。あれは、自分に言い聞かせている言葉です。言い聞かせないと、立っていられない言葉です。父は毎朝、誰にも頼まれない字を、チラシの裏に書いています。手が鈍るから、と言って。彫るものは、もう、ないのに」 誰も、何も、言わなかった。 言えることが、なかった。 「先月まで、父には、店がありました。看板があって、道具があって、朝、開ける戸がありました。いまは、私の家の、南向きの部屋があります。いい部屋です。日当たりも、いい。父は日に日に、その部屋の大きさに、合っていきます」 娘は、顔を上げた。 「今日は、責めに来たんじゃありません。父は、あなた方を、恨んでいません。だから私は、恨む場所が、ないんです」 桐生は、その言葉の意味が、腹に落ちるまで、数秒かかった。 切られた本人は、納得して、誇りまで持って、店を閉めた。綺麗な話だ。綺麗な話には、続きがある。続きを毎日見る人間には、恨むことすら、許されていない。恨めば、父の誇りを、壊すことになるからだ。 「ひとつだけ、聞かせてください」 娘は、鞄を、膝の上で抱え直した。 「父の店を切ると決めた理由を、決めた人の口から、聞きたいんです。書類は、読みました。銀行の人が、丁寧に説明もしてくれました。でも、あの書類を書いたのは、機械でしょう。決めたのは、こちらだと聞きました。だったら——決めた人の声で、聞きたい。それだけのために、来ました」
三
決裁書の写しは、堂に、ある。 六十三件。綴りにして、指二本分の厚さ。桐生が取りに立とうとすると、二階堂が言った。 「読むのは、お前だ」 「……はい」 「読み上げた声も、決裁のうちだ」 佐々木印房の頁を、開いた。 開く前から、内容は、頭に入っていた。あの合議の日、桐生は自分で、この頁を作った。それでも、開いた紙の上の活字は、覚えているものより、乾いて見えた。 「読みます」 桐生は、読んだ。 「佐々木印房。個人事業。創業、昭和五十九年。事業主、八十歳。後継、なし。主要販路である官公庁・金融機関の認印需要は、電子化により前年比で七割減。市場の回復要因、なし。事業主の就労可能年数を三年と推定した場合においても、債務の返済原資は、その」 声が、一度、止まった。 「その、期間内に、形成されない。以上により、追加融資は、行わない」 読み終えて、頁から、顔を上げた。 数字は、正しかった。 一ヶ月前も正しかったし、いまも正しい。読み間違いも、ない。ただ、合議の卓で読んだときには厚みのあった正しさが、娘の前では、一行ごとに、痩せていった。七割減、という四文字の向こうに、チラシの裏に字を書く老人の指が、透けた。就労可能年数三年、という推定の中で、南向きの部屋が、少しずつ、老人の寸法に合っていく。 正しさは、痩せても、正しいままだった。 それが、いちばん、堪えた。 「ありがとうございます」 娘は、頭を下げた。 「機械の書いた文章を、人間の声で聞くと、こんなふうに聞こえるんですね。初めて、知りました」 「…………」 「父は、どこで、間違えたんでしょうか」 来た、と思った。 この問いのために、この人は、電車を乗り継いで、来たのだ。 答えの候補は、いくつも、浮かんだ。間違えていません、と言えば、では誰が間違えたのか、という問いが残る。時代です、と言えば、時代という顔のない言葉に、老人ひとりを、押しつけることになる。私たちが引き受けます、と言えば——嘘になる。南向きの部屋にいるのは、堂の誰でもない。 桐生は、どの候補も、口にしなかった。 できなかった、というのが、正確だった。 沈黙が、長く、続いた。白石は目を伏せていた。沢渡は、拳を膝に置いて、動かなかった。二階堂は、湯呑みを、両手で包んでいた。堂の中で、誰ひとり、その問いに答える資格を、持っていなかった。答えられないことを、隠さないこと。それだけが、この部屋にできる、精一杯だった。 やがて、娘の方が、息を、ひとつ吐いた。 「……そう、ですよね」 立ち上がって、鞄を提げた。 「変な質問をしました。忘れてください。——ひとつだけ、分かったことが、あります。父の名前は、あの綴りの中では、六十三分の一でした。今日、ここへ来て、六十三分の一のまま、ちゃんと、読まれました。丸められても、切り捨てられても、いなかった。それを、確かめに来たんだと思います。たぶん」 娘は、戸口で、一度だけ振り返った。 「受付の方に、預けたものがあります。父からでは、ありません。私からです」 戸が、閉まった。 閉まってからも、しばらく、誰も口をきかなかった。
四
空気が、まだ戻らないうちに、次の客が来た。 戸が開く音からして、違った。ためらいの、ない音だった。 「ごめんください。——ああ、いい建物だ。木の看板は、久しぶりに見ました」 男が、入ってきた。四十前後。仕立てのいい上着。名刺入れを出す手つきに、一切の無駄がない。 「株式会社アセントの、東雲と申します。決裁事業本部の、執行役員をしております」 アセント。 桐生は、その名に、聞き覚えがあった。業界紙で見た。東京の会社。決裁業務の、受託センター。 「アポイントも取らずに、失礼します。近くまで来たものですから——というのは、嘘です。御堂に伺うために、来ました」 東雲は、悪びれずに言って、笑った。よく出来た笑いだった。よく出来すぎていて、量産品の趣きがあった。 「二階堂先生。初めてお目にかかります。四十年。この業界で、その数字は、伝説です」 「用件を」 二階堂は、湯呑みから、顔を上げなかった。 「単刀直入に申します。私どもは、決裁を、お引き受けする会社です。全国の金融機関、自治体、企業から。所属する決裁士は、百四十名。一日に、三百件、決めます」 「三百」 沢渡の声が、低くなった。「一日、三百件を、百四十人で。一人あたり、一件を、何分で決める勘定だ」 「案件によります。AIの事前審査で、争点は三つまで絞り込まれています。決裁士は、三つの争点だけを見ます。平均で、一件、十一分です」 「十一分」 「短いと、お思いでしょう」東雲は、頷いた。「私も、思います。ですが、こう考えていただきたい。九割が消えたこの国で、それでも毎日、無数の決裁が要る。融資、契約、認可、支給。決める人間が足りなければ、どうなるか。決裁の順番待ちで、企業が潰れます。支給を待つ人が、冬を越せません。私どもは、決裁を、水道にしたいんです。蛇口をひねれば、出てくるように。それから——」 東雲は、上着の内側から、薄い冊子を出した。 「決裁保険、というものを、扱っております。万一の誤決裁の際、賠償は保険が引き受けます。決裁士個人は、破産しません。だから、決められる。人間は、身ぐるみ剥がされる恐怖の中では、正しく決められませんから」 冊子が、長机の上に、置かれた。 誰も、手を伸ばさなかった。 「それで」二階堂が、初めて東雲を見た。「うちに、何を売りに来た」 「逆です。買いに、参りました」 東雲は、笑いを消した。消すと、目だけが残った。 「決裁堂の、看板を。——正確に申します。屋号と、四十年の決裁記録と、先生のお名前を、当社の関東拠点に、迎えたい。金額は、こちらに」 封筒が、冊子の横に、並んだ。 「先生ご自身は、一件も決めていただかなくて、結構です。顧問として、月に一度、東京へお越しいただくだけで。現場は、私どもの決裁士が回します。看板は、御堂のまま。お客様は、四十年の信用に、判を捺してもらいに来る。中身は、一件、十一分です」 沢渡が、立ち上がりかけた。 白石が、その袖を、指二本で、押さえた。 二階堂は、封筒を見なかった。冊子も見なかった。東雲の顔を、見ていた。長いこと、見ていた。それから、言った。 「預かる」 桐生は、自分の耳を、疑った。 断る、と言うと思っていた。それも、即座に。四十年、と、十一分は、同じ卓に載る言葉ではない。載せた瞬間に、笑って断る——この一ヶ月で桐生が覚えた二階堂なら、そうするはずだった。 二階堂は、笑わなかった。断りも、しなかった。 「返事は、こちらから、する」 「ありがとうございます」東雲は、深く、頭を下げた。上げた顔は、また、よく出来た笑いに戻っていた。「お返事は、いつまでも、お待ちします。決裁は、急がせるものでは、ありませんから。——それは、御堂に教わったことです。この業界の、全員が」 東雲は、帰った。 冊子と、封筒が、残った。 沢渡が、口を開きかけて、やめた。白石も、何も言わなかった。二階堂は、湯呑みを、両手で包んだまま、長いこと、窓の外を見ていた。両手で包むのが、癖になったのは、いつからだったか。桐生は、思い出せなかった。
五
夕方、芽以が、桐生の机に来た。 「これ。昼間の方が、預けていかれました。桐生さんに、って」 細長い、桐の小箱だった。 開けると、布に包まれて、印材が、一本、入っていた。 柘植。白い、無垢の一本。何も、彫られていない。 箱の底に、便箋が一枚、畳んであった。娘の字だと、開く前から分かった。書き出しに、宛名はなかった。
——父の店の、最後の在庫だそうです。父は、道具は手放しましたが、これだけは捨てられずにいました。私が持っていても、これは、ただの木です。彫られる前の判子は、まだ、誰の名前でもありません。誰の名前にもなれる、ということでもあります。それが、あの店に残った、最後の一本です。置き場所は、そちらの方が、ふさわしい気がしました。
署名も、なかった。 桐生は、無垢の印材を、机の上に、立てた。 隣に、自分の印がある。佐々木辰夫が、最後の仕事として彫った、桐生遼の名。その隣に、まだ誰の名でもない、白い一本。 彫られた一本と、彫られていない一本。 窓の外が、暮れていく。 残り一割の灯りが、ひとつずつ、点いていく時刻だった。今日の堂には、二人の客が来た。ひとりは、決められた側の、その後を置いていった。もうひとりは、決める側の、これからを置いていった。長机の上の封筒と、机の上の白い一本は、同じ夕方の光の中で、別々のことを、黙っていた。 芽以が、帰り支度をしながら、言った。 「桐生さん。試験、秋ですよね」 「うん」 「受かってください」 それだけ言って、いつもの調子で、戸を閉めて、出て行った。 桐生は、問題集を、開き直した。 開いたが、しばらく、字が、入ってこなかった。 無垢の一本が、机の隅で、白かった。
(第4話 了)
