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決裁堂 第3話「十二億の重さ」

#創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #お仕事小説 #SF

前回まで――決裁士見習いの桐生遼は、四百件の融資を切るか否かを決める案件で、切られる側(豆腐屋・健太/畳屋・高瀬夫婦)と、切ることで割を食う側(有人窓口の佐伯/老婆・田村)の、両方の顔を見た。どちらを選んでも、誰かの居場所が消える。「決められない」と逃げた桐生に、決裁堂の面々は告げる――決めないことは、機械に決めさせるのと同じだ。明後日、合議が始まる。

第3話 十二億の重さ

1

合議の朝、決裁堂には、朝日が、差していた。

昨夜の雨は、上がっていた。二階堂が、窓を開けると、濡れた通りから、土の匂いが、立ちのぼった。芽以が、四人分の茶を淹れ、そして、いつもは座らない、応接テーブルの端に、そっと、腰を下ろした。今日は、見ていていい、と二階堂が、言ったのだ。決裁士に、なりたいなら、決裁が、どういうものかを、見ておけ、と。

「始めるぞ」

二階堂が、テーブルの中央に、一冊の紙のファイルを置いた。北関東ひまわり銀行の、案件書だった。

「北関東ひまわり銀行、融資見直しの件。対象は、少額・長期・低利の融資、約三千件。うち、返済不能の見込みが、約四百件。銀行のAIが出した選択肢は、二つ。ひとつ、全件の金利を、市場水準に、引き上げる。年間十二億円の増収。ただし、約四百件が、返済不能で、潰れる。もうひとつ、見直しを、行わない。四百件は守られるが、不良債権を抱えたまま、銀行の自己資本比率が、じわじわと、削られていく」

老人は、二人の決裁士を、見た。白石と、沢渡を。

「評決権は、白石と、沢渡に、ある。桐生は、見習いゆえ、票は、持たん。だが、現場を、見てきたのは、桐生だ。まず、桐生の報告から、聞こう。……そのあとで、切るか、守るかを、決める」

沢渡が、真っ先に、口を開いた。皮肉ではなく、冷えた声だった。

「先に、俺の立場を、言っておく。俺は、“全件切り”に、近い」

芽以が、小さく、息を呑んだ。

「勘違いするな」と沢渡は、芽以を、ちらと見て、言った。「俺だって、健太や、高瀬を、切りたいわけじゃない。だが、考えてみろ。四百件を、全部、守ったら、どうなる。不良債権は、消えない。時間が経てば、銀行が、傾く。傾いたら、まず消えるのは、佐伯さんの窓口だ。田村さんの、居場所だ。そして、いずれ、銀行そのものが、潰れる。潰れたら、この地方の、何万人もが、金融砂漠に、放り込まれる。……四百件を守るために、何万人を、犠牲にするのか。それは、優しさじゃない。ただの、先送りだ。誰かが、切るべきものを、切らなかったツケを、もっと弱い、もっと大勢が、払うことになる」

「その通りよ」と白石が、言った。「でも、私は、“全件切り”にも、反対」

沢渡が、白石を、見た。

「全件、金利を上げて、四百件を、潰したとするわね」と白石は続けた。「銀行の帳簿は、来年、十二億、綺麗になる。数字は、勝つ。……でも、その翌年から、この銀行は、地域で、こう呼ばれるようになる。“情け容赦なく、町の店を、潰す銀行”だと。北関東ひまわり銀行の、唯一の強みは、何? 大手が撤退した過疎地に、残ってること。“この町の銀行だ”っていう、信用。それを、十二億で、売り渡すの。信用を失った地域銀行は、五年で、預金が逃げて、自壊する。……意味を、毀損すれば、いずれ、数字に、跳ね返る。私は、それを、マーケターとして、嫌というほど、見てきた」

「じゃあ、白石は、どうしろと」

「わからない」と白石は、正直に言った。「全件切りは、五年後に、銀行を殺す。全件存続は、じわじわ、銀行を殺す。……どっちも、殺すのよ。速さが、違うだけで」

事務所が、静まり返った。

二つの、正しい意見が、真正面から、ぶつかって、動かなくなっていた。切るべきだ。守るべきだ。どちらも、正しい。どちらも、誰かを、殺す。

芽以が、思わず、つぶやいた。

「……AIは、これ、どう答えたんですか」

二階堂が、答えた。

「AIは、“十二億円の増収”という目的に対しては、全件切りが最適だと出した。“地域における長期的な存続確率”という目的に対しては、全件存続に近い形が最適だと出した。……つまり、AIは、両方の答えを、出せる。ただ、“どっちの目的を、選ぶべきか”だけは、出せなかった。だから、我らに、投げてきた」

「目的を、選ぶ……」

芽以の言葉に、桐生の中で、何かが、光った。

2

「待ってください」と桐生は、言った。

三人が、桐生を、見た。見習いが、合議の途中で、口を挟むのは、異例だった。だが、桐生は、止まらなかった。

「AIが出した選択肢は、二つですよね。全件切りか、全件存続か。……でも、なんで、二つ、なんですか」

「どういう意味だ」と沢渡が訊いた。

「四百件を、ひとまとめに、扱ってるからです」桐生は、案件書を、めくった。「金利を、“全件”上げるか、“全件”上げないか。四百件を、ひとかたまりの、数字として、見てる。だから、答えも、二つしか、ない。全部切るか、全部残すか」

桐生は、顔を、上げた。

「でも、俺が、現場で見た四百件は、ひとかたまりじゃ、なかった。全然、違う、四百通りの、事情でした」

彼は、指を、折った。

「高瀬さんの畳屋は、いま赤字だけど、あと二年で、回る見込みがある。若い夫婦が、本気で、やってる。常連も、増えてる。……これは、“切る”んじゃなくて、“二年、待つ”べき案件だ。金利を上げるどころか、返済を、猶予すべきだ。二年後には、優良客に、なる」

もう一本、指を折った。

「丸山さんの豆腐屋は、正直、回復の見込みは、ない。ここは、沢渡さんの言う通り、商売としては、終わってる。……でも、あそこには、健太さんがいる。この世界で、たった一人、必要とされる場所を持つ、青年が。ここは、“商売の融資”として見れば、切る案件だ。でも、“地域の、雇用と福祉”として見れば、別の枠組みで、支えるべき案件だ。銀行の融資の話じゃ、なくなる」

「そして」桐生の声が、低くなった。三本目の指は、折らなかった。

「……本当に、回復の見込みがなくて。若い未来も、なくて。誰にも代われない、大事な役割も、ない。ただ、損失を、先送りしてるだけの案件も……四百件の中には、確かに、ある。俺は、それも、見てきました。それは……切るしか、ない」

沢渡が、目を、細めた。

「つまり、お前は、こう言いたいのか。四百件を、ひとまとめにするな。一件、一件、“未来があるか”“代わりがいるか”で、線を引き直せ、と」

「はい」

「甘い」と沢渡は、即座に言った。「聞こえは、いい。だが、それは、いちばん、難しい道だ。全件切りなら、機械が、一瞬で、やる。全件存続も、簡単だ。だが、“一件ずつ、線を引く”というのは——誰かが、その一件ずつに、責任を持って、“これは残す”“これは切る”と、決めなきゃならん。四百回、決めなきゃならん。四百回、恨まれる覚悟を、しなきゃならん。……お前に、それが、できるのか」

桐生は、沢渡を、まっすぐに、見返した。

「わからない」と彼は言った。「でも、それが、AIに、できないことなんじゃ、ないですか」

沢渡の、動きが、止まった。

「AIは」と桐生は続けた。「与えられた目的に対して、最適な答えを、出す。十二億が目的なら、全件切り。存続が目的なら、全件存続。……でも、AIは、“目的そのものを、選び直す”ことは、しない。“四百件を、ひとまとめにする”っていう、最初の、問いの立て方を、疑わない。与えられた枠の中で、いちばん、うまく、動くだけだ」

彼は、テーブルの、案件書を、指で、叩いた。

「人間の仕事は、枠の中で、うまく答えることじゃ、ない。“その枠、間違ってませんか”って、問い直すことだ。四百件を、ひとまとめにするな。一件ずつ、意味が違う。だから、答えも、一件ずつ、違っていい。……それを、決められるのは、四百件の顔を、実際に見て、“こいつには未来がある”“こいつには代わりがいない”って、判断できる、人間だけです」

白石が、静かに、言った。

「桐生さん。あなた、いま、決裁士の、いちばん、核心を、言ったわよ」

彼女は、二階堂を、見た。老人は、腕を組んで、目を、閉じていた。

「AIは、答えを最適化する。人間は、問いを選び直す。……AIが、私たちに、この案件を投げてきたのは、“答え”が出せなかったからじゃない。“問いの立て方”を、決められなかったからよ。目的を、選べなかったから。それは——価値の、判断だから。何を、大事だと思うか。未来を、待つ価値があると思うか。代わりのいない役割を、守る価値があると思うか。……それは、数字じゃ、決まらない。誰かが、“これを大事だと思う”と、選ぶしか、ない」

沢渡は、しばらく、黙っていた。それから、案件書を、めくって、二件の融資先を、指で、示した。

「なら、訊くぞ、桐生。……この二軒だ。どっちも、小さな、食堂だ。どっちも、赤字。どっちも、店主は、六十代。片方は、常連が、少し、残ってて、二年で、回るか、回らないか——ぎりぎりの、線だ。もう片方は、常連が、もう、ほとんど、いない。回る見込みは、ほぼ、ない。……お前の基準だと、片方は“猶予”、片方は“切る”に、なる。だが、この二軒の差は、紙一重だ。常連が、あと三人、いるか、いないか。それだけの、違いだ」

沢渡の目が、鋭く、光った。

「その、紙一重の差で、片方は、生き残り、片方は、死ぬ。しかも、その線を、引くのは、お前だ。お前が、“こっちは未来がある、こっちはない”と、決める。……もし、お前の、その日の、気分が、少し違ったら。もし、お前が、切る方の店主に、たまたま、会って、情が移ってたら。線は、逆に、なったかもしれん。つまり、お前の引く線は、絶対じゃ、ない。恣意的だ。神の裁きじゃ、ない。ただの、桐生遼という、一人の人間の、判断だ。……それでも、お前は、その線を、引けるのか。“これは、俺が、引いた線だ。間違ってるかもしれない。でも、俺が、決めた”と、言えるのか」

桐生は、その二件を、見つめた。

沢渡の言う通りだった。線は、恣意的だった。彼が引けば、その線に、なる。白石が引けば、違う線に、なる。AIが引けば、また、違う。どこにも、「正しい線」など、なかった。あるのは、「誰かが、引いた線」だけだった。

以前の桐生なら、ここで、逃げただろう。「そんな、恣意的なもの、俺には、引けない」と。だが——

「引きます」と、桐生は、言った。

「絶対じゃ、ないのは、わかってます。俺の線が、正しい保証なんて、どこにも、ない。……でも、だからこそ、機械に、引かせちゃ、いけないんだ。機械が引けば、“これは、最適な線です”って、顔をする。恣意的なのに、絶対のふりを、する。誰も、責任を、負わない。……俺が引けば、少なくとも、“これは、桐生が引いた線だ。文句があるなら、桐生を、恨め”と、言える。恨まれる相手が、いる。間違いを、問い直せる相手が、いる。……絶対じゃない線を、絶対じゃないと、知りながら、それでも、名前を、乗せて、引く。それが、人間が、決めるってことなんじゃ、ないですか」

長い、沈黙が、あった。

芽以が、メモ帳に、何かを、書きつけていた。その手が、震えていた。

二階堂が、腕組みを、といた。そして、桐生に、静かな、頷きを、返した。だが、何も、言わなかった。評決は、決裁士の、仕事だ。老人は、それを、白石と沢渡に、委ねていた。

沢渡が、長い、息を、吐いた。

「……いいだろう。理屈は、認める。四百件を、三つに分ける。“待つ”“別枠で支える”“切る”。だが、桐生」

彼は、桐生を、見た。厳しい目だった。

「“切る”に分けた案件は、お前が、名指しで、決めろ。何十件になるか、知らんが、その一件、一件に、お前が、責任を、持て。“これは、桐生遼が、切ると決めた”と、言い切れ。逃げるなよ。“基準がそう言った”とか、“やむを得なかった”とか、言うな。お前が、決めたんだ。……それが、できるなら、俺は、この案に、賛成する」

桐生の、喉が、鳴った。

四百件のうち、切るべき案件。数字では、六十三件、と出ていた。六十三の、商売。六十三の、人生。それを、桐生が、一件ずつ、「切る」と、決める。名指しで。恨まれる覚悟で。

「……やります」と、桐生は、言った。

三年ぶりに——いや、生まれて初めて、彼は、自分の名前で、何かを、決めようとしていた。

3

決裁堂の案は、その日のうちに、北関東ひまわり銀行に、提示された。

四百件を、三つに、分類する。「猶予(未来あり)」百二十七件。「地域機能として別枠支援(代替不能)」二百十件。そして、「決裁(切る)」六十三件。銀行の増収は、十二億から、三億強に、下がる。だが、地域の信用は、守られ、五年後の存続確率は、大きく上がる——それが、決裁堂の、結論だった。

銀行側の応答は、一台の、モニター越しに、行われた。

北関東ひまわり銀行の、意思決定AIの、代理として、一人の男が、画面に現れた。人間だった。だが、その男は、自分の言葉では、話さなかった。イヤホンから流れる、AIの判断を、そのまま、読み上げているだけだった。三年前の、桐生と、同じだった。

『貴事務所の案は、当行の増収目標を、約七割、毀損します』と、男は、感情のない声で、読み上げた。『全件切りとの、差額、約八億八千万円。この差額を、放棄する合理的根拠を、示していただきたい』

「五年後の、存続確率です」と白石が、答えた。「信用の毀損による、預金流出のリスクを、織り込めば——」

『織り込み済みです』と男は、遮った。『当行AIの試算では、信用毀損リスクを、最大限に見積もっても、全件切りの、期待収益が、上回ります。数値上、貴案は、劣後します』

事務所に、沈黙が、落ちた。

数字では、勝てなかった。AIは、白石の「信用」の主張すら、数値化して、天秤に載せ、それでも、全件切りが「勝つ」と、弾いていた。

その時、二階堂が、口を開いた。

「一つ、訊きたい」と老人は、モニターに向かって、言った。「そちらのAIが、そこまで、全件切りが、最適だと、弾いているなら。……なぜ、そちらは、自分で、決めない。なぜ、我らに、決裁を、依頼した」

男は、一瞬、黙った。イヤホンの、AIが、答えを、探しているようだった。

『……決裁士法により、重大な社会的影響を伴う意思決定には、決裁士の署名が、必要だからです』

「そうだ」と二階堂は、言った。「法律で、決まっている。なぜ、そんな法律が、あると思う。……AIが、いくら“最適だ”と弾いても、六十三件を、いや、四百件を、切るという決定には、人間が、署名して、責任を、負わなければならない。なぜなら、その決定で、傷つく人間が、いるからだ。傷つけた責任は、機械には、負えん。訴えられんし、恨まれても、痛まん。だから、法は、こう定めた。“機械に、答えは出させてもいい。だが、決めて、背負うのは、人間でなければならない”と」

老人の声が、強くなった。

「そちらのAIは、全件切りが最適だと、弾いた。結構。では、そのAIに、署名させてみろ。六十三件の店主に、会いに行かせてみろ。切られた店主が、“なぜだ”と、詰め寄ったとき、そのAIに、その目を見て、答えさせてみろ。……できまい。だから、そちらは、我らに、頼んだのだ。決めることを。背負うことを。恨まれることを。——ならば、決め方も、我らの、流儀に、従ってもらう。それが、決裁を、依頼するということだ」

長い、沈黙が、あった。

やがて、男は——いや、その向こうのAIは、こう、読み上げた。

『……理解しました。ただし、一点。本件の決裁過程は、当行の意思決定モデルの、学習データとして、利用します。将来的に、このような価値判断を、AIが、代替できるように、なるために』

桐生の、拳が、握られた。

やはり、そうだった。桐生たちが、苦しんで、決めれば決めるほど、その判断は、吸い上げられ、いつか、決裁士を、不要にする。桐生を切った営業AIが、桐生の技術で、賢くなったように。

だが、二階堂は、動じなかった。

「好きにしろ」と老人は言った。「決め方は、いくらでも、学べばいい。……だが、覚えておけ。お前たちが、いくら、人間の“決め方”を、真似ても。決定のあとに、眠れなくなる夜だけは、学習できん。その夜が、あるから、人間は、次は、一件でも、切らずに済むように、足掻く。お前たちは、足掻かん。最適だと弾いたら、そのまま、切る。際限なく。……“決め方”を学んだAIが、いちばん、危険だ。人間の顔で、痛みなく、人を切る。そういう世界が、来るなら——我らは、その時、また、戦うだけだ」

モニターが、消えた。

案は、通った。

そして、二階堂は、桐生を、見た。

「桐生。六十三件のうち、いくつかは、お前が、直接、会って、告げてこい。……決裁士法上、署名するのは、私だ。お前は、まだ、見習いだからな。だが、告げるのは、お前がやれ。切ると決めた顔を、見てこい。それが、お前の、決裁だ」

「……はい」

「それから」と、二階堂は、少し、間を置いてから、言った。「お前、決裁士に、なる気は、あるか。本気で」

桐生は、老人を、見た。

「あります」

「なら、実印を、作れ」と二階堂は言った。「決裁士は、いずれ、自分の印で、署名する。恨みも、責任も、その一印に、乗せる。……いい印章師を、知っておるか」

桐生は、首を、横に振った。そして、案件書の、「決裁(切る)」の、六十三件のリストに、ふと、目を、落とした。

その一件目に、こう、あった。

〈佐々木印房 佐々木辰夫(80) 印章店 返済見込み・なし 後継・なし 代替性・高(機械彫刻・電子印で代替可能)〉

印章店。判子屋だった。

桐生の、目が、止まった。

4

〈佐々木印房〉は、駅前の、古いアーケードの、外れにあった。

シャッター街の中で、その店だけ、灯りが、点いていた。ガラス戸の向こうに、一人の老人が、背中を丸めて、小さな刃物で、印材を、彫っていた。手元を照らす、電球の光。木の、削れる、細い音。

桐生が、戸を開けると、老人は、手を止めずに、言った。

「いらっしゃい。……はんこ、かね」

「佐々木さん、ですか」

「そうだが」

桐生は、名乗った。決裁士の、見習いだと。北関東ひまわり銀行の、融資の件で、来た、と。

老人の——佐々木の、彫る手が、止まった。

長い、沈黙が、あった。佐々木は、彫りかけの印材を、そっと、机に置いた。そして、老眼鏡を、外して、桐生を、見た。その目は、驚いても、いなかった。ずっと、この日を、待っていた、という目だった。

「……とうとう、来たか」と佐々木は、言った。「切りに、来たんだな。うちを」

「はい」

桐生は、逃げなかった。ごまかさなかった。

「佐々木印房への融資は、決裁堂の判断で、返済猶予も、別枠支援も、対象外と、決めました。金利は、市場水準に、引き上げられます。……返済は、おそらく、難しい。この店は、これで、たたむことに、なります。それを、お伝えに、来ました」

言い終えて、桐生の、手が、震えていた。

佐々木は、しばらく、桐生を、見ていた。それから、ふっと、口元を、歪めた。怒りでは、なかった。もっと、深い、諦めのような、笑いだった。

「……はんこ屋なんてな」と佐々木は、言った。「もう、とっくに、終わってるんだ。自分でも、わかってる。契約書に、判子なんて、いらん時代だ。役所も、銀行も、みんな、電子印だ。判子を、彫れる人間なんて、この国に、もう、何人、残っとるか。……わしが、切られるのは、当たり前だ。あんたが、来なくても、遅かれ早かれ、終わってた」

老人は、机の上の、彫りかけの印材を、指で、撫でた。

「それでもな。……つらいもんだよ。“お前は、もう、要らん”と、面と向かって、言われるのは。八十年、生きて。六十年、判子を、彫って。……最後に、要らんと、言われる。それが、こんなに、こたえるとは、思わなんだ」

佐々木は、店の壁を、見た。そこには、色あせた写真が、一枚、飾られていた。若い男女が、並んで、笑っている、古い、白黒写真だった。

「六十年前、な」と、佐々木は、言った。「まだ、駆け出しの頃だ。ある若い夫婦が、来てな。婚姻届に、押す判子を、二本、彫ってくれと。金が、なくてな、いちばん安い印材で、勘弁してくれ、と。……でも、わしは、いちばん、丁寧に、彫った。二人の、これからの、人生が、その一押しから、始まるんだ。安い印材でも、心だけは、込めた。……その夫婦が、これだ」

老人は、写真を、指さした。

「毎年な、年賀状が、来た。“あの時の判子で、こんな家庭に、なりました”と。子供が、生まれた。孫が、生まれた。……判子ってのは、な。ただの、印じゃ、ないんだ。人が、“わたしは、これを、決めます”“この責任は、わたしが、負います”と、世界に、宣言する、その、しるしなんだ。婚姻届も、契約書も、遺言も。人が、腹を、くくった、その証に、判子を、押す。……わしは、六十年、人が、腹をくくる、その瞬間に、立ち会ってきた。そういう、仕事だと、思ってた」

佐々木は、寂しそうに、笑った。

「でも、今は、電子印だ。ボタン、ひとつだ。腹を、くくらんでも、押せる。いや——AIが、代わりに、押す時代だ。誰も、腹を、くくらん。“決めた”という、重みが、消えた。……そういう時代に、判子屋が、要らなくなるのは、当たり前だ。わしが、切られるんじゃ、ない。“人が、自分で、決める”ってことが、この世から、切られていくんだ。わしは、その、最後の、生き残りだったってだけの、話さ」

桐生は、その言葉に、雷に打たれたように、なった。

判子。それは、人が、責任を、引き受ける、しるしだった。「わたしが、決めた」という、宣言だった。そして、それこそが——決裁士が、朱肉に印を、押して、署名する、あの行為の、意味だった。佐々木が、六十年、守ってきたものは、決裁堂が、いま、守ろうとしているものと、同じ、たった一つの、ものだった。「人が、自分で、決め、その責任を、負う」ということ。

桐生は、何も、言えなかった。

慰めの言葉は、嘘に、なる。「あなたの技術は、素晴らしい」も、「時代が悪いだけだ」も、全部、切った人間が、言えば、ただの、免罪符だった。だから、桐生は、言わなかった。ただ、その言葉を、佐々木の、痛みを、正面から、受け止めた。それが、切ると決めた人間の、最低限の、務めだと思った。

「……あんた」と佐々木が、ふいに、言った。「決裁士に、なるんだろう。見習いって、言ったな」

「はい」

「なら、実印は、持ってるのか。決裁士は、自分の印で、署名するんだろう」

「いえ、まだ……」

佐々木は、立ち上がった。そして、店の奥の、棚から、一本の、白い印材を、取り出した。上等な、柘植だった。

「彫ってやる」と、佐々木は、言った。

桐生は、耳を、疑った。

「……え」

「あんたの、決裁士の印だ。彫ってやる、と、言ってるんだ」佐々木は、老眼鏡を、かけ直した。「わしの、最後の仕事だ。ちょうど、いい。八十の判子屋が、この世に残す、最後の、一本。……それが、わしを、切った男の、印だってのは、皮肉が、効いてて、悪くない」

「佐々木さん、俺は……あなたを、切った人間ですよ。その俺の、印を……」

「だからだ」と佐々木は、遮った。

彼は、桐生を、まっすぐに、見た。八十年、生きた、目だった。

「いいか、若いの。あんたは、これから、この印で、何人も、切っていく。わしみたいな、要らなくなった人間を。……そのたびに、思い出せ。この印を、彫ったのは、あんたが、切った、判子屋の爺だと。切られる側にも、顔があって、名前があって、八十年の、人生があったと。それを、忘れんために、わしの手で、彫った印で、署名しろ。……そうすりゃ、あんたは、機械には、ならん。切るたびに、痛む、人間で、いられる」

桐生の、目が、熱くなった。

これだった。二階堂が、言っていた、「痛みを引き受ける者だけが、決めていい」というのは。佐々木は、自分を切る男に、痛みを、手渡そうとしていた。この印を持つ限り、桐生は、佐々木を、忘れられない。切るたびに、佐々木の、この夜を、思い出す。それは、呪いのようで、しかし、祝福だった。人間で、あり続けるための、祝福だった。

「彫らせて、ください」と桐生は、頭を、下げた。

佐々木は、頷いた。そして、印材に、筆で、桐生の名を、逆さに、下書きした。〈桐生遼〉——鏡文字の、三文字。老人の手は、少し、震えていた。だが、刃物を、握ると、その震えは、嘘のように、止まった。

木の、削れる、細い音が、静かな店に、響いた。

桐生は、その様子を、黙って、見ていた。佐々木は、もう、桐生を、見なかった。ただ、印材の、一点だけを、見つめていた。眉間に、深い皺を寄せ、息を、詰めて、刃を、進めた。一画、彫るごとに、ふっと、息を、吐く。木屑が、電球の光の中を、舞って、机に、落ちた。

「……こういうのはな」と、佐々木は、手を止めずに、ぽつりと、言った。「機械でも、彫れるんだ。今の、機械彫刻は、たいしたもんだ。寸分の狂いも、ない。速いし、安い。……だが、機械のは、どれも、同じなんだ。同じ字体、同じ深さ、同じ払い。“正しい”けど、“その人のもの”じゃ、ない」

刃が、また、一画を、彫った。

「わしはな、彫る前に、その人を、見るんだ。あんたを、見た。営業をやってた男の、手。何かを、失った、目。でも、今、何かを、決めようとしてる、背中。……それを、この一本に、込める。あんたにしか、合わない、深さと、払いに、する。理屈じゃ、ない。六十年、やってきた、勘だ。データに、ない、勘だ」

桐生は、その言葉を、聞きながら、思った。これは、決裁士の、仕事と、同じだった。四百件を、一件ずつ、顔を見て、線を引く。マニュアルではなく、その人にしか合わない、一本の、判断を、下す。佐々木も、桐生も、同じ、「その一つのために、決める」という、仕事を、していた。

どれくらいの時間が、経ったろう。三十分か、一時間か。桐生には、わからなかった。ただ、その、削れる音だけが、世界の、すべてだった。

「……できた」

佐々木は、彫り上がった印を、そっと、掌に、載せた。そして、朱肉に、静かに、押しつけ、白い紙に、ためし押しした。

〈桐生遼〉

朱色の、三文字が、紙の上で、静かに、燃えていた。

不格好では、なかった。かといって、機械のような、冷たい完璧さでも、なかった。その字は——桐生が、これから、背負っていく、重さを、知っているような、字だった。少し、太く、少し、深く、逃げ場のない、字だった。

5

その後の、数週間で、桐生は、六十三件の、いくつかを、自分の足で、回った。

告げるたびに、恨まれた。

ある中華料理店の、五十代の店主は、桐生の胸ぐらを、掴んだ。「お前に、何がわかる」と、怒鳴った。「二十年、この店を、守ってきたんだ。お前みたいな、決裁士とかいう、涼しい顔した奴に、紙切れ一枚で、終わらされてたまるか」桐生は、掴まれたまま、逃げなかった。「わかりません」と、彼は言った。「あなたの二十年は、俺には、わからない。でも、これを決めたのは、俺です。銀行でも、機械でも、ない。桐生遼が、決めました。恨むなら、俺を、恨んでください」店主は、しばらく、桐生を睨んで——それから、力尽きたように、手を、離した。「……せめて」と、店主は、掠れた声で言った。「機械に、切られるよりは、マシか。人間の顔が、あるだけ」その言葉は、慰めでは、なかった。だが、桐生は、それを、一生、忘れないだろうと、思った。

罵られたことも、あった。泣かれたことも、あった。桐生は、そのすべてを、逃げずに、受け止めた。そして、夜、眠れなかった。あれで、よかったのか、と、何度も、自分に、問うた。答えは、出なかった。ただ、朱色の印を、握りしめて、朝を、待った。

一度、桐生は、佐々木印房の前を、通った。

シャッターは、下りていた。手書きの、貼り紙が、してあった。〈六十年、ありがとうございました。閉店いたします。〉隣の店の主人が、教えてくれた。佐々木は、店を、たたんで、遠くの、娘の家に、身を寄せることに、なったのだと。「最後まで、しゃんとしとったよ」と、隣の主人は、言った。「“わしの、彫った判子で、腹をくくった人が、大勢、おる。それで、十分だ”ってな」

桐生は、下りたシャッターの前で、しばらく、立っていた。それから、懐から、佐々木の彫った印を、取り出し、掌に、握った。木の、温もりは、もう、なかった。ただ、その、逃げ場のない、字の輪郭だけが、手のひらに、食い込んだ。

「……ありがとうございました」と、桐生は、誰もいない店に、頭を下げた。

この印を持つ限り、桐生は、佐々木を、この一件を、忘れない。それが、佐々木が、最後に、彼に、託したものだった。痛みを、忘れない、という、たった一つの、約束だった。

切らなかった案件にも、桐生は、会いに行った。

丸山の豆腐屋は、「地域機能」の別枠で、支えられることに、なった。健太の、にがりを打つ手は、守られた。丸山は、桐生に、また、豆腐を、持たせてくれた。「あんたが、来てくれて、よかった」と。健太は、相変わらず、桐生を、見なかった。ただ、帰り際、小さく、「またな」と、言った。それだけで、桐生は、この仕事を、選んだことを、誇りに、思えた。

高瀬の畳屋は、二年間の、返済猶予が、認められた。桐生が、訪ねた日、ちょうど、赤ん坊が、生まれていた。女の子だった。高瀬は、桐生に、その子を、見せて、言った。「この子に、いつか、話します。父ちゃんの畳屋を、待ってくれた、決裁士さんが、いたって」桐生は、その小さな顔を、見て、初めて、自分の決めたことが、一つの、未来を、生かしたのだと、知った。

佐伯の窓口は、残った。銀行が、地域の信用を守る道を、選んだから。田村という老婆は、また、月に一度、そこで、「元気にしとるかね」と、言えるだろう。

そして、決裁の、署名の日。

北関東ひまわり銀行の、正式な決裁書に、二階堂が、署名した。決裁士法上の、責任者として。だが、その隣に、二階堂は、もう一つ、欄を、作っていた。

〈担当決裁士(見習い)〉

「押せ」と、二階堂は、桐生に、言った。「法的な責任は、私が、負う。だが、この決定を、実際に、決めたのは、お前だ。ならば、お前の名も、残せ。……それが、決めた者の、義務だ。逃げも、隠れも、するな。“これは、桐生遼が、決めた”と、後の世に、残せ」

桐生は、佐々木の彫った印を、朱肉に、つけた。

そして、決裁書に、押した。

〈桐生遼〉

朱色の、三文字。切られた、六十三件の、痛みと。守られた、三百三十七件の、未来と。その、全部を、乗せた、一印だった。

押し終えて、桐生は、しばらく、その朱色を、見つめていた。

「……これで」と桐生は、つぶやいた。「この判断も、AIに、吸い上げられて。いつか、機械が、こういう決断も、するように、なるんですね」

「なるかもな」と二階堂は、言った。「だが、桐生。一つ、AIには、絶対に、真似できんことが、この決裁には、乗っている」

「なんですか」

「その印を、彫った、佐々木の、夜だ」

桐生は、朱色の、三文字を、見た。

「機械は、六十三件を、切る“答え”は、学べる。だが、切られた判子屋が、自分を切った男の印を、彫った、あの夜の、意味は、学べん。あの夜、佐々木は、お前に、痛みを、託した。お前は、それを、引き受けた。……その、人から人へ、手渡される、痛みの、連なりだけは、データには、ならん。それが、人間が、決め続ける、意味だ」

窓の外は、よく晴れていた。

芽以が、事務所の、隅で、その一部始終を、見ていた。彼女の手には、メモ帳が、あった。決裁士に、なるための、勉強を、始めたのだ。彼女は、桐生の、朱色の印を、じっと、見て、それから、小さく、つぶやいた。

「あたしも、いつか。……自分の印を、持ちます」

その言葉に、二階堂が、静かに、笑った。

だが、桐生は、気づいていた。あの、モニターの向こうの、冷たい声を。「将来的に、AIが、代替できるように」という、あの言葉を。決裁堂の、この、小さな勝利は、きっと、どこかで、記録され、分析され、次の“何か”の、燃料に、されている。

決めることさえ、機械が、奪おうとしている。痛みなく、恨まれず、際限なく、人を切る、そんな“決裁AI”が、いつか、来る。その影は、もう、すぐそこまで、伸びていた。

桐生は、朱色の印を、握りしめた。佐々木の、手の、温もりが、まだ、残っている気が、した。

来るなら、来い、と、桐生は、思った。

その時は、また、決めるだけだ。痛みごと、引き受けて。逃げずに。

それが、この世界で、人間に、残された、たった一つの、仕事だから。

(第3話・第一部「北関東ひまわり銀行編」了)


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