決裁堂 第2話「もうひとつの顔」
#創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #お仕事小説 #SF
前回まで――AIに仕事の九割を奪われた世界。責任を引き受ける職業〈決裁士〉の事務所・決裁堂に拾われた元営業マン・桐生遼は、最初の案件で、切り捨て候補の豆腐屋を訪ねた。そこで出会ったのは、AI時代にただ一つ「必要とされる居場所」を持つ青年・健太だった。桐生は、切られる側の顔を、知ってしまった。
第2話 もうひとつの顔
1
桐生遼が、目覚ましより先に、目を覚ましたのは、三年ぶりのことだった。
この三年、彼を朝、起こすものは、何もなかった。予定も、締切も、会うべき相手も、なかった。目を覚ましても、起きる理由がないから、また、目を閉じた。時間は、ただ、あった。腐るほど、あった。だが今朝、彼は、健太の顔を思い出して、目を覚ました。あの、にがりを打つ、迷いのない手を。そして、思ったのだ。あの居場所を、俺は、守れるのか、切るのか、と。その問いが、彼を、布団から、引きずり出した。
久しぶりに、朝が、重かった。重い朝を、桐生は、悪くない、と思った。
朝の決裁堂は、線香ではなく、コーヒーの匂いがした。芽以が、淹れたのだ。
「桐生さん、豆腐、どうでした」と芽以は、湯気の立つカップを差し出しながら訊いた。目が、輝いていた。「健太さんの。あたし、話、聞いて、ちょっと泣きそうになりました」
「うまかったよ」と桐生は答えた。「三年ぶりに、飯を、うまいと思った」
「でしょう!」
だが、その芽以の笑顔を、沢渡の声が、切った。
「感動してるとこ悪いが」と沢渡は、ノートパソコンから顔も上げずに言った。「その豆腐屋を、守った場合の計算、してみたか」
桐生は、沢渡を見た。
「四百件だ」と沢渡は続けた。「豆腐屋も、その健太って青年も、四百分の一だ。全部を守れば、銀行は、年に十二億の利益を、放棄する。それだけじゃない。返済不能の四百件を、不良債権として、抱え続けることになる。北関東ひまわり銀行の、自己資本比率は、いま、ぎりぎりだ。四百件を抱えたまま、時間が経てば——」
沢渡は、初めて、顔を上げた。皮肉ではなく、静かな目だった。
「銀行そのものが、傾く」
事務所が、静かになった。
「傾いたら、どうなると思う」と沢渡は言った。「この銀行は、北関東の、いくつもの過疎の町の、最後の金融機関だ。都市銀行は、とっくに撤退した。この銀行が潰れれば、その町から、金を貸してくれる場所が、消える。豆腐屋を守るために、町ごと、金融砂漠にする。……それでも、守るのが、正しいか?」
桐生は、答えられなかった。
「桐生さん」と、今度は白石が、口を開いた。彼女は、紙の資料を捲っていた。「あなたが見てきた顔は、本物よ。疑ってない。でもね、決裁士がいちばん、やってはいけないことは——見た顔だけで、決めること。あなたが見た四百件の顔の向こうに、見ていない顔が、何万もある。その人たちには、あなたが、会いに行ってないだけ」
白石は、資料の一枚を、桐生の前に置いた。数字が、並んでいた。
「四百件を守ると、傷つく人の、推計。銀行が撤退する町の、人口。融資を受けられなくなる、次の世代の事業者の数。……あなたの見た健太さんと、同じ重さの人生が、この数字の一つ一つに、ある。ただ、顔が、見えないだけ」
桐生は、その数字を、見つめた。
三千二百人。一万一千世帯。数字は、冷たかった。だが、白石の言葉は、正しかった。桐生は、健太の顔を見て、心を動かされた。だが、この一万一千世帯の顔を、彼は、一つも、見ていなかった。見ていないから、動かされていないだけだった。
「取り違えるなよ」と沢渡が言った。「AIは、この両方を、とっくに計算してる。健太も、一万一千世帯も、全部、数字にして、天秤に載せてる。感情がないから、公平にな。むしろ、俺たち人間のほうが、危うい。会った相手に、肩入れする。会わなかった相手を、忘れる。……それが、人間の“判断”の、いちばん、たちの悪いところだ」
そのとき、奥の机から、二階堂の声がした。
「だから、もう一度、行ってこい」
老人は、湯呑みを持ったまま、桐生を見ていた。
「今度は、切られる側じゃない。切ることで、割を食う側に、会ってこい。豆腐屋を守れば、代わりに、誰の居場所が消えるのか。その顔も、見てこい。——両方の顔を、見た上でなければ、人間が決める意味は、ない」
「あたしも、行っていいですか!」
芽以が、手を挙げた。
「決裁士に、なりたいんです。だったら、あたしも、顔を、見なきゃ」
二階堂は、少し、間を置いてから、頷いた。
「行ってこい。……お前も、いつか、見なきゃならん顔だ」
2
北関東ひまわり銀行の、その支店は、町外れにあった。
古い、平屋の建物。自動ドアが、開くと、中は、がらんとしていた。ATMが二台。そして、奥に、たった一つ、有人の窓口があった。
そこに、一人の女性が、座っていた。五十代の半ばだろうか。制服を着て、背筋を伸ばしている。佐伯、と名札にあった。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いて、待合の椅子に座っていた、一人の老婆が、ゆっくりと、立ち上がった。腰の曲がった、小さな老婆だった。
「佐伯さん、また、来たよ」
「田村さん。今日は、どうされました」
「振り込みが、な。孫に。……あの機械は、どうも、わからんでな」
佐伯は、微笑んで、老婆を、窓口へ導いた。そして、一つ一つ、確認しながら、手続きを進めた。急がず、老婆のペースで。老婆が、通帳の数字を指で追うのを、佐伯は、待っていた。
芽以が、そっと、老婆のそばの椅子に、腰を下ろした。桐生が止める間もなかった。
「おばあちゃん、お孫さんに、送るんですか」と芽以は、屈託なく訊いた。
老婆は、芽以を見て、皺だらけの顔を、ほころばせた。
「そうなんよ。都会にな、おってな。もう、何年も、会うとらん。……あんた、若いなあ。孫と、同じくらいや」
「あたし、二十歳です」
「ええ歳や」老婆は、しみじみと言った。「あんたら、若い子は、大変やろう。仕事も、なあ、ないんやろう。うちの孫も、ずっと、家におるらしい。……ええ時代なんか、悪い時代なんか、わしには、もう、わからんわ」
芽以は、少し、黙った。それから、静かに、言った。
「あたし、なりたい仕事、見つけたんです」
「ほう」
「人が、決めなきゃいけないことを、決める仕事です。まだ、見習いですけど」
老婆は、その言葉の意味は、わからなかったろう。だが、芽以の、まっすぐな目を見て、こう、言った。
「そうか。……ええな。若い子が、やりたいこと、見つけるんは、ええことや。頑張りや」
芽以は、頷いた。何かを、こらえるように。
やがて、手続きを終えた老婆は、帰り際、必ず、こう言った。窓口の、佐伯に向かって。
「元気にしとるかね、って。……孫に、伝えといて。振込のとこに、そう、書いといて」
「はい」と佐伯は、優しく答えた。「ちゃんと、お伝えしますね」
老婆が、小さな背中を丸めて、自動ドアの向こうへ消えると、佐伯は、桐生と芽以に、向き直った。桐生が、決裁士だと名乗り、来意を告げると、佐伯の顔に、疲れたような、諦めたような色が、浮かんだ。
「……ああ。とうとう、その話ですか」
佐伯は、静かに言った。
「本部から、聞いてます。融資の、見直しの話。……ええ、わかってるんです。あの四百件を、抱えたら、うちの銀行は、もたない。もたなくなったら、まず、切られるのは、こういう支店ですよ。有人の、窓口」
「有人の窓口は」と桐生は訊いた。「もう、少ないんですか」
「この地区で、うちだけです」と佐伯は言った。「AIの窓口で、済む人は、みんな、そっちに行きました。ここに来るのは、田村さんみたいな、機械が、どうしても、使えない人ばかり。九十を超えて、指も震えて、目も、よく見えない。そういう人にとって、この窓口だけが、お金と、世界の、つながりなんです」
佐伯は、窓口の、木のカウンターを、そっと撫でた。
「田村さんね」と佐伯は、静かに言った。「ここに来て、あの一言を言うのが、生きがいなんですよ。振り込みに、そんな言葉、いらないでしょう。AIの窓口なら、三秒で終わる。金額を打ち込めば、それで、済む。でも、田村さんは、その言葉を、言いたいんです。誰かに、聞いてほしいんです。孫を、思ってることを。……私は、その、聞き役なんですよ。それだけの、仕事です。でも、この世界に、その“聞き役”を、必要としてる人が、まだ、いるんです」
芽以が、小さく、息を呑んだ。
「あの豆腐屋さんを、守るためにね」と佐伯は言った。桐生が、まだ何も言っていないのに。「うちの銀行が、傾いて。この窓口が、閉まったら。……田村さんは、どこに、行けばいいんでしょうね」
桐生は、言葉を、失った。
これも、顔だった。健太と、同じ重さの、顔だった。
健太を守れば、佐伯の窓口が消える。佐伯の窓口を守れば、健太の居場所が消える。どちらも、AIには、代われない。どちらも、この世界で、たった一つの、「人間にしか、できないこと」を、していた。そして、その二つは、天秤の、左右に、載っていた。片方を、選べば、片方が、落ちる。
「決裁士さん」と佐伯は言った。「一つだけ、お願いが」
「なんでしょう」
「どっちを選んでも、いいんです。それが、お仕事だから。……ただ、田村さんのことは、忘れないでください。数字じゃなくて。田村さんっていう、名前で。孫に、“元気にしとるかね”って言いたい、おばあさんが、いたことを」
「佐伯さんは」と、桐生は、思わず、訊いた。「この支店が、閉まったら……あなたは、どうなるんですか」
佐伯は、少し、驚いた顔をした。それから、寂しそうに、笑った。
「私のことなんて、いいんですよ。……でも、そうですね。私も、たぶん、行き場は、ないでしょうね。銀行の仕事は、もう、ほとんど、機械がやってますから。私みたいに、田村さんの話を、聞くしか能のない行員なんて、この世界には、もう、要らない。私も、あなたの言う“九割”の側の、人間ですよ。この窓口だけが、私が、まだ、誰かに“ありがとう”って言ってもらえる、最後の場所なんです」
彼女は、また、木のカウンターを、撫でた。
「でも、私の心配は、しないでください。私は、大人だから。自分の食い扶持くらい、なんとかします。……問題は、田村さんなんです。あの人には、ここしか、ないんです。それだけは、どうか」
桐生は、頷くしかなかった。
佐伯もまた、切られる側だった。だが、彼女は、自分のことを、天秤に載せなかった。田村のことだけを、載せた。その、慎ましさが、かえって、桐生の胸に、重く、残った。
帰り際、芽以は、振り返って、田村という老婆が座っていた、空の椅子を、じっと見ていた。
3
二軒目は、畳屋だった。
〈高瀬畳店〉。若い夫婦が、継いだ店だった。夫の高瀬は、二十代の後半。日に焼けた、まっすぐな目をした男だった。妻は、大きなお腹をしていた。臨月が、近いらしかった。
高瀬は、桐生の来意を聞くと、意外にも、笑った。
「ああ、うちも、その四百件の中ですか。まあ、でしょうね。返済、ずっと、遅れてますから」
「潰れても、いいと」桐生は、慎重に訊いた。
「いや」と高瀬は、きっぱりと言った。「潰す気は、ないです。ぜんぜん」
彼は、作業場を、ぐるりと、見回した。積まれた、青い畳表。使い込まれた、道具たち。
「俺、前は、東京で、データ分析の仕事してたんですよ。AIに、真っ先に、食われる仕事です。案の定、食われました。……で、田舎の、じいちゃんの畳屋を、継ごうって、嫁と決めたんです。周りには、馬鹿だって、言われました。畳なんて、斜陽産業だ、AI時代に、なんで、手仕事なんかって」
「なぜ、畳を」
「AIに、できないからですよ」
高瀬は、当たり前のことのように、言った。
彼は、一枚の畳表を持ってきて、桐生の前に広げた。い草の、青い匂いが、立った。桐生が、思わず、息を吸い込むと、高瀬は、少し、嬉しそうにした。
「いい匂いでしょう。これ、機械じゃ、出せないんです。い草を、いつ刈るか、どう干すか、湿気をどう抜くか。ぜんぶ、その年の、天気次第でね。データにない、その年だけの勘が、いるんです。……畳はね、その家の、湿気とか、日当たりとか、住む人の、暮らし方に、合わせて、作るんです。工場の、規格品じゃ、だめなんだ。この家の、この部屋の、この人のための、一枚。それは、たぶん、AIには、まだ、できない。いや、できても、頼みたくないでしょう、そんなの。人が、心を込めて、作ったって、わかってるから、畳の上で、人は、安心して、眠れるんです」
奥から、お茶を運んできた妻が、静かに、口を添えた。
「この人ね」と妻は、夫を見て、笑った。「東京にいた頃より、ずっと、いい顔してるんですよ。あの頃は、モニターばっかり見て、疲れた顔してた。今は、手が、荒れて、真っ黒だけど。……毎晩、“今日の畳は、うまくいった”って、嬉しそうに、話すんです。あたし、それを聞くのが、好きで」
高瀬は、照れくさそうに、妻の、お腹を、見た。
「この子が、大きくなる頃には、もっと、AIが、なんでもやる世界に、なってるでしょう。人間の仕事なんて、ほとんど、残ってないかもしれない。……でも、俺は、この子に、見せてやりたいんです。父ちゃんは、機械に、できないことを、してるって。父ちゃんの手が、作ったものを、喜んでくれる人が、いるんだって。それが、どんなに、割に合わなくても」
桐生は、その言葉に、打たれた。
これは、豆腐屋の丸山とも、違った。丸山は、消えゆく、過去だった。だが、高瀬は——AIの時代に、あえて、手仕事を選んだ、若い、未来だった。彼を切ることは、時代遅れの商売を、安楽死させることでは、なかった。ありえたかもしれない、一つの未来を、生まれる前に、殺すことだった。
「返済は」と桐生は、それでも、訊かなければならなかった。「見込みは、あるんですか。正直に」
高瀬は、少し、黙った。それから、正直に、答えた。
「……厳しいです。今のままじゃ。あと二年、待ってもらえれば、常連が、ついてきてる。回ると思う。でも、二年、待ってもらえなきゃ、無理だ。銀行が、今すぐ、金利を上げて、回収に来たら……うちは、終わりです。この子が、生まれる前に」
桐生は、その、大きなお腹を、見た。
まだ、顔もない。名前もない。だが、それも、一つの、顔だった。これから、生まれてくる、顔だった。
「決裁士さん」と、高瀬が、ふいに、言った。今までとは、違う、静かな声だった。「一つ、訊いていいですか」
「はい」
「あなたたち決裁士って、結局、なんなんですか」
桐生は、言葉に詰まった。
「銀行は、AIですよね。切りたいのは、銀行だ。でも、銀行は、自分の手を、汚したくない。“非情な銀行”って、恨まれたくない。だから、あなたたちに、頼むんでしょう。切る役を。……あなたたちは、恨まれ役を、外注されてるだけじゃ、ないんですか。銀行が、責任を、逃れるための。人間の顔をした、言い訳の、ための」
痛いところを、突かれた。
桐生自身、そう思わなかったわけでは、なかった。決裁士とは、銀行が背負いたくない責任を、肩代わりする、便利な生贄では、ないのか。三年前、彼が、AIの決定に体温を貸す“人形”だったように——今もまた、AIの決定に、恨まれ役の顔を貸す、“人形”なのでは、ないのか。
「……わかりません」と桐生は、正直に、言った。営業なら、ここで、うまく、切り返しただろう。だが、彼は、そうしなかった。「あなたの言う通りかも、しれない。俺は、まだ、見習いで……この仕事の意味を、探してる途中なんです。ごまかしても、しょうがない。だから、正直に、言います。わかりません」
高瀬は、その答えに、少し、意外そうな顔をした。それから、ふっと、力を抜いて、笑った。
「……正直な人だな、あなたは」
その言葉は、豆腐屋の丸山が、桐生に言ったのと、同じ言葉だった。
4
帰りの車の中で、芽以は、ずっと、黙っていた。
窓の外を、流れていく、灰色の町並みを、見ていた。潰れた店。錆びた看板。誰も歩いていない、道。
「桐生さん」と、芽以は、ぽつりと、言った。「あたし、わからなくなっちゃいました」
「何が」
「決裁士って、カッコいい仕事だと思ってたんです。人間にしか、できない仕事。……でも、今日、見て、思ったんです。これ、どっちを選んでも、誰かが、泣くんですよね。健太さんを守れば、田村さんのおばあちゃんが、行き場をなくす。田村さんを守れば、高瀬さんの、赤ちゃんの未来が、消える。……どっちも、悪くないのに。どっちも、頑張ってるのに」
芽以の、声が、震えた。
「だったら、あたし、思っちゃったんです。……なんで、人間が、決めるんですか」
桐生は、ハンドルを、握る手に、力を込めた。
「機械に、決めてもらった方が、よくないですか」と芽以は続けた。「AIなら、感情がないから、公平に、決めてくれる。健太さんにも、田村さんにも、高瀬さんにも、肩入れしない。数字だけで、いちばん、傷つく人が、少ない方を、選んでくれる。……そしたら、誰も、恨まれないじゃないですか。決めた人が、いないんだから。“機械が、そう言ったから”で、済むじゃないですか。その方が……みんな、楽じゃないですか」
車内が、静まり返った。
桐生は、答えられなかった。
芽以の言っていることは、正しかった。恐ろしいほど、正しかった。誰も、決めなければ。誰も、選ばなければ。誰も、恨まれない。機械が、公平に、切り捨ててくれる。人間は、ただ、その結果を、受け入れればいい。“仕方ない”と。“AIが、そう判断したのだから”と。それは、とても、楽な、世界だった。
そして桐生は、気づいた。
——それは、この三年間、世界が、選んできた道そのものだった。
九割の仕事が、消えたとき。誰も、決めなかった。“AIの方が、優秀だから”“効率が、いいから”“仕方ない”。誰も、責任を、負わなかった。桐生を切った、あの役員でさえ、“会社の判断です”と言った。会社とは、誰だ。もう、AIだ。つまり、誰も、決めていなかった。何千万人の人生が、変わったのに、決めた人間が、どこにも、いなかった。
だから、こんなにも、静かに、世界は、壊れたのだ。革命も起きず、暴動も起きず。恨む相手が、いなかったからだ。決めた人間が、いなかったからだ。
「……わからない」と、桐生は、正直に言った。「芽以ちゃんの言うことが、正しいのか、間違ってるのか。俺には、まだ、わからない。でも」
彼は、前を、見た。
「“わからないから、機械に決めてもらう”のだけは……なんか、違う気がするんだ。うまく、言えないけど」
芽以は、それ以上、何も、言わなかった。
5
その夜、決裁堂に、四人が、残った。
桐生は、二軒の顔を、報告した。佐伯の窓口。田村という老婆。高瀬夫婦と、まだ生まれぬ子。話しながら、彼は、自分が、迷路に、入り込んでいくのを、感じた。
「……正直に、言います」と桐生は言った。「俺には、決められません。健太さんも、田村さんも、高瀬さんも、みんな、正しい。どっちを切るのも、間違ってる気がする。両方に、理があるなら……俺には、決めきれない」
すると、白石が、静かに言った。
「桐生さん。それは、いちばん、ずるい答えよ」
桐生は、顔を上げた。
「“決められない”は、決断じゃない」と白石は言った。「決めないでいる間も、時間は進む。銀行は、判断を待ってる。あなたが、決めなければ——どうなると思う? 最終的には、AIが出した“最適解”が、そのまま、通るの。誰も、止めなかったから。あなたが、決めないことは、AIに、決めさせることと、同じよ。いえ、もっと、たちが悪い。自分では、決めていないつもりで、いちばん、冷たい答えに、ゴーサインを、出してるんだから」
沢渡が、続けた。
「“決められない”って言えば、優しい人間で、いられる。誰も、切らずに、済む。手が、汚れない。……でもな、桐生。その間に、機械が、勝手に、いちばん効率のいい方法で、健太も、田村も、高瀬も、まとめて、切っていくんだ。お前が、目を、つぶってる間に。お前は、“決めなかった”んじゃない。“機械に、決めさせた”んだ。そして、そのことに、責任すら、感じずに、済む。……それが、いちばん、罪深い」
桐生は、殴られたような、気がした。
「……じゃあ、どうすれば、よかったんだ」
思わず、声が、荒くなった。三年ぶりの、感情だった。
「両方に、顔があるんだぞ。健太にも、田村にも、高瀬にも。どっちを切っても、間違ってる。なのに、決めろって……そんなの、ただの、拷問じゃないか。俺が、何様だっていうんだ。俺に、誰かの人生を、切る資格なんて——」
「ないさ」と沢渡が、静かに、遮った。「資格なんて、誰にもない。神様でもなけりゃな。だが、誰かが、決めなきゃならん。資格のある奴が、いないからって、決めないでいれば、機械が、勝手に、決める。……俺も、同じことを、思ったよ」
沢渡の声が、低くなった。桐生は、初めて聞く、この男の、素の声だと思った。
「前に、話したろう。俺が、エンジニアだった頃、決済システムの分岐を、消せなかった話。年に、四人。切り捨てられる客が、いた。俺は、“そんなの、決められない”と思った。四人の顔なんて、知らない。だから、決めなかった。……そしたら、AIが、決めた。俺が、目を、つぶってる間に、あっさりと。四人は、切られた。俺は、決めなかったんじゃない。逃げたんだ。そして、逃げた俺の“判断しない判断”ごと、AIは、学習した。“この分岐は、人間も、庇わなかった”ってな。俺の、逃げが、機械の、非情を、正当化したんだ」
沢渡は、桐生を、見た。
「決めないのは、優しさじゃない。俺は、それを、四人の顔も知らないまま、思い知った。……お前は、まだ、間に合う。顔を、知ってるんだから」
桐生は、言葉を、失った。
白石が、静かに、付け加えた。
「私たちはね、桐生さん。全員、一度、逃げた人間なの。決めるべきときに、機械のせいにして、逃げた。その後悔があるから、ここにいる。……あなたを、責めてるんじゃないの。同じ後悔を、してほしくないだけ」
給湯室の陰で、芽以が、息を殺して、聞いていた。その顔は、青ざめていた。車の中で、自分が言った言葉——“機械に決めてもらった方が、楽じゃないですか”——が、どういう意味だったのか、いま、彼女は、理解しようとしていた。
決めないことは、罪だった。
車の中で、芽以が言った、あの言葉。“機械に決めてもらった方が、楽じゃないですか”。あれは、優しさの、顔をした、いちばん、残酷な選択だった。誰も恨まれない世界とは、誰も、責任を負わない世界だった。そして、誰も責任を負わない世界では、機械は、際限なく、人を、切り捨てていく。止める者が、いないから。痛む者が、いないから。
「二階堂さん」と桐生は、老人を、見た。「俺は、どうすれば」
二階堂は、長い間、黙っていた。それから、口を、開いた。
「明後日が、合議だ」と老人は言った。「白石、沢渡、そして、お前も、意見を言う。評決は、我ら三人の決裁士が下すが——お前が見てきた顔が、その評決を、動かす。だから、逃げるな。“決められない”で、逃げるな。健太を切るなら、切ると言え。田村を切るなら、切ると言え。どちらかを、名指しで、切ると、言える人間に、なれ。……それが、決裁士だ」
老人は、机の上の、一通の書類を、桐生の前に、滑らせた。
「それから、桐生。……これを、見ておけ」
桐生は、その書類を、手に取った。北関東ひまわり銀行からの、正式な、依頼書だった。そこには、こう、書かれていた。
〈本件決裁の判断過程および結論は、当行の意思決定モデル改善のため、匿名化の上、学習データとして利用させていただきます〉
桐生の、指が、止まった。
「……学習、データ」
「そうだ」と二階堂は言った。「銀行のAIは、この案件を、決められん。正解のない、価値判断だからな。だから、人間に、決めさせる。そして——その、人間の決め方を、学ぶ。何百件、何千件と、決裁士に決めさせ、その判断を、吸い上げていく。いつか、AIが、人間と同じように、“決められる”ように、なるために」
桐生は、その一文を、見つめていた。
三年前の、あの日と、同じだった。
大阪の会議室。彼が、二十年かけて磨いた、営業の技術。相手の顔を読み、間を計り、契約を取る、その全部。あれは、営業AIの、教材になった。桐生が、優秀であればあるほど、AIは、賢くなった。そして、賢くなったAIが、桐生を、切った。桐生は、自分を、不要にするために、働いていた。
いま、また、同じことが、起きようとしていた。
桐生が、この案件を、真剣に、悩み、苦しみ、決めれば決めるほど——その判断は、吸い上げられ、AIを、賢くする。いつか、AIが、決裁士すら、不要にするために。桐生は、また、自分を、不要にするために、決めようとしていた。
「……なあ、二階堂さん」と桐生は、掠れた声で、言った。「じゃあ、俺たちの仕事も、いつかは、AIに、奪われるんですか。決めることさえ、機械が、やるように、なるんですか。だったら、俺たちが、こんなに、苦しんで、決める意味は、どこに——」
「あるさ」
二階堂は、即座に、言った。強い、声だった。
「たとえ、AIが、人間の“決め方”を、真似られるようになっても。一つだけ、真似られんものが、ある」
老人は、桐生を、まっすぐに、見た。
「間違えたとき、痛むことだ」
事務所の、空気が、張り詰めた。
「AIが、どれだけ、人間の判断を、学んでも。あいつは、間違えても、痛まん。切り捨てた田村を、夜、思い出して、眠れなくなることもない。あれで、よかったのかと、一生、問い続けることもない。……だが、人間は、痛む。その痛みが、あるから、人間は、次は、少しでも、誰も切らずに済む道はないかと、必死で、探す。世界が、際限なく、人を切り捨てていかないための、最後の、歯止め。それが、痛みを、引き受ける、たった一人の、人間だ」
二階堂は、静かに、言った。
「機械に、決め方は、教えられる。だが、痛みは、教えられん。だから、決めるのは——痛める者で、なければ、ならんのだ」
桐生は、しばらく、黙っていた。それから、高瀬に言われた言葉を、口にした。
「今日、切られる側の、若い男に、言われました。“あなたたち決裁士は、銀行に、恨まれ役を、外注されてるだけじゃないか”って。……銀行が、責任を、逃れるための、生贄じゃないか、と。俺は、否定できなかった。二階堂さん。俺たちは、ただの、恨まれ役なんですか」
二階堂は、ふっと、笑った。
「半分は、当たっとる」
「半分」
「銀行は、確かに、自分で決めたくないから、我らに、頼む。そこは、その若造の、言う通りだ。……だが、肝心なところが、違う。恨まれ役の生贄なら、機械でも、いい。“決裁AIが、こう決めました”と、看板を、出せばいいんだ。誰も、恨まれん。実際、そういう動きも、始まっとる」
老人の目が、鋭くなった。
「だが、我らは、生贄じゃない。我らは、恨みを引き受ける代わりに、一つ、条件を、握ってる。“その決定を、本当に、決めるのは、我らだ”という条件を、な。銀行の言いなりには、ならん。銀行が“全部、切れ”と言っても、我らが“否”と言えば、通らん。それが、決裁士法だ。恨みを引き受ける者にだけ、決定の、最終権限が、与えられる。……恨まれ役と、決定者は、同じ人間で、なければ、ならん。それが、この社会が、最後に、守った、一線だ」
二階堂は、湯呑みを、置いた。
「痛みを引き受ける者が、決める。決める者が、痛みを引き受ける。この二つを、切り離した瞬間に——世界は、誰も責任を負わない、機械の楽園に、なる。その若造に、今度、会ったら、言ってやれ。“俺は、外注された生贄じゃない。恨まれる代わりに、俺が、決める”と。……それを、言い切れたとき、お前は、本物の決裁士だ」
桐生は、その書類を、握りしめた。
明後日、合議が、始まる。彼は、決めなければ、ならない。健太か、田村か。過去か、未来か。どちらを切るのか。そして、その判断は、吸い上げられ、いつか、彼自身を、不要にするだろう。
それでも——決めるのだ。
痛みごと、引き受けて。恨まれることごと、引き受けて。逃げずに。
それが、この世界で、まだ、人間に、残された、たった一つの、仕事だから。
芽以が、給湯室から、そっと、顔を出していた。彼女は、二階堂の言葉を、聞いていた。その目は、もう、迷っていなかった。何かを、まっすぐに、見据えていた。
「あたし」と芽以は、小さく、しかし、はっきりと、言った。「やっぱり、決裁士に、なります」
窓の外で、雨が、降り始めていた。
6
決裁堂を出ると、雨は、本降りになっていた。
桐生は、傘を、ささなかった。灰色の町を、濡れながら、歩いた。三年前まで、彼は、雨に濡れることを、嫌った。スーツが、湿る。髪が、崩れる。契約に、響く。営業マンは、いつも、乾いて、完璧で、なければならなかった。
だが、いまは、濡れても、よかった。誰も、彼を、値踏みしなかった。演出は、もう、いらなかった。
歩きながら、桐生は、二人の顔を、思い浮かべた。
健太。にがりを打つ、あの、迷いのない手。
田村。“元気にしとるかね”と、孫に伝えたい、老婆。
そして、まだ生まれぬ、高瀬夫婦の、子。
明後日、彼は、この誰かを、切る。自分の手で、名指しで。そして、その痛みを、一生、抱えて、生きる。その判断は、機械に、吸い上げられ、いつか、彼を、不要にする。
それでも、と桐生は、思った。
雨の中で、彼は、初めて、営業マンでも、失業者でも、ない、何者かに、なろうとしていた。決める者。痛む者。恨まれる者。逃げない者。
三年前、大阪のエレベーターホールで、彼は、自分が、機械に体温を貸すだけの、人形だと、知った。
いま、彼は、機械が、決して代われないものに、なろうとしていた。
たとえ、それが、いつか、機械に、奪われるとしても——奪われるまでの間、それは、確かに、人間の、仕事だった。
桐生は、濡れた顔を、上げた。夜空から、雨が、まっすぐに、落ちてくる。冷たかった。だが、その冷たさが、彼が、生きて、この世界に、必要とされている、証のように、思えた。
明後日の、合議に向けて。
桐生遼は、決めるために、歩いていた。
(第2話 了)
