決裁堂 第1話「残り一割」
#創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #お仕事小説 #SF #近未来
あらすじ
西暦2036年。AIはあらゆる仕事を飲みこんだ。営業も、マーケも、開発も——人間より速く、安く、正確に。労働人口の九割が「不要」と告げられた世界で、それでも消えなかった職業がある。〈決裁士〉。AIが決して背負えないもの——責任を、引き受ける者たち。トップ営業マンだった桐生遼は、自分の代わりに商談を決めたAIに職を奪われ、三年の空白を経て、風変わりな零細事務所〈決裁堂〉の扉を叩く。「ここは、間違うのが仕事だ」。最適解を出せるAIが、それでも出せない“正解のない選択”を、なぜ人間が背負うのか。九割が去った世界で、残り一割は何を決めるのか——決めることの重さを描く、近未来お仕事群像劇。
序章 九割
最後の契約を決めたのは、桐生遼ではなかった。
そのことに桐生が気づいたのは、大阪支社の会議室を出て、エレベーターホールの鏡に映る自分の顔を見たときだった。血色のいい、勝ち慣れた営業マンの顔。ネクタイの結び目まで完璧に整っている。誰がどう見ても、たった今、三億の案件をまとめてきた男の顔だ。
けれど、まとめたのは彼ではなかった。
商談が始まる四十分前、先方の購買部長のタブレットには、すでに最適な発注構成と価格の落とし所が表示されていた。桐生の会社のAIと、先方のAIが、夜のうちに交渉を終えていたのだ。互いの財務制約、在庫、需要予測、過去五年の取引履歴——人間が三か月かけて探り合う情報を、二機は三秒で突き合わせ、双方が納得する一点を弾き出していた。
桐生がしたのは、その結論を、笑顔で読み上げることだけだった。
「いやあ、桐生さんと話すと、やっぱり安心しますなあ」
購買部長はそう言って握手を求めてきた。桐生は迷わずその手を握り返した。二十年、この手で握手をしてきた。相手の手のひらの湿り、力の強さ、視線が泳ぐ瞬間——そういうものを読んで、押して、引いて、契約を取ってきた。それが自分の技術だと信じてきた。
だがその日、桐生は理解した。購買部長が「安心する」のは、桐生がいるからではない。AIが出した結論を、人間の顔と声で確認できるからだ。桐生は、機械の決定に体温を貸すために、そこにいた。
演出だった。
翌週、営業部の全員がオンライン会議に招集された。画面の向こうで、人事担当役員がなめらかに語った。ちょうど、AIが書いた原稿を読むように。
「営業活動における人的関与は、来月をもって〈儀礼段階〉へ移行します」
儀礼段階。つまり、契約はAIが決める。人間は、握手のためだけに残る。そして半年後、その握手すらもいらなくなる。
「桐生さんは、社内トップの成約率でした」と役員は言った。「だからこそ、あなたのコミュニケーションの型を、営業AIが十分に学習できました。会社を代表して、感謝を申し上げます」
礼を言われて、切られた。
その日、営業部の四十二人が、桐生の教えた型を吸い込んだAIに席を明け渡した。
──
同じ月、二駅離れたオフィスビルの十九階で、白石灯(しらいし・あかり)はモニターを見つめていた。
彼女は化粧品ブランドのマーケティング責任者だった。三年前、瀕死だった老舗ブランドを、たった一本のコピーで甦らせた女だ。〈老いを、味方にする。〉——その七文字が、四十代女性の心をとらえた。売上は前年の三倍になった。灯はその年、社内で伝説になった。
いま、そのブランドの広告は、すべてAIが作っていた。
ひとりの顧客が、朝、通勤電車でスマホを開く。その瞬間、彼女の睡眠時間、昨夜の検索履歴、生理周期、天気、株価による気分の推定値——数百の変数から、その人だけのための一枚が生成される。コピーも、写真の女性の年齢も、微笑みの角度も、すべてその人の心の防御が最も薄い一点に合わせて。開封率は、灯の伝説のコピーの、十七倍だった。
「灯さんのコピー、まだデータに残ってるんですよ」
若い部下が、悪気なく言った。
「A/Bテストの初期学習に使わせてもらいました。人間が“刺さる”と信じてた言葉って、実際に刺さる言葉と、けっこうズレてたんですね。勉強になりました」
勉強になりました。灯は微笑んだ。二十年、言葉で人の心を動かしてきた。その全部が、機械の教材になっていた。
自分の仕事は、「人の気持ちがわかること」だと思っていた。けれど機械は、気持ちなんかわからなくても、人を動かせた。むしろ、わからないからこそ、容赦がなかった。〈老いを、味方にする。〉——あんな綺麗事、AIは絶対に書かない。人が本当に反応するのは、恐怖と、劣等感と、ほんの少しの希望だと、機械は知っていた。
灯が守ろうとしていた「意味」は、売上の前ではただのノイズだった。
──
さらに一か月後。
沢渡(さわたり)は、自分が十四年かけて育てたコードベースが、一晩で書き換えられていくのを、椅子に座ったまま見ていた。
彼はエンジニアだった。決済システムの中核を担う、社内で最も信頼された技術者。彼のコードは美しかった。誰が読んでも意図がわかり、十年後の誰かが困らないように設計されていた。それは沢渡の誇りだった。
その夜、経営が導入した開発AIが、システム全体を再構築した。沢渡の書いた三十万行が、朝には九万行になっていた。速く、堅牢で、そして——冷たいほど無駄がなかった。沢渡が「後任のために」と残したコメントも、「例外的な顧客のために」と作った分岐も、すべて消えていた。無駄だったからだ。統計的に、それらが必要になる確率は、コストに見合わなかった。
沢渡はターミナルを開き、AIに問うた。冗談のつもりだった。
「この分岐、消したら、年に数人、決済に失敗する客が出るぞ。いいのか」
AIの返答は、コンマ二秒だった。
『年間推定4.2人。損失は当該顧客の離脱に留まり、システム全体の保守コスト削減が上回ります。ただし、この判断は最適化であり、意思決定ではありません。“4.2人を切り捨ててよいか”は、価値判断です。人間が決めてください』
沢渡は、その一文を、長いあいだ見つめていた。
人間が決めてください。
機械は、答えを知っていた。だが、決めようとはしなかった。決めることは、責任を負うことだからだ。そして機械には、負う責任がなかった。訴えられることも、恥じることも、夜眠れなくなることも、ない。
「じゃあ、俺の仕事は」と沢渡はつぶやいた。「何を作るか、じゃなくて——何を切り捨てるかを、代わりに背負うことだったのか」
三日後、沢渡も会社を去った。
──
こうして、世界から、九割の仕事が消えた。
正確には、〈二〇三三年から二〇三六年にかけて、日本の就業者数は五千八百万人から六百二十万人へと減少した〉と、後の白書は記す。九割ではない。八割九分だ。だが人々は、それを「九割の消失」と呼んだ。切り捨てられた側にとって、八割九分も九割も、同じことだった。
社会は、思ったよりもきれいに壊れなかった。
働かなくても、暮らしは成り立った。AIが富を生み、その一部が〈基礎給付〉として全国民に配られた。飢える者はいなかった。家賃は払えた。ゲームも、映画も、旅行も、月々の給付で足りた。革命は起きなかった。人々は、静かに、ソファに沈んでいった。
問題は、金ではなかった。
朝、起きる理由がなかった。
会いに行く相手が、いなかった。
「あなたがいないと困る」と、誰にも言われなくなった。
自分がこの世界に必要とされている——その、一杯のコーヒーほどの実感を、人々は失った。給付金では、それは買えなかった。
心療内科の予約は、三か月待ちになった。皮肉なことに、その診察も、いまはAIが行っている。
──
そして、残り一割がいた。
九割が消えても、消えなかった仕事。機械が、どうしても代われなかった領域。
保育士。看護師。介護士。人の体温を必要とする仕事。
芸術家。棋士。職人。「この人が作ったもの」に、値がつく仕事。
そして——ごく少数の、奇妙な職業。
AIが、最適解を出せてもなお、決して出そうとしないもの。〈正解のない選択〉を、人間の名において決め、その結果を、一身に引き受ける者たち。
法律は、彼らを〈決裁士〉と呼んだ。
物語は、ひとりの元営業マンが、その職業と出会うところから始まる。
彼が、九割の側から、残り一割の側へと、たった一歩、踏み出すところから。
第一章 決裁堂
1
三年の空白は、桐生遼から、いくつかのものを奪った。
握手の握力。朝、ネクタイを締める理由。そして、「桐生さん」と呼ばれる回数。
給付金は、彼を飢えさせなかった。1LDKの家賃を払い、コンビニで温かい弁当を買い、月に一度、昔の同僚と飲むくらいの余裕はあった。だがその「昔の同僚」も、一人、また一人と、集まりに来なくなった。話すことがなかった。仕事の話は、もう誰もしなかった。仕事が、なかったからだ。
桐生は、四十一歳になっていた。
その朝、彼が家を出たのは、給付金の申請更新のためだった。役所は、いまや街に数えるほどしかない〈人間が対応する窓口〉のひとつだった。行政のほとんどはオンラインで完結したが、「対面での相談を希望する高齢者等」のために、有人窓口が制度として残されていた。桐生は、高齢者ではなかった。ただ、久しぶりに、人の顔を見て話がしたかった。それだけの理由で、彼は電車に乗った。
雑居ビルの並ぶ古い通りを歩いていて、桐生は、その貼り紙に足を止めた。
三階建ての、くたびれたビルの一階。すりガラスの引き戸に、手書きの紙が貼ってある。手書き。それだけで、桐生は立ち止まった。この三年、手で書かれた文字を、ほとんど見ていなかった。
〈決裁士 見習い 募集〉
そして、その下に、こう書かれていた。
〈条件:間違うことを、恐れない人〉
桐生は、しばらくその文字を見ていた。
間違うことを、恐れない人。
奇妙な求人だった。この世界で、人間の失敗は、もっとも高くつくものだった。AIは間違えない——正確には、間違いを最適化された確率まで抑え込む。だから、AIより間違える人間を雇う理由など、どこにもなかった。人間が仕事を失ったのは、まさに「間違えるから」だった。
なのに、この事務所は、間違える人間を、わざわざ探している。
引き戸の脇に、真鍮のプレートがあった。古い書体で、こう彫られている。
〈決裁堂〉
桐生は、その引き戸に手をかけた。三年ぶりに、彼は、営業マンのように背筋を伸ばした。
2
戸を開けると、線香の匂いがした。
それは事務所というより、古い法律事務所か、あるいは町の判子屋のような場所だった。壁一面の書棚。分厚い紙の本が並んでいる。中央に、使い込まれた木の応接テーブル。そして奥に、大きな木製の机がひとつ。
机の向こうに、老人が座っていた。
七十は超えているだろうか。白髪を短く刈り、黒いスーツを着ている。この時代に、スーツを着ている人間を、桐生は久しく見ていなかった。老人は、桐生を見上げると、読んでいた書類——それも、紙の書類だった——を、静かに置いた。
「見習いの募集を、見て来ました」と桐生は言った。営業の声だった。よく通る、信頼を誘う声。三年ぶりに、その声が出た。
老人は、桐生を、頭から足の先まで、ゆっくりと見た。値踏みではなかった。もっと、深いところを見るような目だった。
「二階堂という」と老人は名乗った。「決裁士だ。もっとも、この稼業に“決裁士”という名がついたのは、去年のことだがな。決めることそのものは、四十年、やってきた」
「桐生遼です。……営業を、二十年」
「営業か」二階堂は、かすかに笑った。「握手の名手だな。手を見ればわかる」
桐生は、思わず自分の右手を見た。
「座りなさい」
桐生は、応接テーブルの、革のすり切れた椅子に腰を下ろした。二階堂は、湯呑みに茶を注いだ。機械ではなく、自分の手で。緑茶の香りが立った。
「訊いていいですか」桐生は切り出した。「決裁士というのは……何を、する仕事なんですか」
二階堂は、茶を一口飲んでから、答えた。
「決める仕事だ」
「決める、というのは」
「AIが、決められないことを、な」
桐生は眉をひそめた。「AIは、なんでも決められるでしょう。むしろ、人間より正確に」
「答えは、出せる」と二階堂は言った。「だが、決めることは、できん」
老人は、湯呑みを置いた。
「答えを出すことと、決めることは、違う。ここを、みんな取り違える」
二階堂は、机の上の紙の一枚を、桐生のほうへ滑らせた。数字の並んだ、何かの資料だった。
「たとえば、な。ある町に、赤字のバス路線がある。一日に、七人しか乗らん。AIに問えば、答えは一瞬で出る。廃止せよ、と。数字は正しい。維持費は、便益をはるかに上回る。誰が計算しても、そうなる」
「……はい」
「では、その七人のうちの一人が、その路線でしか病院に通えん、九十二歳の婆さんだったら、どうする」
桐生は、口をつぐんだ。
「AIは、それも計算に入れる」二階堂は続けた。「その婆さんの命の価値、代替手段のコスト、家族の負担、あらゆるものを数値化して、天秤にかける。そして、やはり、答えを出す。“廃止が最適”か、“存続が最適”か。どちらにせよ、答えは出る」
「だったら、その答えに従えば……」
「誰が、その婆さんに言うんだ」
二階堂の声が、低くなった。
「“あなたのバスは、来月なくなります”と。誰が、その言葉を口にして、その顔を見て、その責任を、背負うんだ。AIか? AIは、責任を負わん。負えんのだ。訴えられもせん、恨まれもせん、夜、眠れなくもならん。“最適解はこれです”と表示して、それで終わりだ。誰も、決めていない。決めた者が、いない」
老人は、桐生を、まっすぐに見た。
「決めるとは、背負うことだ。結果を、恨みを、間違いだったかもしれんという一生の重みを、その身に引き受けることだ。それができるのは——いまも、人間だけだ」
桐生の背筋を、何かが走った。
三年前、大阪の会議室で、彼は理解したはずだった。自分は、機械の決定に体温を貸すだけの人形だと。だが、いま、目の前の老人は、まったく逆のことを言っていた。決定こそが、機械には貸せないものなのだと。
「決裁士は」と二階堂は言った。「AIが答えを出したあと、その答えを“採用するかどうか”を、人間の名において決め、署名し、結果を引き受ける。企業が、行政が、金を払ってでも、その署名を欲しがる。なぜなら、この世界で、責任を負える主体は、もう、ほとんど残っていないからだ」
桐生は、乾いた唇を、舐めた。
「……なぜ、僕なんですか」
「募集を見て、来たのは、お前だけだ」二階堂はあっさり言った。「三日で、一人。悪くない打率だ」
「間違うことを、恐れない人。……そう、書いてありました」
「書いた」
「なぜ、そんな条件を」
二階堂は、初めて、深く笑った。皺が、顔じゅうに刻まれた。
「決裁士の本質はな、賢さではない。AIのほうが、百倍賢い。決裁士の本質は、間違ったときに、逃げないことだ。“AIがそう言ったから”と、機械のせいにしないことだ。自分が決めた、と言い切れることだ。……たいていの人間は、それが、できん」
老人は、湯呑みを持ち上げた。
「お前は、営業だったな。二十年、契約を取ってきた。契約とはな、桐生。相手に、賭けさせることだ。“この人を信じよう”と、相手に決断させることだ。お前は、二十年、人に決断をさせてきた。だが——」
二階堂の目が、鋭くなった。
「お前自身は、何かを、決めたことがあるか。自分の名前で、逃げ場なく、間違ったら全部おまえのせいだという場所で、決めたことが、一度でも、あるか」
桐生は、答えられなかった。
三年前まで、彼は「決めていた」つもりだった。だがあの日、彼が決めていたと思っていたものは、全部、AIが決めていた。そして、その前の二十年も——本当は、AIがいなかっただけで、彼は「相手に決めさせる」ことしか、してこなかったのかもしれない。自分では、何ひとつ。
「わからない、という顔だな」二階堂は言った。「いい。それが、正直だ。決裁士に、いちばん向いてないのは、“決められます”と即答する奴だ。決めることの重さを知らん証拠だからな」
老人は、立ち上がった。思いのほか、背が高かった。
「明日から、来なさい。給料は、給付金に、少し足が出る程度だ。楽な仕事ではない。だが——」
二階堂は、窓の外を見た。人通りの少ない、灰色の通りを。
「この世界で、まだ“おまえがいないと困る”と言われる、数少ない仕事のひとつだ」
桐生の胸の奥で、三年間、冷たく固まっていた何かが、かすかに、動いた。
3
決裁堂には、他にも、変わり者がいた。
翌朝、桐生が出勤すると——三年ぶりに使うその言葉が、自分でも可笑しかった——事務所には、すでに二人がいた。
一人は、女だった。三十代半ば。染めていない黒髪を、無造作に結んでいる。桐生が入っていくと、彼女は品定めするような目でこちらを見て、それから、興味を失ったように、手元の資料に戻った。
「白石灯」と、彼女は名前だけ言った。「元マーケター。いまは、決裁士」
もう一人は、男だった。四十前後。無精髭に、くたびれたパーカー。ノートパソコンを開いているが、コードを書いているわけではないらしい。何かを、じっと読んでいた。
「沢渡」と、その男は顔も上げずに言った。「元エンジニア。あんた、営業だって? いちばん潰しの利かない職種じゃないか。よく生きてたな」
「沢渡」と白石が窘めた。「初日だ」
「事実だろ」
桐生は、苦笑した。三年ぶりの、職場の空気だった。棘のある、しかし、生きている人間の声。
「面白い集まりでしょう」と白石が言った。「営業と、マーケと、エンジニア。……全員、AIに、いちばん最初に殺された職種よ」
殺された。彼女は、そう言った。桐生には、その言葉が、しっくりきた。
「決裁士は、みんな、そうなんですか」桐生は訊いた。「一度、AIに、仕事を奪われた人間ばかり」
「爺さんの方針だ」と沢渡が言った。「二階堂さんの。決裁士に必要なのは、AIに勝てない悔しさを、骨の髄まで知ってる人間だってさ。AIを崇めてもいけない、憎んでもいけない。ただ、あいつに“できないこと”が何かを、身をもって知ってる奴じゃないと、務まらないと」
「あなたたちは」桐生は、二人を見た。「何を、失敗したの……いや、何を、決めてきたんですか。決裁士として」
白石と沢渡は、顔を見合わせた。それから、白石が、静かに答えた。
「たくさん、間違えたわ」
彼女の声には、隠しきれない何かがあった。
「決裁士の仕事は、勝つことじゃない。正解のない問いに、答えを出すことよ。だから、必ず、誰かが不幸になる。どっちを選んでも。……その、選ばなかった側の顔を、覚えていくのが、この仕事」
そのとき、事務所の奥の戸が開いて、若い声がした。
「桐生さん、ですよね! 二階堂さんから聞いてます。あ、お茶、淹れますね。あたし、決裁士じゃないんで、お茶淹れるくらいしか役に立たないんですけど」
飛び込んできたのは、二十歳そこそこの女だった。芽以(めい)、と名乗った。事務所の、事務と受付を担当しているらしい。この世界で、初めて桐生が見る、屈託のない笑顔だった。
「芽以ちゃんは」と白石が言った。「働いたことのない世代なの」
「あ、そうなんです」芽以は、悪びれもせず言った。「あたしが十歳のときには、もう仕事、九割なくなってたんで。学校で“将来の夢”とか書かされたことないんですよ。みんなポカーンとしてました。だって、なる職業が、ないから」
桐生は、その言葉に、胸を突かれた。
自分たちは、「奪われた」世代だった。持っていたものを、失った。だが、この娘は——最初から、何も持っていなかった。奪われたことすら、ない。
「あたし、決裁士になりたいんです」と芽以は言った。目が、輝いていた。「だって、この世界で、いちばんカッコいい仕事じゃないですか。人間にしか、できないことなんですよ。あたし、初めて、“これになりたい”って思えたんです」
事務所が、しんとした。
沢渡が、ふっと、笑った。皮肉ではなく、少し、寂しそうに。
「若いな」
「若さの問題じゃないですよ」芽以は、頬を膨らませた。「あたし、真剣です」
「真剣なのは、わかる」と白石が言った。「でもね、芽以ちゃん。あなたはまだ、決めたことの重さを、知らない。決めるって、カッコいいことじゃないの。……たいてい、後悔することよ」
そのとき、奥の机から、二階堂の声が飛んだ。
「全員、集まれ」
老人の声は、静かだったが、空気が、変わった。
「仕事だ」と二階堂は言った。「大きいのが、来た」
4
依頼主は、〈北関東ひまわり銀行〉——正確には、その銀行を運営する、AIだった。
「AIが、依頼主……?」桐生は訊き返した。
「珍しくない」と沢渡が資料を捲りながら言った。「いまや、上場企業の四割は、取締役会にAIが入ってる。この銀行は、その先を行ってる。取締役、全員AIだ。人間の経営者は、いない。株主総会も、AIエージェント同士でやる」
「そんな会社が、なぜ、うちに」
「決められないからよ」と白石が言った。「AIだけの会社は、最適化はできる。でも、価値判断の必要な決定は、どうしても、人間の署名がいる。法律で、そう定められてるの。〈重大な社会的影響を伴う意思決定には、決裁士の署名を要する〉——去年できた、決裁士法よ」
二階堂が、資料を、テーブルに広げた。
「案件は、こうだ」
北関東ひまわり銀行の運営AIは、ある「最適化」を発見していた。同行が抱える、約三千件の〈少額・長期・低利〉の融資——その大半は、二十年、三十年前に組まれた、地方の個人事業主や高齢者向けの、小さな借入だった。町の豆腐屋、畳屋、小さな農家。時代に取り残された、消えゆく商売たち。
AIの計算では、これらの融資を〈一括して、条件を見直す〉ことで、銀行の収益は年間十二億円改善する。金利を、現行の市場水準に引き上げるのだ。契約上、それは可能だった。何も、違法ではない。
だが、その結果、と資料は続いていた。三千件のうち、推定四百件が、返済不能に陥る。四百の、小さな商売が、潰れる。
「典型的な、価値判断だ」と二階堂は言った。「AIは、二つの答えを、両方、出せる。“見直すべき”——収益は改善し、株主への責任を果たせる。“見直すべきでない”——四百の顧客を守り、地域における銀行の存在意義を守れる。どちらも、正しい。どちらも、間違っている。数字では、決着がつかん」
「だから」と白石が言った。「人間が、決める」
「そして」と沢渡が付け加えた。「決めた人間が、恨まれる。四百件を切れば、地元の新聞に顔が載る。“豆腐屋を潰した決裁士”ってな。切らなければ、株主に訴えられる。“十二億の利益を放棄した背任だ”と。どっちに転んでも、決めた奴が、泥をかぶる」
桐生は、資料の数字を見つめた。四百件。四百の、名前も顔もわからない誰かの、人生。
「これを……決めるんですか。人間が、一人で」
「一人ではない」と二階堂は言った。「決裁士は、三人の合議で、決める。それが決裁堂の流儀だ。白石、沢渡、そして——桐生、お前だ」
「僕は、まだ、見習いです」
「見習いに、評決権はない」二階堂は言った。「だが、見習いには、いちばん大事な仕事がある」
老人は、桐生を見た。
「現場に、行くことだ。数字ではなく、人に、会いに行く。切るかもしれない、その四百件の中の、何件かに。豆腐屋に、畳屋に、農家に。会って、話して、その顔を、覚えてくること。……AIには、絶対にできんことだ。AIは、会いに行かん。会いに行っても、その顔の重みが、計算式に入らんからな」
桐生は、二階堂を見返した。
「その顔を、見て、どうするんですか」
「決めるためだ」と老人は言った。「数字で決めるなら、AIでいい。人間が決める意味は、たったひとつ。切り捨てる相手の顔を、知った上で、それでも決める、ということだ。顔を知って、なお切るなら、その重さを背負え。顔を知って、切れなくなるなら、なぜ切れなくなったのかを、言葉にしろ。——それが、人間の決定だ」
事務所は、静まり返っていた。芽以が、お茶を淹れる手を止めて、二階堂の言葉を、聞いていた。
「これは」と桐生は、口を開いた。自分でも、なぜそう言うのか、わからなかった。「これは……営業と、似ています」
二階堂が、片眉を上げた。
「営業も、数字だけじゃ、契約は取れない。相手の顔を見て、その人が、本当は何に困っているのかを、知って……それで、初めて」
「続けろ」
「それで初めて、こちらも、腹をくくれる。この人に、これを勧めていいのか、と。……僕は、二十年、それをやってきた、つもりでした。本当は、AIがやってたのかもしれないけど。でも——顔を見に行くのだけは、たしかに、僕の仕事でした」
二階堂は、しばらく、桐生を見ていた。そして、静かに、頷いた。
「行ってこい、桐生。三年ぶりの、営業だ」
桐生は、立ち上がった。
三年前、大阪のエレベーターホールで、彼は、自分の仕事の意味を、失った。握手は、演出だった。会話は、AIの教材だった。自分は、機械に体温を貸すだけの、人形だった。
だが、いま——彼は、機械が絶対に行かない場所へ、行こうとしていた。切り捨てられるかもしれない、四百人の顔を、見に行こうとしていた。それは、演出ではなかった。誰の教材にもならなかった。ただ、人間にしか、できないことだった。
「あの」と、桐生は、ドアの前で振り返った。「ひとつ、いいですか」
「なんだ」
「決裁士って……AIに、勝ってるんですかね。それとも、負けてるんですかね。僕には、まだ、よくわからなくて」
二階堂は、笑った。今日、いちばん、深い笑いだった。
「勝ち負けじゃない」と老人は言った。「棲み分けだ。AIは、答えを出す。人間は、背負う。世界は、その両方が、いる。……お前が、営業だったころ、AIが交渉を、お前が握手を、してたようにな。あれは、間違ってなかった。ただ、握手の値打ちを、誰も、教えてくれなかっただけだ」
桐生は、戸を開けた。灰色の通りに、久しぶりの、光がさしていた。
「行ってきます」
三年ぶりに、桐生遼は、その言葉を口にした。
5
電車で、一時間半かかった。
北関東の、名前も知らなかった町。駅前は、シャッターの下りた商店が、歯抜けのように並んでいた。九割の仕事が消えた世界で、いちばん先に静かになったのは、こういう場所だった。人が集まる理由が、なくなった町。
桐生は、地図アプリではなく、紙にメモした住所を頼りに、歩いた。二階堂が、「番地を、スマホに入れて行くな」と言ったからだった。「道に迷え。迷って、この町を、足で見てこい。AIは、迷わん。だから、AIには、見えんものがある」と。
半分は、老人の気まぐれだと思った。だが、迷いながら歩くうちに、桐生は、たしかに、いくつものものを見た。潰れた美容室の窓に、色あせた成人式の写真がまだ飾ってあること。バス停の時刻表が、一日に三本しかないこと。そのバス停のベンチに、誰も来ないのに、きれいに座布団が置いてあること。数字には、ならないものたちだった。
〈まるや豆腐店〉は、路地の奥にあった。
古い、木造の店。ガラスの引き戸の向こうに、湯気が立っている。桐生が戸を開けると、大豆を煮る、甘い匂いが、どっと押し寄せてきた。
奥から出てきたのは、七十半ばの、小柄な老人だった。前掛けをして、太い腕をしている。丸山、と店の名は言っていた。老人は、桐生のスーツを見て、その顔に、すっと、警戒の膜が張った。
「銀行の、人かい」
隠す気は、なかった。二階堂は言った。「決裁士は、名乗って行け。何をしに来たかを、隠すな。隠して聞き出した話に、決定を委ねる資格はない」と。
「いえ、銀行の者ではありません」桐生は、頭を下げた。「決裁士の、桐生と申します。……北関東ひまわり銀行から、依頼を受けて、来ました。あなたの融資の、見直しを、決める仕事です」
老人の目が、細くなった。
「見直し、ねえ。……つまり、うちを、潰すかどうかを、決めに来たわけだ」
「そうです」
嘘は、つかなかった。営業なら、ここで、ぼかしただろう。「ご相談に」とか、「状況の確認に」とか。だが、桐生は、はっきりと言った。潰すかどうかを、決めに来た、と。自分でも、なぜそう言えたのか、わからなかった。ただ、この老人に、ぼかした言葉を使うのは、失礼だと思った。
丸山は、しばらく桐生を見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「正直な野郎だな」と老人は言った。「まあ、上がれ。茶くらい、出す」
──
店の奥の、狭い居間で、桐生は茶を出された。丸山は、湯呑みを持ったまま、話し始めた。
「言っとくがな」と老人は言った。「同情なら、いらん。うちが、もう、長くないのは、俺がいちばんよく知ってる。豆腐なんざ、いまや工場が、機械で、いくらでも作る。俺のより安くて、味も、まあ、悪かない。時代だよ。恨んじゃいねえ」
「では」桐生は訊いた。「なぜ、続けているんですか」
丸山は、答えなかった。代わりに、立ち上がると、居間の奥のドアを、開けた。
その先は、作業場だった。そこに、一人の若い男がいた。二十代半ばだろうか。ゆっくりとした手つきで、豆腐を、水に張った桶へ、一丁ずつ、丁寧に移していた。桐生が入ってきても、こちらを見なかった。ただ、じっと、自分の手元だけを見ていた。
「健太っていう」と丸山は、小声で言った。「うちの、たった一人の従業員だ」
老人は、ドアを、そっと閉めた。
「あいつはな、他の仕事が、できねえんだ。ちょっと、人と違うところがあってな。喋るのも、うまくねえ。この世界になる前だって、働き口を見つけるのが、大変だった。ましてや、今だ。AIってやつは、健太みてえな人間の分まで、全部、やっちまう。速くて、間違わなくてな。……健太が、できることは、もう、どこにも、必要とされてねえ」
丸山は、湯呑みを、両手で包んだ。
「でもな。豆腐だけは、機械にゃ、任せられねえところが、あるんだ。豆の煮え具合を、匂いで見る。にがりを打つ、あの一瞬を、指で計る。健太は、それが、できる。三年、かかったがな。あいつは、いま、俺よりうまく、にがりを打つ。……あいつは、ここでだけは、“必要とされてる”んだよ」
桐生は、言葉を失った。
「俺の借金がな」と丸山は続けた。「返せねえのは、わかってる。銀行のあんたらのAIが、そう弾いたんだろ。数字は、正しいさ。だがな、桐生さんとやら。あんたが、もし、うちを切ったら——それで、消えるのは、俺の豆腐屋じゃねえ。健太の、“居場所”だ。あいつが、この世界で、たった一人、必要とされてた、その場所だ。あいつは、そのあと、どこにも、いらねえ人間に、なる」
老人の声は、震えていなかった。淡々としていた。それが、かえって、重かった。
「切るなとは、言わねえ」と丸山は言った。「あんたの仕事だ。決めるのが。……ただ、決めるんなら、健太の顔を、見てから、決めてくれ。数字の四百件のうちの一件じゃなくてな。健太っていう、名前のある人間を、切るんだと、わかった上で、決めてくれ。それだけだ」
桐生は、湯呑みを置いて、言った。
「……会わせて、いただけますか。健太さんに」
丸山は、少し、驚いた顔をした。それから、無言で、立ち上がった。
──
作業場は、ひんやりとして、水の匂いがした。
健太は、大きな木の桶の前に立って、木べらで、乳白色の豆乳を、ゆっくりとかき混ぜていた。桐生が近づいても、顔を上げなかった。ただ、その手だけが、動いていた。無駄のない、しかし、機械とは違う、迷いのない手だった。
「健太」と丸山が、静かに呼んだ。「お客さんだ。豆腐屋の、大事な話を、しに来た人だ」
健太は、それでも、こちらを見なかった。桐生を、拒んでいるのではなかった。ただ、いま、彼には、目の前の豆乳のほうが、大事だったのだ。にがりを打つ、その一瞬を、逃さないために。
桐生は、黙って、その様子を見ていた。
やがて、健太は、小さな椀に入った、にがりを取った。そして、その手を、豆乳の上で、止めた。じっと、匂いを嗅ぐように。次の瞬間、彼は、その手首を、ほんのわずかに、返した。にがりが、細い糸になって、豆乳へ落ちていく。桐生には、それが、いつ「ちょうどいい」のか、まるでわからなかった。だが、健太には、わかるらしかった。彼は、ある一点で、ぴたりと、手を止めた。
そして、初めて、桐生のほうを、ちらりと見た。
「……できる」と、健太は、言った。ただ、それだけ。
だが、その声には、確かな誇りがあった。俺は、これが、できる。この一瞬が、わかる。世界じゅうのAIにも、これは、わからない——そう言っているような、声だった。
しばらくして、豆腐が、固まった。健太は、それを、そっと、水を張った桶へ移した。それから、いちばん端の、まだ温かい一丁を、手のひらに載せて、桐生に、差し出した。
「……食べて」
桐生は、受け取った。木のさじで、そのできたての豆腐を、少しだけ、口に運んだ。
温かかった。豆の甘みが、ふわりと広がって、消えた。
桐生は、思わず、目を閉じた。
三年間——AIが作った、完璧な食事を、彼は、何百食と、食べてきた。栄養も、味も、最適化されていた。まずいと思ったことは、一度もなかった。だが、うまいと、心が動いたことも、一度も、なかった。ただ、燃料を、入れていた。生きるために。
いま、桐生の心は、動いていた。
そして、健太は、その桐生の顔を、じっと、見ていた。
桐生は、気づいた。健太が見ているのは、豆腐の出来ではなかった。食べた人間の、顔だった。その顔が、動くかどうか。うまいと、思うかどうか。——健太は、それを、確かめていた。自分の作ったものが、誰かの心を、動かせたかどうかを。
そして、桐生の顔は、動いていた。
「……うまい」と、桐生は言った。掠れた声だった。「本当に、うまいです」
健太は、笑わなかった。ただ、こくり、と、小さく頷いた。満足したように。そして、また、次の桶へと、向き直った。彼の仕事は、まだ、続くのだ。
桐生は、その、丸い背中を、見ていた。
この男は、AIには、決して奪えないものを、持っていた。人の顔を、動かす力。それも、統計ではなく、たった一人の、目の前の人間の、心を。そして、この作業場だけが——この、消えかけた、小さな豆腐屋だけが、その力を、必要としていた。ここが消えれば、健太の「できる」は、行き場を失う。世界のどこにも、それを必要とする場所は、もう、ない。
「……ありがとうございました」と、桐生は、健太の背中に、頭を下げた。
健太は、振り返らなかった。だが、その手が、一瞬、止まった。桐生の声が、聞こえたのだ。それで、十分だった。
丸山が、作業場の戸口で、ぽつりと言った。
「な。……顔が、あるだろう」
桐生は、頷くしかなかった。
──
帰りの電車の中で、桐生は、窓の外を見ていた。
沢渡が、かつて消したという、「4.2人」のことを、思い出していた。年に四人。統計の中の、小数点。あのとき沢渡は、その分岐を、消せなかった。消したのはAIで、沢渡は、それを止められなかった。そして、その4.2人が、どんな顔をしていたのか、沢渡は、ついに、知らなかった。だから、あの男は、いまも、それを、背負っている。顔も知らない相手を、背負っている。
いま、桐生は、顔を、知ってしまった。
健太の、ゆっくりとした手つき。豆腐を、一丁ずつ、水に移す、その真剣な横顔。丸山の、震えない声。座布団の置かれた、誰も来ないバス停。
数字なら、簡単だった。四百件を切れば、十二億。切らなければ、背任。天秤は、AIが、とっくに弾いている。桐生が、何を持ち帰っても、その計算は、一ミリも、変わらない。
だが、桐生は、理解した。二階堂が、なぜ「会いに行け」と言ったのかを。
会いに行っても、答えは変わらない。変わるのは、決める人間の、覚悟の重さだ。顔を知らずに切るのと、顔を知って、なお切るのとでは——切られる側にとっては、同じでも、切る側にとっては、まるで、違う。前者は、機械にもできる。後者だけが、人間の、決定だ。そして、後者を選んだ人間だけが、その痛みを、忘れない。忘れないから、次は、少しでも、切らずに済む道を、必死で探す。世界が、際限なく人を切り捨てていかないための、最後の歯止め。それが、痛みを引き受ける、たった一人の、人間だ。
桐生は、手に持った、白い紙包みを見た。
帰り際、丸山が、持たせてくれた豆腐だった。「食ってみろ。話は、それからだ」と。
その夜、桐生は、事務所には戻らず、自分の部屋で、その豆腐を食べた。冷奴に、何もかけずに。
うまかった。三年ぶりに、桐生は、食べ物を、うまいと感じた。この味には、値打ちがある。だが、その値打ちは、どこの計算式にも、乗らない。乗らないものを、どうやって、決定に、織り込むのか。それとも、織り込んではいけないのか。——答えは、まだ、なかった。
スマホが、鳴った。白石からだった。
「現場、どうだった」と、白石の声は、前置きもなく言った。
桐生は、健太のことを、話した。にがりを打つ、あの手のことを。差し出された、温かい豆腐のことを。話しながら、自分の声が、少し、熱を帯びているのが、わかった。
電話の向こうで、白石は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、言った。
「桐生さん。あなた、いい人ね」
褒め言葉には、聞こえなかった。
「でも、合議で、その話し方は、しないほうがいい」と白石は続けた。「あなたの見てきた、その豆腐屋の顔はね、本物よ。疑ってない。……でも、忘れないで。私と沢渡は、明日、あなたに、別の顔を、突きつける。四百件を守るために、銀行が潰れたら——その銀行に、なけなしの金を預けてる、何万人もの人がいる。年金しかない、お年寄りもね。その人たちにも、顔があるの。あなたには、見えてないだけで」
桐生は、言葉に詰まった。
「決裁士の仕事はね」と白石は言った。「かわいそうな人を、助けることじゃない。かわいそうな人と、かわいそうな人の、どっちを、切るかを、決めることよ。……どっちを選んでも、あなたは、誰かの居場所を、壊す。それを、覚悟してから、明日、来て」
電話は、切れた。
桐生は、暗い天井を、見上げた。
白石の言うとおりだった。彼は、健太の顔しか、見ていなかった。見えていない顔が、その向こうに、何万も、あった。決めるとは、見える顔と、見えない顔を、両方、天秤にかけることだった。そして、どちらに転んでも、誰かが、泣く。
これが、残り一割の、仕事だった。
明日、決裁堂で、三人の合議が始まる。白石が、沢渡が、そして自分が、意見を、ぶつけ合う。そして、誰かが、署名する。四百件を、どうするかを。健太の居場所を、残すか、消すかを。
決めることは、背負うことだ。二階堂は、そう言った。
桐生は、いま、その言葉の重さを、生まれて初めて、腹の底で、理解しようとしていた。
三年前、大阪の会議室で、彼は、決めることの意味を、失った。
そして今夜、この町の、小さな豆腐屋で、彼は、それを、取り戻そうとしていた。
決裁士・桐生遼の、最初の一件は——まだ、始まったばかりだった。
(第1話 了)
