朱い夏の日 | #3 「深い死の影を含んだ夜の森」

国道8号線を北へ走り、福井県越前市に向かった。国道沿いにあったビジネスホテルを予約していたので、敦賀から越前へ向かうまでに脇道に逸れていくつかの峠道を走りながら眼下に見える日本海を眺めてホテルに着くまでの時間を潰した。そして夕方ごろに越前市に到着すると、夕食前にホテルのチェックインを済ませることにした。年季を帯びた灰色のコンクリートのホテルの外観はいにしえから運ばれた大きな岩のように見えた。駐車場に車を停め、荷物を抱えてホテルの重たいガラス扉をくぐった。一歩足を踏み入れると館内は暗すぎるほど照明が落とされていた。明暗差に眩暈がしたほどだった。目を暗がりに慣らすと奥のカウンターに人影が見られた。カウンターの前までいくとフロアランプに照らされた顔を見てそれが女性であるとわかった。疲れた目をした若い女が受付に立っていた。
「チェックインをお願いします」
僕は女に伝えた。女は頷きカウンターの下の用紙を一枚取って僕に渡した。
「こちらにお名前と連絡先を」
乾いた声で女は言った。視線はこちらに向けているようだったが、彼女の瞳に僕の姿は映っていなかった。その視線は僕を透かして後ろのガラス扉に焦点が合っているように感じた。デスクペンで用紙に記入し女に手渡した。
「チェックアウトは十一時です。朝食は六時から九時に一階の食堂で取れます。他に何かご質問はありますか」
一瞬だけ間を置いてから僕は大丈夫だと言った。女の声は抑揚が欠けていて、それが質問であると理解するのに二秒か三秒かかった。部屋の鍵を受け取りルームキーに刻印された301の部屋へ向かった。
部屋は特徴を持たない一般的なビジネスホテルだった。狭い一室にセミダブルベッドが押し込まれて隣に並べられた居心地の悪そうな机と椅子がワンセット、入り口脇にユニットバスルームと壁に括り付けられたコート掛けがあるだけの簡素な部屋だった。僕は荷物をおろして部屋のカーテンを開けた。ベッドに付いたデジタル時計を見ると午後五時十分。汗をたっぷりとかいていたしシャワーを浴びたいところだったが、外はまだ明るかったのでこのままもう一度外に出るか迷った。ここでシャワーを浴びてしまったら外出する気にはなれそうにない。それに夕食もどこかで取らなければならない。僕はバックパックからカメラと財布だけを出してホテルの部屋を出ることにした。
ホテルの駐車場に停めた車の中でここへ来る道中に「越前海岸」の看板を見かけたことを思いだした。グーグルマップで調べると小一時間ほどかかるようだったが、今から向かえば日の入りを眺められる。おおまかな道筋を確認するも、ほとんど一本道だったので迷うこともなさそうだった。日も傾いてきたのでロードスターの幌を開けて車をオープンにして海へ向かうことにした。
市街地を抜けると民家の数は徐々に減り田園風景が広がっていった。空が暗くなり始めて街灯もなく対向車線から走ってくる車もまったくいなかったので山の静けさが際立っていた。車のヘッドライトをハイビームに切り替え、生ぬるい風を顔に浴びながら車のスピードを少しだけ上げた。しかしあくまでも車を確実にコントロールできる範囲に留めた。無謀な運転をして自分以外のものを傷つけることは望んでいない。見渡す限りの水田に囲まれたところで、飛び出してくる鹿や猿の可能性に注意を払いつつも車のスピードをさらに上げた。遠くに見える藍色の空と黒々とした山のシルエットが水田とロードスターを囲んでいた。ひらけた水田に車のエンジン音が場違いに響いていた。
田園を抜けると幅員が狭くなり、樹々に囲まれた山道に入った。山の中心へ進むにつれて幅員はさらに狭まり、ところどころは車一台がぎりぎり通れる道にも出くわした。森の闇が一層深くなっていく気配があった。左に見える崖の深さは、その闇のせいで測れない。崖の奥に潜んだ闇には死の影が含まれているような冷ややかなものがあった。自然の中で発生された純粋な闇には人の心を惑わす危険ななにかがある。
僕はスピードを出し過ぎて崖から転落する自分の姿を想像した。カーブを曲がり切れずに崖から飛び出し、樹々にぶつかりながら深い崖の底へ転落する自分の姿を。そのまま即死するのであれば構わない、と僕はハンドルを握りながら思う。自分が死というものを強く拒絶していないことに少し驚いた。だがそううまく死ぬことができるとは限らない。即死できずに長いあいだ交通事故の後遺症で苦しむこともまた僕の望んでいないことだった。この山で、死もしくは死に近い生のふたつにひとつの賭けをするつもりはなかった。僕は意思を固めた自殺願望者ではない。死を強く拒絶していないのと同じかそれ以上に死を求めてはいなかった。それに死ぬにしてももっと違うやり方はある。もっと静かに音もなく死ぬやり方はある。だけど生き方を選ぶ以上に死に方を選べる人間はそれほど多くはない。そして僕は死に方を選ぶことができる人間ではなかった。僕は手探りで生き方を見つけていく側の人間だった。たとえここが深い闇の中であったとしても。そして僕と反対側にいる生き方を選べなくなった人たちも、僕が生き方を探るように死に方を手探っていく。消去法的な生と死、と僕は思った。でももしかしたら生きることと死ぬことは僕が思っているほど対極の関係ではないのかもしれない。それは生命力に満ちた朝の森と深い死の影を含んだ夜の森が表裏の関係であるのと同じように。ハンドルを握る手に力が入った。より安全で制御可能な速度まで車のスピードを落として、曲りくねった道をシフトレバーを頻繁に動かしながら一時間かけて越前海岸に到着した。
近くにあったコミュニティセンターの駐車場に車を停めて海沿いを歩いた。防波堤には女子高生が数人と若いカップルが一組いた。彼らの邪魔をしないように、少し離れた堤防に腰をかけて静かな海を眺めた。
海を眺めて十分が経ち、二十分が経ち、三十分が経った。太陽は刻一刻と日本海に沈み、東の空に星々が浮かび始めていた。静かな時間だった。テトラポッドを打つ波の音だけがあたりに響いた。僕は目前の日本海を眺めながらほとんど何も考えることができなくなっていた。じっとその海の向こうにある水平線を見つめていた。
考えてみるとこんなにゆっくり過ごす旅ははじめてのように思った。自分が今どこにいるのか誰にも知られず、旅から帰ってすることを考える必要もなく、残してきたものは何もない旅だった。自分の中に内包された抽象的な時間の感覚が徐々に失われ、自分がただここに存在しているという具体的な感覚だけが残されていくようだった。思いを馳せるものはなく、ただ知らない土地に一人立っているだけという感覚は今までに体験したことがないものだった。「若いうちに一人旅をしなさい」と言った誰かはこの感覚を経験してほしかったのかもしれないと思った。大人になってしまうと、旅に出ても残してきたもののことや帰るべき場所のことを考えずにはいられなくなってしまう。そのような大人になる前の何者でもなく何も持たない若い時期にこそ、一人で旅をする必要があるのだと僕は気がついた。そして今の僕は、何者でもなく何も持たない大人だった。
日本海に沈む完璧な日の入りを見届けてからもしばらくそこから立ち上がることができずにいた。思考の動きは止まり、体も動かなくなっていた。一種の瞑想状態に近かったのかもしれない。水平線をぼんやり眺めていると、空に小さく点滅する光が見えた。夜空を見上げると星が瞬いていた。僕は星が瞬くというのをそのとき初めて見た。ちかちかと輝くそれらは作り物のようにさえ見え、天上の星々を美しいと心から思った。ぼんやり星を眺め続けていると急に空腹感を覚えて体に力が戻ってくるのを感じた。いつまでもこうしているわけにはいかない。重い腰を上げて車まで戻り、やって来た山道を引き返すことにした。来たときより確実な夜になった山道を今度は何も考えずにゆっくり走った。森からの囁き声は今では聞こえない。目の前にある夜はただの夜であり、山はただの山であり、谷はただの谷でしかなくなった。そこに人の心を惑わす誘いのようなものを感じ取ることはもうできなかった。
夕食をどこかで済ませようと思ったが、店に入る気力が湧いてこなかったのでコンビニで弁当を買ってホテルに戻った。部屋は禁煙だったのでホテルの玄関の側に設置されていた灰皿で煙草を吸っていると、受付にいた疲れた目をした女が私服姿でホテルの裏口から出てきたのが見えた。ショートパンツとティーシャツのラフな格好でトートバッグを提げていた。おそらく勤務を終えたのだろう。彼女は駐車場にあった白いワゴンアールに乗った。素早くエンジンをかけ、ゆっくりと僕のいる方に走ってきた。僕は無意識にフロントガラスの奥にある彼女の目を見た。相変わらず生気を欠いた瞳だった。そしてすれ違う間際に一瞬だけ目があった気がした。それはほんの一瞬の出来ごとだったのだが、彼女の空洞な瞳に吸い込まれるような錯覚を起こした。夜の深い森のような暗さを帯びた不思議な瞳だった。あるいはもう少し長く目を合わせていたら僕はその正体を確かめることができたかもしれない。だけど彼女は去ってしまった。
翌朝、食堂に向かう際に彼女がいるかフロントを探したが彼女は出勤していないようだった。チェックアウトを済ませて駐車場で昨晩彼女が乗っていた白のワゴンアールを探してみたが、やはりその車はなかった。彼女の瞳を昼間にもう一度見てみたかった。あれは夜の影のせいで不思議な色合いに見えただけだったのだろうか。だが僕はもう二度とこのビジネスホテルに来ることはないだろう。名前も知らない不思議な瞳をした女に、二度と会うことはないのだ。そのことを考えると少しだけ感傷的な気持ちにさえなってしまった。なぜかわからないのだけれど。
『朱い夏の日』
目次
|はじめに「連載始めました。」
|#1 「帰る場所」
|#2 「手の中の機械が自分の手足のように思えること」
|#3 「深い死の影を含んだ夜の森」
|#4 「でもきれいな心を持っている」
|#5 「何百年後も生き続けていくもの」
|#6 「と、羊男は考える」
※不定期更新です。
