朱い夏の日 | #5 「何百年後も生き続けていくもの」

「──収蔵作品から夏の花・植物をテーマに選んだのは、鑑賞後にいまの季節とあわせて、身の回りの暮らしに目を向けてほしいという想いからです。」担当学芸員のNは語る。開催は〇月〇日から。
旅に出る数ヶ月前、職場に置かれていた美術手帖を読んでいると目を疑った。どうしてその記事を見つけることができたのかは思いだせない。その博物館の名前をどこかで耳にしたことがあった気がしたのだろう。地方の博物館の小さな記事をいつもだったら目に留めてはいなかった。数行しかないその短い記事を二度、三度と読み返した。そして何度も担当学芸員の名前を確かめるように目でなぞった。見間違いではなかった。その名前はよくある名ではなかったし、学芸員ということと博物館が金沢にあるということで僕の知る人物と合致した。
Nさん。彼女は大学時代の恩師だった。Nは僕の通っていた大学で博物館学芸員資格課程の講義を受け持つ非常勤講師だった。大学では博物館学芸員資格課程を履修していたので、僕は彼女のいくつかの講義を受講していた。講義のほかに、Nが働いていた大学付属の博物館で僕もアルバイトをしていたので、そこでもよく面倒をみてもらっていた。大学付属博物館で頻繁に顔を合わせていたので、恩師というよりもアルバイト先の上司に関係は近かった。そしてたった一度だけ、デートと言えなくもないデートをしたこともあった。冬の植物園を二人きりで歩いた。いてつく寒さで、植物の葉はもれなく落ち切っていた二月の植物園を。
Nは僕が大学三年生にあがるときに大学を辞めて地方の博物館の学芸員として就職した。大学を辞める前にNが就職した博物館の名前を教えてくれていたはずなのだけれど、今の今までそんなことはすっかり忘れていた。記憶の底に沈殿していた博物館の名前と、「担当学芸員のN」の文字を見て大学時代の思い出が蘇り懐かしく思った。大学を卒業してからNとは会う機会はなかったし、今では連絡先も知らない。だけど紙面に載った彼女の名前を見て嬉しく思った。離れた地でNが好きなことを仕事にして活躍していると知れただけで満足だった。
だから金沢に着いたとき、そのことをまったく意識していなかったと言えば嘘になる。兼六園の近くにあった駐車場に車を停めて、兼六園をひと回りしてから歩道に設置された周辺案内図を見たときに、Nの働く博物館がここから数分の距離だと知って胸がざわついた。
気付くと足はその博物館に向かって進んでいた。Nとは十年会っていない。僕と十歳年が離れていたので、今の彼女は四十を過ぎているはずだった。仮にすれ違うことができたとしても、僕のことを憶えているか自信もなかった。それに会って何を話せばいいのかもわからなかった。でもNの企画する展覧会を見てみたいと思ったし、彼女の姿を一目でも見たいとも思った。
博物館は明治後期に造られた旧陸軍施設を修繕・改修して、一部新築が加えられた洋風の建物だった。そこまで大きな博物館ではなかったが、私営の博物館というわけではなく、研究員や収蔵作品も地方の博物館としては規模が大きいものだった。主に国内外の近代工芸作品の収集・研究を行っている、と建物の前に置かれた看板に書かれていた。
窓口でチケットを買って展示フロアに向かった。フロアスタッフや従業員証を首からさげた人に自然と目がいった。けれどNは学芸員としてここで勤務しているのだ。表立つ場所にいるはずがないことをわかってはいながらも探さずにはいられなかった。
これではまるでストーカーだな、と僕は胸の中でひとりごちた。
展示になかなか集中できないながらも、静かな会場の雰囲気に呑まれて徐々に気持ちが鎮まっていった。展示作品は江戸時代から現代の工芸作品で、紹介文のとおり収蔵作品の中から花と植物をモチーフにした作品が選定されて展示されている。精妙に彩られた螺鈿細工の作品や、華やかな陶磁器に織物、そしてキャプションを見ると数年前に作られた現代作家の作品まで取り揃えられて展示されていた。近年では、どこもかしこも経営難と言われる博物館において現代作家の作品をしっかりとコレクションしている点に好感がもてた。
そういえば、Nの専門は民族工芸だったと思いだした。課外実習で博物館へ行ったときも、Nは熱心に工芸作品をながめていた。
「なんで民族工芸を専攻していたんですか?」
と、僕はNに訊いた。
「京都の大学に通っていたしそういう分野が得意な大学だったってこともあるけど、大学の茶道部で百年前の茶器でお茶を飲ませてもらったことがあったの。そのとき、ああこのお茶碗は私が死んだあとの何百年後も生き続けていくんだなあ、と思ったらこみ上げるものがあってね。そこからかな、工芸品にちゃんと興味を持ったのは」
当時、まだ三十前後のNが話すそぶりは大学の先生にはみえなかった。十代の少女が夢を語っているようにみえた。そして大人の女性がみせる無垢な表情は、思春期の男の心を引くには十分だった。
会場をひと回りして、それからもう一度最初のフロアに戻って館内をもう一周した。Nには会えなかったけれど、Nが企画した展示を丁寧に時間をかけて堪能した。
会場を歩いていると「STAFF ONLY」の立て札の向こうを歩くパンツスーツ姿の女性を見かけた。肩のところで真っすぐ切りそろえられた黒髪の女性は一瞬だけNかと思った。でも僕の記憶にあるNからもう十年も経っている。いまでも同じ髪形をしているとは思えなかった。きっとこの場所にいたら目に入るすべての女性にNの面影を探してしまいそうだと思って苦笑した。パンツスーツの女性が通路の角を曲がって視界から消えると、胸がすこし痛んだ。
僕は瞼をとじて記憶にいるNを探した。大学の教室で髪形のことを「こけしみたいで可愛らしいです」と冗談めかして言うと、Nは頬を赤らめて笑っていた。教室の中では僕はまだ二十歳で、Nは三十歳だった。
『朱い夏の日』
目次
|はじめに「連載始めました。」
|#1 「帰る場所」
|#2 「手の中の機械が自分の手足のように思えること」
|#3 「深い死の影を含んだ夜の森」
|#4 「でもきれいな心を持っている」
|#5 「何百年後も生き続けていくもの」
|#6 「と、羊男は考える」
※不定期更新です。
