朱い夏の日 | #1 「帰る場所」

僕は憶えのない駅の前に立っていた。駅前には少なからず人影は見られたが、それも指で数えられる程度だった。静けさから時刻は深夜ごろだと分かった。おそらく終電車が出発してから幾分時間が過ぎている。僕はその憶えのない駅の改札を出たところにひとり立っていた。曖昧な意識はゆっくりと自我を形成していき、次第に視界は開け、手足に痺れを感じ、熱帯夜の甘さを含んだ湿気を鼻先に捉えた。僕は駅舎から歩き出し、真夜中に放り出された人影を横切っていった。彼らに外見的な特徴はなかった。地方都市のデパートによく見られるショーウインドウのマネキンに着させられた特徴を持たない服を着ていた。彼らには顔もなかった。正確に表現すると顔にかかった影が深く、彼らの表情を見極めることができなかった。あまりの影の濃さに服の色彩も欠いてしまっていたのかもしれない。
ロータリーに出るとベンチに麻里が座っていた。その場所は先ほどより一層影が濃く、夜が深くなっていたが僕は一瞬で彼女が麻里であると分かった。僕は彼女の目の前に立った。なぜ彼女がこんな場所にいるのだろう。それよりもなぜ僕はこんな場所にいるのだろう。
「帰る場所はある?」
と僕は麻里に訊いた。返事はない。もしかしたら返事をしたのかもしれなかったが、聞き取ることはできなかった。返事のかわりに微笑をした気もしたのだが、深い夜のせいで表情までは分からない。
「僕はタクシーで帰るけど、帰る場所がないのなら一晩なら泊めてやる」
返事はない。僕はロータリーの先に見つけたタクシーに向かって歩き出す。麻里は立ち上がり僕の後ろに付いてくる気配があった。無言のままタクシーを拾い、無言のまま後部座席に並んで座った。
タクシーは音もなく走り始めた。車内にはラジオも音楽もかかっていなかった。走り出すエンジン音さえ聞こえなかった。完璧な静寂がそこにはあった。異質の静けさだった。こんなにも遮音設備が行き届いた自動車には乗ったことがない。あるいは特別な高級車にはそういったことがあるのかもしれないが、これは普通のタクシーにしか見えなかった。そして僕はタクシーに乗ってからひと言も言葉を発していないことを思いだした。僕は運転手に目的地を伝えていただろうか? 運転手は深々と帽子を被り、僕らが乗車してからこちらに一瞥もしていなかった。
麻里が僕の太腿に手を添えた。僕は驚いて右隣を向くと、街灯のせいで先ほどより麻里の表情をはっきりと見ることができた。甘い優美な瞳で僕の顔を覗き込んでいた。麻里の指先が太腿から男性器の方へゆっくり時間をかけてつたっていった。スラックス越しにその指先を生々しく感じることができた。
麻里は僕に顔を近づけ吐息を首筋かけた。そこには性的な誘いがあった。しかし僕はそんなことをしたくはなかった。そして僕はそんなことを麻里にしてほしくなかった。いくらそんなことをされても不思議と興奮しなかった。勃起をする気配さえなかった。目の前の麻里は甘えた表情をしたまま何か口を動かしているが音になって言葉にはならなく、無音のタクシーは走り続けていた。
何かがおかしかった。いや、全てがおかしい。このタクシーも、この状況も、そして麻里も。完璧な無音の空間で僕の遠近感は崩れてゆき、体の感覚だけがはっきりとしていった。次第にぼやけた頭は完全に意識を取り戻した。そうだ、麻里はこんなことをする女ではない。こんな娼婦のようなことはしない。ああ、そうだ、これは夢だ。僕はそこで目の前に起こることが夢だと理解した。
場面は移る。僕らはいつの間にかタクシーを降りて、憶えのあるアパートの玄関にいた。そこは以前麻里と同居をしていたアパートの一室だった。ここでは時間と記憶の前後が入り乱れているのだ。麻里は先に部屋に入り、ダイニングを抜けた先のリビングに向かった。僕は追うようにリビングに入ると部屋は段ボールの山で囲まれていた。そうだ。僕らはこのアパートを出て行かなくちゃいけないのだ。
明かりのない昏い部屋の中で麻里は服を一枚ずつ脱いでいった。ブラウスのボタンを外しスカートを脱ぎ、ブラジャーとパンツを脱いで床に放った。僕はそれをただ眺めていることしかできなかった。やめてほしいのに僕の口は言葉を発せずにいた。僕はそんなことを求めてなんかいなかった。月光の微かな光で露わになった白い肌を見つめていると麻里は僕に近づいて裸体をぴたりとくっつけた。それでも僕はその気になることはできなかった。依然として勃起の予兆はない。だが潤った瞳をした麻里に見つめられ、後に引き返せないことを悟った。勃起をしていないことを悟られぬように僕は麻里を抱きしめてキスをした。舌を絡ませ腰を引き寄せて乳首を摘んだ。麻里の息づかいが今では音になって聞こえてくる。こんなことはしたくはないのに、体を自分の意識で動かすことはできなかった。僕は自分が勃起していないことをばれないようにすることで頭がいっぱいだった。僕は麻里をソファに押し倒しその白い体を愛撫をし続けた。
僕は自分でも気が付かないまま服を脱いでいた。全裸のまま体をくっつけ合いタオルケットに二人でくるまっていた。
明日には出て行かないと、と麻里が言った。もしくは記憶の中の麻里がそう言った。
僕はそれを聞いてなんて言葉を返せばいいのか分からなかった。部屋の荷物はすでに段ボールに詰めて、麻里はここを出て行く準備を済ませている。今更話し合うことは何もない。僕は引き留めるべきなのか? いや、そのことはすでに十分考えたことだった。考えても考えても、答えが出ない問いだった。
なぜ一人で考えようとするの、と記憶の中の麻里が言った。
どうしたらいいのかわからないということをあなたは私に言うべきだったのよ、今度は目の前の夢の中の麻里が言った。
「そんなことを言ってしまえば僕たちは混乱してしまうだけだよ。言わないほうがいいこともある」
部屋を見渡すと先ほどより部屋は明るくなっているようだった。夜が明けようとしている。時間と記憶の前後が混濁しきって再び僕は自分がどこにいるのかわからなくなってきた。あの日、麻里が出て行った日をここでやり直しているのだと僕は夢の中で思った。そしていくらやり直したところで、僕はあの日伝えるべき言葉というものがわからないままでいるのだ。何度やり直したところで同じことを繰り返すだけだった。
「あなたはもっと素直になるべきだった。私はあなたがそんなことを考えていたなんてちっとも知らなかったのよ」
もう帰らなくちゃ、と夢の中の麻里が言った。
「帰る場所はあるの?」
僕は麻里に訊く。
「あなたは?」
麻里は言った。その続きの言葉を麻里は何か言ったのかもしれなかったが、再び夜の闇が部屋を覆い表情は見えなくなり、辺りの音は消えて完璧な静寂の中に僕たちはいた。麻里は裸体のまま立ち上がった。背中の青白さだけが部屋の中に浮かんで見えた。麻里は振り向くことなく何も纏わぬ姿のままアパートの玄関から出て行った。
目が覚めると僕は知らないベッドの上にいた。知らないベッドのシーツと知らない天井がここにはあった。起き上がって部屋を見ると狭いビジネスホテルの一室だった。ああ、僕は高岡市のホテルで一泊したのだった。
僕は数日前から旅をしていた。静岡の実家から車を借りて走らせて、日本海沿いを闇雲に走り続けていた。そして昨日高松駅前に宿を取り、ここで一泊したのだった。
隅のローテーブルに空の缶ビールが二本ある。昨夜はそれほど酔っ払っていたわけではないのだが、疲れのせいで歪な眠りに落ちたようだった。
纏ったバスローブははだけてほとんど裸の格好をしていた。背中にはじんわり嫌な汗を感じた。空腹感はなかったが頭がまだぼんやりとしていたので、机の上にある電気ケトルで湯を沸かしインスタントコーヒーを淹れた。コーヒーを冷ますあいだに冷水のシャワーを浴びた。しかし体にまとわりついたぬるりとした気配は流れなかった。早くチェックアウトして部屋を出ようと思った。
車を使って福井県、石川県、富山県と旅してきたが、この辺りで今回の旅の終わりを考えたほうが良さそうだった。これ以上先はきっと良くない思考が働いてしまいそうな気配があった。今朝の夢はその兆しのようなものだった。
コーヒーを飲み干し荷物をまとめた。一人旅をしてたかが数日だというのにこんな夢に旅の邪魔をされるなんて。旅に集中しよう。すべては夢の出来ごとだ。バックパックを背負い、乱れたシーツに一瞬だけ目を向けた。そして振り返ることなく高岡のビジネスホテルを後にした。
『朱い夏の日』
目次
|はじめに「連載始めました。」
|#1 「帰る場所」
|#2 「手の中の機械が自分の手足のように思えること」
|#3 「深い死の影を含んだ夜の森」
|#4 「でもきれいな心を持っている」
|#5 「何百年後も生き続けていくもの」
|#6 「と、羊男は考える」
※不定期更新です。
