「見せればわかる」は本当かー村野井均『学力テストが映像で出される時代の心理学』を読む
令和7年度以降、全国学力・学習状況調査の悉皆調査では、教科調査のCBT化が段階的に進められている。令和9年度以降には全面CBT化の新たな局面に入る見込みであり、紙の問題冊子を開いて鉛筆で解くという従来の光景は、大きく変わろうとしている。
この変化を歓迎する人々がいる。「動画なら直感的にわかりやすい」「映像なら子どもの理解を助けられる」と。その確信の背後には、教育現場に深く根を下ろした一つの信仰がある。「見せればわかる」という信仰だ。
この信仰には、由緒というか、由来がある。エドガー・デールが Audio-Visual Methods in Teaching(初版1946年)で提示した「経験の円錐」(Cone of Experience)は、学習経験を抽象度の段階で整理したモデルだった。頂点に抽象的・言語的シンボルを、底辺に直接的・物体的経験を置き、映像はその中間に位置する。デール自身は、これを媒体の優劣ランキングとして提示したわけではない。学習の目的に応じて、経験の抽象度を意識的に選ぶことの重要性を論じたのであり、1969年の第3版では誤用への注意を数ページにわたり加筆さえしている。
ところが、このモデルは教育現場で激しく誤読されてさおり、現在においては、いわゆる『ラーニングピラミッド』への誤用・誤解はすでに周知のものとなっている。出所不明の保持率データ(「読んだことの10%しか覚えない、見たことの30%は覚える」)が貼り付けられ(Subramony et al., 2014)、「映像のほうが文字より学習効果が高い」という短絡が広まった。デールの円錐は、いつのまにか「具体的な媒体ほど優れている」という素朴な序列論にすり替えられた。
村野井均『学力テストが映像で出される時代の心理学』(福村出版、2026)は、この「見せればわかる」信仰に対して、発達心理学の側から異議を申し立てる一冊である。
映像理解は、自然にはできない知的活動である
著者は、茨城大学名誉教授であり、子どもの映像理解を40年以上にわたって研究してきた発達心理学者である。テレビ番組を見る子どもがどの発達段階で何を理解できるようになるかを、丹念に観察・実験してきた蓄積がこの本の土台にある。
本書の中心的な知見は、一見すると当たり前のことを述べている。映像は、見えるだけでは読めていない。
だが、この「当たり前」を、教育現場はどれほど自覚しているだろうか。
二次元の画面を三次元の空間として読み替えること。場面転換を理解すること。時間の省略や回想を読み取ること。視点が変わったことに気づくこと。画面の中で何が重要で何が背景かを判断すること。ナレーション、字幕、効果音、カメラの動き、編集のリズムを総合して意味を組み立てること。これらはすべて、経験を通じて獲得される読解技術であり、子どもにとって決して自明ではない。
大人は、長年の視聴経験によって映像の約束事を内面化している。ドラマの回想シーンを見れば「これは過去だ」とわかる。ズームすれば「ここに注目せよ」という合図だと受け取る。カットが切り替われば場面や視点が変わったと理解する。だが、それは生得的な能力ではない。経験の積み重ねのなかで獲得された読みの技術である。
映像は見えるものではない。読むものである。本書が一貫して主張しているのは、この一点であろう。
推進派も否定派も、同じ前提を共有している
おそらく、この本のタイトルを見た瞬間に、デジタル懐疑派は少し安心するだろう。「ほら、やはり子どもは映像を読めていない。だからデジタルは危ない。紙に戻すべきだ」と。
率直に言えば、著者の論調はデジタル化に対して慎重であり、場面によってはかなり批判的ですらある。GIGAスクール以降の「とにかく端末を使えば教育は前進する」という空気には、明らかに距離を取っている。
しかし、この本を「だからデジタルはやめよう」という懐疑論の道具として読むのであれば、本書の核心を落とすことになるように思う。
映像理解が自然には育たない能力であるという知見は、「だから映像を遠ざけよ」を意味しない。むしろ、「だから教育の対象にせよ」を意味する。ここが、本書を読むうえでの分岐点だ。
デジタル推進派は、「動画ならわかりやすい」と言う。デジタル否定派は、「映像は子どもには難しい」と言う。一見すると両者は対立しているように見える。だが、実は同じ前提を共有している。どちらも、映像理解を「教育によって育てる能力」として十分に捉えていない。推進派は映像を自然に理解できるものとして扱い、否定派は理解できないものとして遠ざけようとする。方向は逆だが、映像を読む力の育成を教育の仕事として引き受けていない点では、よく似ている。
私たちは、文字については、自然に読めるようになるとは考えない。ひらがなも、漢字も、語彙も、段落構成も、説明文の読み方も、物語の視点も、学校教育のなかで繰り返し教える。ところが映像になると、急に「見ればわかる」と思ってしまいがちである。ここに、現代の学校教育の奇妙な非対称性があるのではなかろうか。
そして、もう一つ見落とされがちなことがある。「紙に戻せば公平になる」もまた幻想である。紙もまた透明な媒体ではないだろう。文字量、紙面構成、図表のレイアウト、手書きの運動制御、ページ間の情報統合—紙には紙の認知的負荷がある。
私自身の経験で言えば、字が汚い。ノートの字面だけを見れば、この人間に知性があるとは信じがたいだろう。それでも、字の汚さを自覚しつつ、教職についている(もちろん、生徒に分かりやすい字で書こうと努力はしているが)。だからコンピュータが大好きであるという面もある。絵が描けない生徒がデジタルツールを手にした途端に驚異的な表現力を発揮する場面も見てきた。表現手段には、それぞれ固有の認知的負荷がある。あるいは障壁がある。その手段が特定の能力を要求するがゆえに、本来持っている思考や表現を堰き止めてしまうことがある。図画工作の授業で、表面的な絵画技術の壁に阻まれて、本来持っている表現力を表出できない生徒がいることに、私たちはもう少し敏感であるべきではないのか(これは若干自己正当化も含まれているが)。
問うべきは、紙かデジタルかではない。どの媒体であれ、その認知的負荷を教育設計に組み込んでいるか、である。
テストは何を測っているのか
本書を教員として読むと、避けて通れない問いが浮かぶ。映像を使った学力テストは、いったい何を測っているのか。
たとえば算数の問題が映像で提示されたとき、そこで測られているのは本当に算数の力だけなのか。画面上の立体を読み取る力、視点を変換する力、映像の約束事を理解する力、端末を操作する力が混入していないか。
もちろん、現実の問題では、これらを完全に切り分けることはできない。文章を読んで算数の問題を解くときにも、算数の力だけでなく読解力が関わる。それと同じように、映像を使った問題では、教科の知識と映像理解の力が重なり合う。
しかし、切り分けられないからこそ、構成概念妥当性(construct validity)が問われる。テストは、測りたいものを測っているのか。それとも、別の能力をこっそり混ぜ込んでしまっているのか。
これはCBTだけの問題ではない。実のところ、紙のテストでもすでに起きている。大学入学共通テストでは、数学や理科の問題に日常的な場面設定や会話文が組み込まれ、「思考力・判断力・表現力」を測る意図で出題されている。だが現場では、「問題を解く前にまず長い文章を読み解かなければならない」という声が絶えない。数学の力を測りたいのか、文章を速く正確に読む力を測りたいのか—その境界が曖昧なまま、「思考力重視」という看板だけが掲げられている。これもまた、構成概念妥当性の問題である。紙のテストにも、印刷物の約束事への慣れ、手書きの負荷、図表読解の前提知識が混入している。どの媒体であれ、「透明な媒体」など存在しない。重要なのは、媒体固有の認知的負荷を、評価設計のなかで自覚しているかどうかである。
ある子どもが問題を解けなかったとき、それは教科内容が理解できていなかったからなのか、画面上の情報の読み方に躓いたからなのか。あるいは、問題文の長さに圧倒されたからなのか。この問いを曖昧にしたまま「これからはCBTの時代だ」と進めるのは危ういのである。同時に、「だから紙に戻せ」と退くだけでは、紙が持つ別の認知的負荷から目を逸らすことになる。
子どもはもはや「視聴者」だけではない
本書にも限界はある。
村野井の議論は、基本的にテレビ映像を中心に組み立てられている。テレビ番組があり、それを見る子どもがいる。「送り手から受け手へ」という一方向の情報の流れが前提にある。著者が積み重ねてきたテレビ映像理解研究の延長に本書がある以上、これは研究史的に当然のことだ。
しかし、現在の子どもたちの映像環境は、この枠に収まらない。YouTubeを見る。TikTokを見る。ショート動画を次々にスワイプする。そして、自分で撮る。切る。並べる。加工する。字幕をつける。投稿する。生成AIによって、映像は撮るものだけでなく、作り出すものにもなりつつある。子どもたちは、もはや単なる受け身の視聴者ではない。すでに編集者でもある。
ここで一つ、発達心理学の古典的な実験を思い出す。Held & Hein(1963)のゴンドラネコ実験である。二匹の子ネコに同じ視覚環境を与えるが、一方は自分で歩き回り(自由ネコ)、もう一方はゴンドラに乗せられて運ばれるだけだ(ゴンドラネコ)。視覚的な入力はほぼ同一である。しかし結果は異なった。能動的に動いた子ネコでは視覚誘導行動が正常に発達したのに対し、受動的に運ばれただけの子ネコでは視覚的手がかりに基づく行動に弱さが見られた。もちろんこれは、映像視聴そのものを扱った実験ではない。だが、同じ知覚入力を受けても、受動的に運ばれる経験と能動的に動く経験とでは発達の帰結が異なるという原則は、映像リテラシーの文脈にも示唆を持つ。見ているだけでは、見る力は育たない。
これについてもまた、デジタルに限った話ではないだろう。私の授業経験で言えば、講義形式の授業では寝る生徒がいた(私の授業力のなさを恥じる)。だが、グループワークを中心にした対話型の授業に切り替えてからは、寝る生徒はほとんど見られなくなった。もちろん、ゴンドラに乗ったまま吸収できる生徒もいる。だが少数派だ。能動的な関与(エンゲージメント)が理解の質を変えるという原則は、映像でも講義でも紙でも変わらない。
映像リテラシーにおいても、同じことが言えるだろう。見せるだけでは育たないが、見せないようにしても解決しない。例えば、映像を自分で作る経験のなかで、映像の文法は身体化される。カットをつなげてみると、場面転換の意味がわかる。字幕をつけてみると、言葉と映像の関係がわかる。視点を変えて撮ってみると、見る人の理解が変わることに気づく。
受容の力は、表現の基礎体力である。村野井の映像理解研究は、受容のメカニズムを精緻に解明した仕事であるからこそ、制作主体としての子どもを育てるための基盤としても読まれるべきだろう。情報Ⅰの「情報デザイン」が本気で扱うべきなのは、見栄えのよいスライドや動画を作ることではない。情報デザインとは、自分が受け手としてどのように情報を扱うかはもちろん、相手がどう受け取り、どこで誤解し、何を見落とし、どの順序なら理解しやすいのかを想像しながら情報を設計することでもある。本書の知見は、その想像力の土台を提供している。
デールに戻る—媒体ではなく、経験を設計する
『経験の円錐』でエドガー・デールが本当に示したかったのは、「映像が文字より優れている」という序列ではなかった。現代の文脈に照らして、いま一度読み返してみるのであれば、学習の目的に応じて、経験の抽象度をどう選び、どう設計するかという問いだったはずである。
映像を使うことが悪いのではない。映像を見せるだけで「わかった」ことにしてしまうこと—媒体のわかりやすさに教育設計を肩代わりさせてしまうこと—が問題である。
村野井の本が突きつけているのは、デジタル化への賛否ではない。「見える」と「読める」の間にある距離である。そしてその距離は、映像に限った話ではなく、文字にも、音声にも、操作にも、あらゆる媒体に存在する。
1964年、サイモン&ガーファンクルは「サウンド・オブ・サイレンス」のなかで、聞こえているのに聴いていない人々、見えているのに観ていない人々の姿を歌った。60年前のこの洞察は、教室にもそのまま当てはまる。音声は鳴っている。映像は流れている。画面は光っている。だが、それが「届いている」かどうかは、まったく別の問題だ。
自戒も込めて言うならば、単に「見せればわかる」で済ませることは、教育の怠慢であるといってもよい。この言葉は、教師個人を責めるために言っているのではない。媒体のわかりやすさを無条件に信頼しながら、教育の仕事を肩代わりさせてしまう態度への批判である。映像を見せるだけで終わらせない。画面を提示するだけで理解したことにしない。子どもがどこで迷い、何を読み落とし、どの約束事をまだ知らないのかを見取る。
おそらく、そこからまた授業が始まるのだと思う。
参考文献
村野井均(2026)『学力テストが映像で出される時代の心理学』福村出版 https://amzn.to/3OWZRA6
Dale, E. (1969). Audio-visual methods in teaching (3rd ed.). Dryden Press.
Held, R., & Hein, A. (1963). Movement-produced stimulation in the development of visually guided behavior. Journal of Comparative and Physiological Psychology, 56(5), 872–876. https://doi.org/10.1037/h0040546
Subramony, D. P., Molenda, M., Betrus, A., & Thalheimer, W. (2014). The mythical retention chart and the corruption of Dale's cone of experience. Educational Technology, 54(6), 6–16.
文部科学省(2026)「令和7年度以降の全国学力・学習状況調査(悉皆調査)CBTでの実施について(令和8年1月改定)」https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/1421443_00005.htm
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