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50代からの知的冒険|切手と国家の物語①母親が持っていた切手がきっかけだった

1970年代から1980年代初頭にかけて、切手収集はごく一般的な趣味だった。私の場合、小学校一年生のとき、母が持っていた天皇陛下、大阪万博、東京オリンピックなどの切手を目にしたことがきっかけだった。

わずか一、二センチ四方の「紙片」に、日本の歴史、万博や五輪の熱狂が凝縮されている。切手の魅力に、子ども心は鷲掴みにされた。

最初は月500円の小遣いを握りしめ、近所の郵便局に通った。気に入った記念切手を一枚ずつ買う。それだけで十分に楽しかった。

我が家には、当時、大ブームとなったゲームウォッチはなかった。後に、我が家からはテレビすら姿を消し、もちろんファミコンもない。そんな環境も影響したかもしれない。

高学年になり、お年玉をもらうようになると、近江八幡駅前の平和堂に入っていた切手ショップにも足を運ぶようになった。当時は、こうした店が大きな駅周辺にはあったと記憶している。

切手趣味週間の「見返り美人」などの高価な切手は、切手少年にとって特別な存在だった。

なけなしの小遣いでようやく買った見返り美人

文化人シリーズの市川團十郎は、今見ても迫力がある。戦後直後の銭単位切手を手に入れたときの高揚感は、今もはっきり覚えている。

1949年発行の文化人シリーズの市川團十郎。銘板付きを好む収集家は多い
「印刷庁製造」の銘板は1949年に「大蔵省印刷局」になるまで続いた

そんなわけで、小学生時代の私は、文字どおり「全財産」のほとんどを切手につぎ込んでいた。

実家に眠っていた切手帳と、突きつけられた現実

私が特に好きだったのは国宝シリーズだ。なかでも、日光東照宮・陽明門の美しさには圧倒された。今見ても、浮き出てくるような立体感と繊細な描写が秀逸で、本物以上に徳川家康の遺功を今に伝えているように思う。

ちなみに、陽明門の図柄は戦前の風景切手以降、何度も使われていて、この切手の図柄は集大成と言うべき傑作と言えよう。

明治初期に発行された日本最初の切手「手彫切手」は凹版印刷だが、この陽明門の切手も、その系譜に連なる技術で作られている。国宝シリーズの陽明門が発行されたのは1978年。当時の日本の切手の美しさは、世界的に見ても群を抜いていたと思う。

政治家になってから、切手に限らず、趣味に使う時間はほぼなくなった。
それでも、実家に残された切手のことは、ずっと心に引っかかっていた。

大切に集めてきた切手を誰かに譲れないか。娘や甥、姪に声をかけてみたが、スポーツやSNSに夢中で、反応は薄かった。

年月が過ぎ、「他人であっても、大切にしてくれる人がいるなら」と思い、養子に出すような気持ちで切手ショップに持ち込んだ。

そこで目にした光景は、正直、衝撃だった。憧れだった「見返り美人」ですら、二束三文だった。

理由を尋ねると、こう説明された。

・趣味の多様化による収集人口の減少
手紙文化の衰退に伴う需要の低下
・記念切手などの過剰な発行
・高齢の収集家による大量放出

切手ショップの関係者談

お金が欲しくて切手ショップを訪れたわけではなかった私は、思い直して切手をそのまま持ち帰った。

家に帰り、懐かしい切手帳を開く。夢中で集め、眺めていたあの時間が、静かによみがえってきた。

日本の切手の価値はこんなもんじゃない

私は、逆にもう一度、切手収集を再開することにした。収集家としてではなく郵趣家として。

50代からの知的冒険|切手と国家の物語

切手と文化・芸術の距離は、想像以上に近い。学生時代を過ごした京都では、お気に入りの神社仏閣を何度も訪れた。今も歌舞伎、浮世絵に惹かれる自分の原点は、幼少期の切手収集に行き着く。

切手は文化だけでなく、政治や社会も映し出す。明治初期の手彫切手や小判切手には、独立国家としての威信がかかっていた。

わが国初の記念切手は明治銀婚だ。天皇家と切手の関係は深いが、上皇陛下ご成婚まで皇族の肖像が使われなかった背景に、宮内庁と郵政省のせめぎ合いが見えてくる。

わが国初の記念切手には明治国家の威厳にあふれている

一枚一枚の切手の背後には、その時代の社会構造と政治があり、値段では測れない価値がある。

郵趣政治家として、切手と国家の物語をnoteで語っていきたい。次回は「手彫り切手から見えてくる明治国家の矜持」について書くことにする。

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