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現代物理学は子供の素朴ななんで?に答を出せるのか?ー物理学がいま歴史上もっとも面白い理由

私は物理学が好きです。

前回の記事で、漫画『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』の最も難解と言われるシーンに関する解説をアップしました。私はこの漫画作品が大好きなのですが、それは作品そのものの面白さや完成度に加えて、作者の思想と作品の構造が現代物理学に根差してつくられていることも大きな要因です。作者が物理学の何を、作品のどこに、どう埋め込んだのかが分かる(ような気がする)ことが痛快なのです。
(なので私の解説記事はほとんど物理学の文脈からみた作品解説になっていて、この作品が根差しているのは物理学だけではないのに、哲学・文化・宗教的な文脈などはぜんぜん入ってません。)

物理学の面白さというのは、たったひとつの数式で世の中の物理現象を全て説明できてしまうという痛快さにあります(そういうことを可能にする理論を探究するのが物理学)。物理学を面白く感じる方はそういうことに痛快さを感じるタイプの人間なのだろうし、物理学をつまらないと感じる方はそういうことには面白さを感じないタイプということなのだと思います。そしてなにより、「この世の理・真理を知る」という行為が生涯厨二病の私にはたまらないわけです。ですが

現代物理学いま持っている「面白さ」には、これとは違う性格のものがある

と思っています。現代物理学はいま、歴史上これまでとは全く異なるステージに立っていると思います。そのことが、いまこのタイミングでこその「面白さ」というものを生み出していると思います。これは、これまでの歴史上にはなかったことです。だから物理学はいま、間違いなく歴史上もっとも面白いタイミングにあると思います。この「面白さ」は、

漫画『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』が持っている面白さと同じ構造

だと思うのです。そして

この「面白さ」を理解するのに、物理学を理解する必要はありません

ですので物理学を知らない方も、つまらないと感じるタイプの方にも、是非この「面白さ」を知ってもらいたいと思います。


この世の全てを説明する「究極の理論」

私は物理学者ではなく、物理学に関わる仕事もしていません。しかし、若い頃は物理学者になりたいと思っていました。成績が悪くて志望校へ行けなかったのですが、だからと言ってそれで物理学への興味がなくなったわけではありません。物理学のプロフェッショナルにはなれませんでしたが、ずっとアマチュアファンのままでいる人間です。なので、しばしば物理学の書籍を読んだり、物理学に関する動画を見たり、できる範囲で方程式を解いてみたりしています。いちアマチュアの私から見て、いま

物理学はそれまで拠って立ってきた土台が揺らいでいる

ように見えます。

少し前に見たとある動画で、世界的な物理学者の野村泰紀先生という方がこんなことを仰っていました。
「現状の超弦理論研究では、どうやら宇宙は10次元でなければうまく世界を維持できない、ということが分かってきた。他の次元数では何も生まれず我々生命も誕生できない宇宙になったりして、ピンポイントでここだけが針の穴を通すようにうまくいく、ということが分かってきた。」(筆者要約)

野村先生はマルチバース宇宙論(多元宇宙論)で世界的に高名な物理学者で、近年はYouTubeなどにたくさん出演されており、お名前をご存じの方も多いかと思います。
超弦理論というのは簡単に言えば「この宇宙で起こる出来事を全て説明できる究極の理論(の有力候補の1つ)」です。
この数式さえあれば宇宙の全てが説明できるたった1つの数式。
歴史上の物理学者の偉人たち、そして現代の物理学者たちがずっと追い求めてきた夢の数式。
その有力候補の1つが超弦理論です。

野村先生の言葉を背景も含めて粗く説明すると、「究極の理論を構築するにはどうしても超えられない理論上のカベが立ちはだかっていて、これまでたくさんの物理学者が挑んできたがなかなかそのカベを超えることができなかった。しかし、素粒子を粒のようなイメージではなく紐のようなイメージで捉える(=超弦理論)とうまくカベを乗り越えられるかも知れないということが分かってきた。しかし同時に「この宇宙が10次元でなければいけない」という縛りがセットで付いてくるということも分かってきた。もしそこでちょっとでも条件が違うと、生命どころか物質も存在しないような宇宙になってしまったりして、どうやら我々のいる宇宙の条件だけがピンポイントでうまくいく(他は全然うまくいかない)ということになっているようだ。」といった感じです。

この話を聞いたとき、「私は生きててよかった」と思いました。私は、統一理論(究極の理論のこと)が生きているうちに完成することも、その可能性が見えてくることもないだろうと思っていました。
もしこの理論がブレイクスルーを起こしたら、

「なぜこの宇宙は存在するのか?」
「なぜこの宇宙はこうならなければならないのか?」

という問いに答が出るのでは!?と思いました。
アマチュアと言えど、私もその答を知りたいと子供の頃からずっと思ってきた1人です。

「究極の理論」ですら説明できないこと

人間はこれまで、ずっとなぜ?を追い続けて歴史を積み重ねてきました。
なぜ物は下に落ちるのか?

ニュートンに言わせれば、万有引力があるからです。
アインシュタインに言わせれば、空間が質量で歪むからです。
ディラックらに言わせれば、真空が重力場という性質を持っているからです。

これら歴史上の偉人たちはみな、下に落ちるという現象を説明するため、従来よりもより正しい理論を発見し、そのたびに物理学を大きく発展させてきました。

しかしこれら3つの説明は、批判を承知のうえでかなり乱暴に言えば、

なぜ落ちなければならないのかという説明を別の表現で言い換えているだけ

です。(規則Aを規則Bで言い換えた同義反復。)これらの説明は、新たな理論が発見されるたびに従来の理論よりもより広い範囲で整合する説明になっていき、なぜ落ちるのかに対する説明力・整合力がどんどん上がってきました。これは間違いなく物理学の進歩・発展です。
しかし、いずれもなぜ落ちるのか?の説明にはなっていますが、

なぜ落ちる必要があるのか?という問いには答えていません

(「こう考えるといろいろな現象を整合的に説明できるようになって、矛盾や不整合がなくなるから」という以上の理由はなく、そうでなければならない必然性までにいたらない。)

なぜ物が落ちる必要があるのか?
ニュートン:「万有引力があるからです」⇒じゃあ、なんで万有引力がないといけないの?⇒アインシュタイン:「空間が歪むからです」⇒じゃあ、なんで空間の歪まないといけないの?⇒ディラックら:「空間が重力場という性質を持っているからです」⇒じゃあ、なんで重力場がないといけないの?⇒・・・

・・・解答を重ねても言い方を換えているだけで、本質的にはこのなぜ?には答えられません。小さな子供の無垢な「なんで?なんで?なんで?」の繰り返しに大人が詰まってしまうかのようです。

人間が本当に納得するための要件

私は、人間が「なぜ?」と問うとき、そこには大きく2種類あると思っています。

1つは「そうなる理由」です。
もう1つは「そうでなければならない理由」「そうであることが必要な理由」「そうであると言える理由」です。


私の中では前者を「根拠」、後者を「論拠」と言い表しています。(これは、根拠・論拠という日本語がそういう意味を持っているということではなくて、この2つの概念を明示的に区別する言葉のラベルとしてこの2つの言葉を私が当てているだけです。)

物理学も、それ以外の自然科学もみな、それらがこれまで答えてきたなぜ?は根拠です。どちらかというとWhy?というよりもWhat?(それは何なの?)とかHow?(どのようにしてそうなるの?)という言い方の方が近しいと感じます。しかし、人間が

心から納得、腹落ちしたと思えるために必要なのは論拠です。

人間は論拠に対してなぜか深い納得を覚える。それ以外にはあり得ないという納得。これはもう、

人間の心体の最深部にある根源欲求

としか言いようがありません。

ニュートン、アインシュタイン、ディラックらの説明は根拠(どのようにしてそうなるのか?)に対しては全く同義反復などではありません。しかし論拠(なぜそうならなければならないのか?)に対しては答えきれておらず、同義反復になってしまいます。

これまで何度か「どれだけ分かりやすく噛み砕いてもどれだけ高度な説明をしても納得できた腑に落ちたという感覚が持てない子」を見かけることがあったのですが、いま思うにそういう子は「どうしてそうでなければならないのか」が腑に落ちないのであって、「どのようにしてそうなるのか」をいくら聞かされても納得できないということだったのかもしれません。そういう子は理解力が足らないのではぜんぜんなくて、むしろ論理というものに対して極めて鋭敏な感覚を持っている子だったのかも知れません。いくら聞いても納得のできる答を返してもらえなければそれを面白いと感じる道理があるはずもなく、自分の好奇心を満たしてくれる別の何かを見つけて去っていった人はたくさんいるのかも知れません。

物理学はどこまでいっても答を出せないのか?

この話をした理由は、野村先生のご説明を聞いたとき「なぜこの宇宙は存在するのか?」「なぜこの宇宙はこうでならなければならないのか?」に答が出るのではないかと思ったからです。前者は根拠を問う問いですが、後者の問いは論拠を問う問いです。物理学はこれまで根拠を問う問いには答えてきましたが、

論拠を問う問いには答えてきていない。

なのになぜ野村先生のご説明を聞いて、後者に答が出るのではないかと私は思ったのでしょうか。

それは野村先生のご説明が、「他の可能性が論理的に全て潰れ、ここだけが残る」という構造的必然を伴っていて、言い換えではない根源的な説明に聞こえたからです。これは

ついに物理学が「そうでなければならない理由」に触れているのではないか?

という感触を持ったのです。「そうでなければ世界が維持できない」という事後的な説明の類との違いは決定的です。

そうでなければ世界が維持できないという説明は、要するに「そういう構造を持っているから」と言っているだけです。問うているのが「どうしてそういう構造を持っているか?」であるのに、「そういう構造を持っているから」という回答は全く回答になっておらず、論理が循環しています。どうして?と問われた子供が「だってそうなんだもん」と答えるのと同じ次元です。

もし統一理論が完成し、それが「究極の理論」なのだとしたら(それで全てが矛盾なく説明できるとしたら)、物理学は世界が存在し得るための最小条件に到達したことになります。そうなったら物理学はひとつのゴールを迎えることになります。根源への探究は終わり、以後、物理学の探究はその理論の応用研究しかありません。もし「究極の理論」が完成したら我々にはもう根源に向けた「なぜ?」はなくなるのでしょうか?

野村先生のご説明は確かに「なぜ宇宙と呼べるものが可能なのか」に一歩近づいています。でもここでよく考えてみると、それでも説明されていない問いが隠れていることに気づきます。それは

「なぜ世界は法則的でなければいけないのか?なぜ世界には法則が必要なのか?」

です。野村先生のご説明は、他の可能性が論理的に排除されるという意味での必然性が得られることを示しています。それでもなお、なぜ論理・構造・法則が必要になるのかという問いは残されていることに気づきます。野村先生のご説明に感じた私の納得は、論拠の半分だけだったのです。

物理学はその発展の歴史の果てに、その法則が極限まで単純化されます。それでもなお法則の必要性は説明されない。もしそれが究極の理論であるなら、もうそれを説明する次の理論もない。「そうでないと世界を維持できないから」以外に解答のしようもないが、それは論理の循環で何の説明にもなっていない。
仮に次の理論がありそれが解明されたとしても、結局は必ず同じ問いにぶつかることになります。そうなると、この問いの解答は永遠に得られないのでしょうか?

理論が宿命的に背負っている「限界」

しかしここで解像度を上げて考えてみて、もうひとつ気づいたことがあります。それは「そうでないと世界を維持できない、法則がなければ世界は存在できない」という説明が根源的なものではない、説明になっていないという私の認識が正しくなかったということです。気づいたのは

「存在という概念そのものが、法則を前提にして定義されている」

という点です。これは循環ではなく、概念の前提だということに気付いたのです。言い換えると

「世界と言えるものは法則を持つものしかない、世界に法則があるのではなくて法則として捉えられるものだけが世界として認識される」

ということです。なにやら難しそうな、あるいは哲学的な表現のように聞こえるかもしれませんが、言っていることは実に素朴で単純です。要するに、世界はなぜ法則的でなければならないのか?という問いは順序が逆で、法則的なものを我々は世界と呼んでいるのです。

だからこの問いはもう

物理学が物理学として成立する条件そのものを問うている。

だって、物理学というのは「世界の法則」を解き明かす学問なのですから、その時点で「世界が法則的である」ことを前提にしています。逆に言えば、法則があるものを「世界」として扱っている。そうでないものは「世界」として対象には上がってきません。

問いを突き詰めていくとこうなることは、もはや

「論理」というものが構造的に背負っている宿命

としか言いようがありません。論理というものは、それが論理として成立するための条件があります。それは、再現性がある、区別できる、連続性がある、因果があるというようなことです。これらがなければ論理は論理として成立しない。しかし問いを論理的に突き詰めていくと、極限の時点で必ずその成立条件そのものを問う段階にぶつかります。「そういうものを論理と呼ぶのだ」という以外の解答がなくなってしまうのです。

物理学がいま立っている段階もこれと同じだと思います。いま「究極の理論」を視界に捉えたことで、物理学が物理学として成立する条件そのものを自ら問う段階まで到達しつつあるということだと思います。
論拠を突き詰めていくと最後には、「再現性がない、区別できない、連続性がない、因果がない。これを世界と呼べるのか?」という問いにしかならず、「それがあるものを世界と呼ぶのだ」という以外の解答がなくなってしまいます。

人間はこれまで、根源的な探究衝動に突き動かされて歴史を積み重ねてきました。では、その果てに超えられない一線の前で立ち止まるしかないのでしょうか?これはもはや論理ではなく感情論でしかありませんが、「論理」というものが宿命的・構造的に背負っていることであると理解したうえで、それでもなお真理探究の行き着く先に根源への解答が得られないと私は考えたくありません。

こんなことを私が考えるのも、アマチュアとして物理学を外から無責任な立場で眺めているからこそなのでしょう。もし私が物理学者になっていたら、おそらくこんなことは考えなかっただろうと思います。(※私が考えないということは、物理学者が考えないことと同義ではない。)

人間が最後に到達する極限地点

ここは私の願望を含みます。

おそらく我々が真理探究の果てに行きつく到達点があると思います。それは

「そうであるとしか言いようがない」構造そのもの

です。私が考えたことは、人間は一度その到達点に行き着いたことがあるということです。

それは数学です。数学はその到達点に行き着いた唯一の学問だと思います。数学では、なぜこの公理なのか?なぜこの論理体系でなければならないのか?をもう既に問い詰めてきました。その結果「これ以上理由を付けることはできないが、これ以外では数学という学問体系そのものが立ち上がらない」という地点に行き着きました。

公理とは、証明なしにその正しさを受け入れるべき数学の前提条件です。例えば「どんな自然数にもその次の自然数がある」というような、「ごく当たり前」のことです。あまりに当たり前すぎて、数学の前提としての公理を論理循環せずに証明することができません。しかし我々が公理を見て感じるのは、

それが正しいとしか言いようがない

ということです。我々を数学の公理を見て、それはなぜかと問わずとも正しさを示す論理がなくとも、納得し腑に落ちます。これはもう論理ではなく身体感覚です。

私は、物理学が極限まで発展したとき、同型の地点に到達するのではないかと思います。それは「我々はそれを採ることを選ぶことも選ばないこともできるが、選ぶとその瞬間に理論体系すべてが立ち上がる」という地点だと思います。

ですが、数学の先例があるからと言って物理学も同じとは限りません。そもそも数学は自然科学ではなく、自然科学の記述装置・論理言語です。物理学は常に自然と観測結果に縛られます。一方、数学は物理学よりもはるかに抽象的自由度が高い学問です。だから数学が必然性に到達したからといって、物理学が世界の存在の必然性に到達するとは限りません。
ですが、数学の先例が示したことは「論理的な必然性の内容」ではなく

「人間が必然性に納得できる形がある」

ということだと思います。問いを突き詰めると、ある地点で「これ以上はもう問うことができないが、問うことができなくとも正しいと納得し得る、恣意的ではない最小状態」に到達するということになります。これは、神への逃避でもなく哲学に寄りかかることでもなく主観的自己満足でもなく、内部必然性による納得です。少なくとも、人間はその到達感がどのようなものかをもう知っています。

いま物理学に起きている変化

現代物理学がその存在条件そのものを扱い始めたということを象徴しているのが、現代物理学が

観測以前の基本的枠組みを問い始めた

ということです。物理学がその歴史の全てにおいて拠って立ってきた枠組みが「反証可能性」です。例外はありません。これは、科学が科学であるための要件であり、現代に蔓延る似非科学(悪意のある詐欺的なものから、善意に基づく無意識の悪意によるものまで全て)とを分かつ決定的な要素です。物理学は自然科学として、その要件を観測によって保持してきました。どんな理論もかならず観測の試練に耐えなければならない。ただこの1点によって物理学は恣意的でなく客観性と再現性のある学問として成立しています。

しかし「究極の理論」は、反証可能性が観測によって保持されるという枠組みを揺るがします。宇宙は10次元でなければならない、それ以外の宇宙では成立しない、という示唆はどのような観測によっても反証が不可能です。なぜなら、どんな高度な観測も、この宇宙の中で観測できるものはこの宇宙の痕跡でしかなく、この宇宙の外の出来事を観測することは不可能だからです。これでは「究極の理論」が、観測による反証可能性というこれまで拠って立ってきた原理原則を破るということになります。(もしも外の宇宙からの影響や痕跡がこの宇宙に顕れるのであれば、観測可能性はあることになりますが。もしそうなら、それはそれで歴史上かつてない大発見です。)

観測で検証できない物理学は正しいのか?そもそも科学とは言えないのではないか?

だから、マルチバース宇宙論に懐疑的な物理学者もきっとおられるのではないかと思います。それは理論が正しいか誤っているか以前に、物理学として科学として認められるか否か、という点で懐疑的なのではないかと思います。もし理論と数式だけで世界が決まってしまうなら、何でありになってしまうではないか。「神が世界をそのように創りたもうた」と言って疑問も批判も放棄するのと同じではないか。こういうことだと思います。このような確実性の高い立場を採る物理学者がいることは、物理学が科学として健全な証です。疑問も持たず批判的検証もせず、画期的な理論を誰もかれもが盲目的に支持するようになってしまったら、それはもはや物理学の構造的な死というものでしょう。

では「究極の理論」は本当に反証可能性がなくなってしまうのでしょうか?
「正しいのかも知れないが(説明力は高いが)、そもそも科学として認められない」というものになってしまうのでしょうか?それとも、反証可能性という科学の要件そのものが揺らぐのでしょうか?私が思うに、これは

反証可能性がないのではなくて変質している

ということだと思います。従来の物理学は、「理論⇔観測」という枠組みでした。「究極の理論」では、これが「理論⇔理論」に変質しています。「理論⇔理論」のうち一方の理論は「究極の理論」ですが、もう一方の理論は既存の理論や究極の理論そのものを指します。極限操作で既存理論に接続されるか?(古典的極限条件で一般相対性理論が導出できるか?低エネルギー極限で量子場理論が導出できるか?)、理論自身に内部矛盾がないか?という数学的な検証です。

これは、検証が観測から論理整合性へ変質しているということです。観測という意味での客観性はありませんが、かと言って恣意的ではありません。しかも、恣意的につくるとすぐに破綻してしまい、内部整合性が異常なほど厳しいものになっていて、野村先生も「針の穴を通すような」という言葉でその厳しさを表現しています。(これが、これまで理論上のカベを超えられなかった最大の要因でもある。)重要なことは、これが何でもありにはなっていないということです。反証可能性の変質は、物理学がその存在条件を問う段階に入っていることの象徴的な出来事だと思います。

ただし「究極の理論」に対しても、観測はその意味を失うことはないと私は思います。「究極の理論」は「世界があり得るか」を語りますが、「我々がどんな世界にいるのか」は語りません。そして観測は「我々がどんな世界にいるのか」を保証します。だから、観測がその意味を失うことはないと私は思います。

物理学はいまの私たちを映す鏡

これらのことが、物理学が歴史上これまでとは全く異なるステージに立っているという言葉の意味です。つまり物理学がこれまで拠って立ってきたその土台そのものが揺らいでいる、ということです。これって、

「攻殻機動隊THE GHOST IN THE SHELL」で語られている主題と全く同型

ですよね。電脳化・義体化によって自分を維持するために必要な部分が現代よりも遥かに少ない社会で、自己のアイデンティティ(自分が拠って立つ土台)そのものが揺らいでいる。押井版アニメ映画は特にメイン主題としてここにフォーカスしています。
この試練にどのような答を出せるのか?は人によって違うのだろうと思いますが、物理学について私がそう考えたように、自己に対して出す答もまた、

そうであるとしか言いようのないもの、理屈ではなく身体感覚で否応なくそうだと感じるもの

になるのだろうと私は思います。デカルトの有名な「我思う故に我あり」というのはこの典型だと思います。デカルトにとっては考えるということが身体感覚としてもっとも確かなものに感じられたのでしょう。攻殻機動隊という作品がこれほどまでに世界的に多くの人に受け入れられたのは、現代社会が自己アイデンティティを揺るがす時代になっていて、多くの人がその答を求めているということが大きな要因の1つなのでしょう。そのとき私は、物理学がそうなると考えたように人もまたそれぞれその答を出すのだと思います。それが、攻殻機動隊で描かれたような、現代よりももっと自己のアイデンティティを揺るがすような世の中になっても変わらないと思います。

人間はこれまで「そうでなければならない理由」を問い続けて、歴史を積み重ねてきました。その中で人間は何度も「これ以上はもうない」と言われた壁を乗り越えてきました。そのたびに人間は問いの形や前提を変えて前に進み続けてきました。大事なことは、問い続けるということなのだと思います。これまで、問うことが無意味だったことは一度もない。問い続けることだけがこれまで積み重ねてきた問いを無意味にしないことだと思います。

問い続ける限り、行き止まりではなく必ず次の扉は開かれる。

我々がいまこうしてここに立っていること自体がその証左です。いや、むしろ「それは立ててよい問いだ、続けてよい思考だ、そうあってよいのだ、少なくともそうあってよい世界は壊れていないのだ」と言い換えた方が、ニュアンスが近いような気がします。個人のアイデンティティであっても同じだと思います。私は楽観的でも悲観的でもなく、歴史的に構造的に見てそう思います。

現代物理学は歴史上これまでとは全く異なるステージに立っています。そのことが、これまでの歴史上にはなかった「面白さ」を生み出しています。その「面白さ」とは、

物理学が、物理学自身の存在条件そのものを問い始めた

ということです。その「面白さ」を理解するのに、物理学そのものを理解する必要はありません。
「究極の理論」を追い求めて極限に達した現代物理学が、それ自身の存在に対してどのような答を出すのか、どうして世界がこうでなければならないのかという問いにどのような答を与えるのか、興味を持って見守っていきたいと思います。このことは、人間にとっても、私個人にとっても意義のあることだろうと思います。

そして、物理学がこのような状況にある時代に我々が生きているというのは、歴史的に見ても非常に稀な、幸運なことだと思います。完成した統一理論が見られる時代に生きているよりも、それが様々な葛藤や困難の中で議論されている時代の方が、むしろ面白いと思います。
もしも、もしも野村泰紀先生にお会いできる機会があるならば・・・、お聞きしたいことがたくさんあります。理論そのものについてよりもむしろ物理学が置かれた状況をどう見ているのかや、物理学がこの先どんな答を出すかについてぜひ質問してみたいものです。

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