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【小説】ウォーデンクリフ

本作は、Xスペース『大人の国語ラジオ』にて桐生るいさんから伺ったお話をもとに生まれた小説です。高校卒業後、部活動での怪我をきっかけに感じた虚しさから、ひとり旅に出られたという実体験に着想を得ています。出来事の細部は創作を交えたフィクションです。

山科駅のホームに立つと、五月の生ぬるい風が首筋を撫でた。

瑠衣は改札脇の運賃表を見上げ、そこに並ぶ無数の駅名を、ひとつずつ指でなぞるように目で追っていった。行き先は決めていない。決めていないということ自体が、これまでの自分にはなかった種類の自由だった。

とりあえず、いちばん遠くまで連れていってくれる電車に乗ろう。そう決めて時刻表を繰った結果、指の止まった先にあったのが敦賀という文字だった。

「テスラなら、なんて考えるだろう」

そう彼女は考えながら、湖西線のホームへと続く階段を下りていった。

小学三年生のとき、図書室の隅で見つけたエジソンの伝記――そこに脇役として登場した、痩せぎすで神経質そうな、けれど誰よりも遠くを見ている目をした発明家に、瑠衣は雷に打たれたように心を奪われた。

ニコラ・テスラ。

世界を照らす電流の在り方をめぐってエジソンと争い、けっきょく歴史の陰に追いやられた男。負けた側にいる人間の、それでも澄んだままの眼差しというものを、瑠衣はそのとき初めて知った気がした。


以来、彼女にとってテスラは偶像であり、教師であり、ときには神でもあった。困ったときには彼を思い浮かべる。それだけで、世界の見え方が少しだけ変わる気がするのだ。

電車が滑り込んでくると、瑠衣はいちばん後ろの車両に乗り込み、進行方向とは逆向きの座席に腰を下ろした。窓の外を過ぎ去っていく景色を見ていたかった。膝の上に置いたくたびれた黒のリュックには、新品の地図と、テスラの伝記が一冊、そして封筒に入った十万円足らずの軍資金が入っている。


去年の十二月、瑠衣はバスケ部の最後の大会でベスト八まで勝ち上がった。中学時代も踏まえれば六年間の集大成だった。強豪校を相手に競り勝ったあの日の体育館の熱気と歓声を、瑠衣はいまでも肌の記憶として持っている。

だが、次のベスト四をかけた試合を控えた練習中、無理に踏み込んだ拍子に右膝から嫌な音がした。半月板断裂。医者からは、少なくとも二か月は安静にするようにと告げられた。

どう考えても、試合に出られるはずがなかった。チームはベスト四まで勝ち残ったが、コートに瑠衣の居場所はなく、そのまま敗れて夏を待たずに終わった。仲間が悔し涙を流す横で、自分だけが乾いた目をしていたことを、彼女は誰にも話していない。

何もできなかった。ただ、それだけのことが、こんなにも長く胸の底に沈殿するとは思わなかった。

一月と二月は、ほとんど病室の天井を見て過ごした。幸い三年生の三学期はもとより授業らしい授業もなく、松葉杖をついて久しぶりに登校しても、教室はどこか他人事のようによそよそしかった。

春、卒業式の日はまだ膝を庇いながらの歩き方で、証書を受け取るために壇上へ続く数段の階段を上るのにも、柄にもなく緊張した。式が終わり、友人たちが涙ながらに写真を撮り合う輪の外側で、瑠衣はただぼんやりと体育館の高い天井を見上げていた。

そのとき込み上げてきたのは、達成感でも寂しさでもなく、ただ広く、ただ静かな、むなしさだった。

何かをしなければ、このまま透明になってしまう。そんな焦りにも似た気持ちに背中を押されるようにして、彼女はふと思った。

――そうだ、日本一周しよう。

思いついてしまえば、あとは早かった。すぐに瑠衣は家の近くの居酒屋と、駅前のコンビニを掛け持ちした。居酒屋は時給八百五十円、コンビニは八百円。皿を洗い、レジを打ち、深夜の棚出しをこなしながら、通帳の数字が少しずつ増えていくのを確かめるのが、その一か月のささやかな支えだった。


ひと月みっちり働いて、ようやく十万円に近い額が貯まった。

「旅に出るから」

そう告げたとき、母は箸を止めることすらしなかった。

「そう」

それだけだった。引き止める言葉も、行き先を尋ねる言葉もない。落胆したのか安堵したのか、瑠衣自身にもよく分からなかった。ただ、その素っ気なさが、かえって迷いを消した。

まだ誰もが手のひらに小さな機器を持ち歩くよりも前の時代で、瑠衣が持っているのは古い腕時計と、皺だらけの地図、テスラの伝記が一冊だけだった。  

電車は大津の市街地を抜け、やがて琵琶湖が視界いっぱいに広がった。五月の光を受けて、湖面は無数の細かな鱗のように輝いている。

膝が疼くことは、もうほとんどない。けれど、立ち上がるとき、ふとした拍子に力を込めようとする瞬間、体が勝手に竦んでしまうことがある。それは古傷というより、記憶そのものが関節に残っているような感覚だった。


瑠衣は膝の上の鞄からテスラの伝記をそっと取り出し、開いた。ページの隅に、中学生の自分が鉛筆で書き込んだ言葉がある。  

――未来は、見えない場所からやってくる。

稚拙な字だったが、いま読み返しても不思議と色褪せない。テスラは、電気を無線で世界中に飛ばすという誰も信じない夢を追い続け、最後は借金を抱えたまま、ニューヨークの小さなホテルの一室で死んだという。


それでも彼は、自分の見た未来を疑わなかった。瑠衣はその頑固さに、いつも救われてきた。負けても、笑われても、届かなくても、見えているものを見えていると言い続けること。

あの冬、プレーイングコートで得られなかったものを、彼女はどこか別の場所で探そうとしているのかもしれなかった。

「まもなく、近江舞子、近江舞子――」

車内アナウンスが響き、瑠衣は反射的に窓の外へ目をやった。湖岸に沿って続く松林の向こうに、青く霞んだ比良の山並みが控えている。


行き先はまだ敦賀までしか決まっていない。そこから先、北へ行くのか、日本海沿いを西へたどるのか、何も決めていなかった。

ただ、湖面に散らばる光の粒のひとつひとつが、これから自分の見る景色の予告のように思えて、瑠衣は本をそっと閉じ、鞄の中にしまった。

電車が緩やかに速度を落とし、次の駅へと滑り込んでいく。瑠衣はもう一度、心の中で呟いた。

ーーテスラなら、こんなとき、きっと恐れなかっただろう。

見えないものの方へ、迷わず進んでいったはずだ。そう思うと、まだ何も始まっていないはずのこの旅が、すでに彼女の中で静かに動き出しているのを感じたのだった。


▶︎るいさん、ありがとうございまいた!

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