(脚本)『煙草と宴』第二幕
あらすじ
東北の田舎町。葬儀中の家の台所。そこに立つ故人の姉。台所を行き交う故人の妹、親戚、友人。それぞれが死んだ彼や家族への想いを抱えていた。
葬儀の片隅で起こる、女たちの想いを描いたひと幕。
(第二幕:上演30~40分想定)
登場人物
女1(イチコ) 故人ハルアキ、チヅ、ヒロミ(第一幕)の姉。
女2(トキ) ハルアキの親しい親戚。
女3(チヅ) イチコ、ハルアキの妹。ヒロミの姉。
男(薬丸) チヅ、ヒロミの友人。
第二幕「煙草と膾(なます)」
時は第一幕と同じ初夏。
場所もまた同じ古い日本家屋。
かすかに日が差す、北向きの台所。
舞台上には大きめの調理台。
女(女1)がひとり。
喪服の上に白い前掛け姿。
簡単な料理の支度をしている。
切り分けたり、皿に盛り付けたり。
女1 菜の花畑に/入り日薄れ/見渡す山の端/霞ふかし(※)
声にならないほどの声で鼻歌を唄う。
女2が現われ、女1に声を掛ける。
女2 イチコさん、イチコさん。
イチコ(女1) なに。
女2 ナマス、まだある?
イチコ もうなくなったの?
女2 村井のおじさんが「おかわり持って来い」って。
イチコ あらあら。
イチコ、調理台の容器に手を伸ばす。
女2 イチコさん、いいの?
イチコ なに?
女2 広間に出なくて。
イチコ もうひと段落付くまで。お寿司来た?
女2 うん、さっき。
イチコ そう。じゃあもう少ししたら。
器から取り出した膾(なます)を皿に盛るイチコ。それを見て女2、
女2 ……なんか口惜しいよね。
イチコ なにが?
女2 ナマスばっかりで。
イチコ なにそれ。
女2 だってイチコさんの煮付けとかウチの白和えより人気なんだもん。
イチコ そりゃ、おいしいからでしょ。お酒のつまみにも合うし。
女2 まぁ、そうなんだけどさ。
イチコ はい。
女2にナマスを盛った皿を差し出す。
女2 あ、うん……
だが女2はそれを受け取らない。
イチコ どうしたの。
女2 なんか疲れちゃって。
イチコ 村井のおじさん?
女2 ん、そんだけじゃなくてみんな。なんで年寄りって「あらまぁ、大きくなって」しか言わないんだろ。
イチコ それは、まぁ。お年寄りだから。
女2 「前に会ったときはこぉんなにちぃちゃかったのに」って。
イチコ トキちゃん、こっち戻ってきたの久しぶりだから。仕方ないよ。
トキ(女2) まぁ、それはそうなんだけど……
そう言って煙草を取り出すトキ。
イチコ あ、ダメだよ。
トキ え。
イチコ 紺野の台所は絶対禁煙。
トキ 換気扇回しても?
イチコ あっちで吸えるじゃない。
トキ だってあっちで吸ったら「なんだ、トキちゃんはもう煙草吸うのか」って言われるし。
イチコ いいじゃない、言われても。
トキ よくないよ。そのたびに「ワタシもう二十歳です」って言わなきゃだもん。そうすると「あらまぁ、大きくなって」って。エンドレス老人会話。
イチコ そっか。でもココは駄目なの。
トキ そうなの?
イチコ 母さんが煙草の煙、嫌いでさ。家族みんな吸うじゃない? だからここだけは絶対に禁煙だって譲らなかったの。
トキ ふぅん。
イチコ 弔問のお客さん用の灰皿、まだ外にあるけど。土間から出て行けば?
トキ ん、いいや。外、暑そうだし。
イチコは会話をしながら切り盛りを続けている。
その姿を見詰めるトキ。
トキ ……イチコちゃんさ。
イチコ なに。
トキ やっぱ台所こもってないで広間行きなよ。長女なんだし。
イチコ でもこっちも切り盛りしないと。長女なんだし。それに、あっちには父さんもチヅもいるでしょ。
トキ 叔父さんはいいけど、チヅちゃん、なんか疲れてるっぽいよ。
イチコ そう?
トキ 窮屈そうな感じだった。
イチコ まぁこんな席だしね。それにこの三、四日、バタバタしてたし。
トキ そっか……
沈黙。
トキ ハルくん、死んじゃったんだね……
イチコ そうね。
トキ なぁんか、ぜんぜん実感ないなぁ。
イチコ まぁ、突然だったし。
トキ それになんでこう、ウチの葬式ってアレなんだろ。
イチコ あれって?
トキ なんていうか、お祝いみたいな。
イチコ ん……お通夜も火葬も終わって、シメみたいなもんだから。最後くらい明るく送り出してやらないとね。
トキ それにしても、なんかなぁ……
イチコ なんか、なに?
トキ 寿司つまんでビール呑んで、じぃちゃんばぁちゃんは大笑いして。これでネクタイが白だったら結婚式だよ。
イチコ (笑って)そうかもね。
トキ これってウチの家系みんな? おととし秋吉の大伯父さん死んだときもこんな感じだったでしょ。
イチコ ウチっていうよりこの辺はそうなんじゃない?
トキ そうかなぁ。
イチコ 分かんないけど。あ、煙草。
トキ え、あ。
トキ、いつの間にか煙草とライターを取り出している。
トキ ごめん、なんかクセでつい……
イチコが小さく笑う。
その後、少し考えて、
イチコ ……あ、違うかな。
トキ え。
イチコ ん……こないだ大学でお世話になった先生のお葬式に行ったんだけど、全然違ったな。
トキ でしょ?
イチコ でもそれぞれなんじゃない、地方とか家とかによって。
トキ そんなもんか。
イチコ それ、いいの?
トキ え。
イチコ ナマス。
トキ あぁ、すっかり忘れてた。
イチコ まぁ村井のおじさん、酔っぱらうとすぐ忘れるからいいけど。
トキ ナマス、ナマス、ナマス……
イチコ え。
トキ これ作ったの小津江さんでしょ?
イチコ そうだけど。
トキ 口惜しくない?
イチコ 何が。
トキ なにがって、その……
口ごもるトキ。
イチコ ……トキちゃんは、
トキ え、
イチコ あんまり小津江ちゃんのこと知らないんだよね。
トキ 結婚式の時に会っただけ。
イチコ よく頑張ってると思うよ。知らない町にいきなり来て………料理だってはじめは紺野の味に戸惑ってたけど、いまじゃすっかり馴染んで。もしかしたら私より上手かも。
トキ そう? ワタシはイチコさんの味付けのが好きだけど。
イチコ ……ありがとう。
女(女3)が現われる。
女3 あ、居た。
トキ え、なに?
女3 村井のおじさんが「トキちゃんどこ行った」って言ってる。
トキ あちゃぁ。
女3 それと「ナマスはまだか」って。
イチコ あらまぁ。
トキ 憶えてるよ、村井のおっちゃん……
イチコ まだ酔っぱらってなかったね。(女3に)チヅさぁ。
チヅ(チヅ) なに?
イチコ これ、持ってってあげて。
ナマスの皿を渡そうとするイチコ。
だがトキがそれを遮り、
トキ いぃいぃ。ワタシ行くから。
イチコ え、
トキ (チヅに)選手交代。チヅちゃん、ちょっと休みな。
チヅ 休むって、別に疲れてないけど……
トキ いいからいいから。
トキ、出て行く。
煙草とライターを置き忘れるが、以降誰もその存在に気付かない。
少ししてチヅの溜め息。
イチコ ……疲れた?
チヅ ん? うん、少し……
イチコ まぁ、ゆっくりしてきな。
チヅ ゆっくりって、休む場所ないよ。
イチコ ここに居ればいいじゃない。
チヅ うん。でもなあ……
イチコ でも、なに?
チヅ うぅん、なんでも。
チヅ、大きく欠伸。
イチコ やっぱり疲れてる?
チヅ うぅん、寝不足なだけ。昨日ね。
イチコ え。
チヅ 昨日、トキちゃんと一晩中電話してたんだ。
イチコ そうなの?
チヅ 始発の新幹線乗るっていうから「早く寝なよ」って言ったんだけど……トキちゃん、泣いてた……
イチコ …………。
チヅ お酒入ってたせいもあると思うんだけど「ホントにハルくん死んじゃったの?」ってわんわん泣いて。「明日、どんな顔していけばいいんだろう」とか……
イチコ ……そう。
チヅ ワタシもはじめ、兄さんのこと思い出して泣いちゃったけど……トキちゃんがあんまり泣くからさ、ちょっと醒めちゃって。なんでかワタシが宥め役になってさ。
イチコ 仲良しだったからね。トキちゃんとハルアキ。
チヅ そうだね。
イチコ 東京でもたまに会ってたんでしょ?
チヅ うん。年に二、三回は一緒にお酒飲んでたって。
イチコ そんな感じじゃなかったけど。
チヅ え。
イチコ ん、トキちゃんが泣いてたって話。
チヅ うん。まず本人が忘れてるし。
イチコ え?
チヅ だって横須賀の伯父さんがそうじゃない?
イチコ あ、そっか。
チヅ 似てるって言われるのいやがってるけど。
イチコ そりゃ、まぁねぇ。
チヅ でもやっぱりそっくりだよ。お酒の飲み方は特に。
イチコ 今日は平気なの?
チヅ うん。飲まないようにクギ指しておいた。
イチコ そっか。
沈黙。
イチコの包丁がまな板を叩く音。
チヅ やっぱ、いやだなぁ……
イチコ 何が?
チヅ 台所。
イチコ どうして?
チヅ なんか暗くて。日当たり悪いしさ。
イチコ でも風通しはいいでしょ。
チヅ ん……でも陰気でヤダ。
イチコ 昔の台所はみんなそうなの。
チヅ まぁそうなんだろうけどさ……ただ……
イチコ ただ、なに?
チヅ ん……ここ来ると母さんのこと思い出す。
イチコ …………。
チヅ イチコちゃんはさ、母さん居なくなってからずっとここに立ってるからアレかもしんないけど、私はヤだな。なんとなく。
イチコ …………。
何かを思うイチコ。
チヅ、その表情を見て、
チヅ あ、ゴメン。
イチコ 何?
チヅ 母さんとイチコちゃん比べてるワケじゃないよ。
イチコ 分ってるよ。なに気ぃ回してんの。
チヅ や、だったらいいけど……ま、要は居場所が無いわけ。
イチコ 居場所?
チヅ さっきの話。広間だけじゃなく、おじいちゃんの部屋にまでお客さん入ってるし。
イチコ 自分の部屋、戻ったら?
チヅ さすがにそれは、アレでしょ。紺野の三女として。
イチコ、思わず手を止める。
イチコ ……あんた、いつから三女になったの?
チヅ え、だって次女は小津江ちゃんでしょ?
イチコ 小津江ちゃんは小津江ちゃんでしょ。
チヅ だってイチコちゃん、ハル兄(にい)、ワタシ、ヒロミ、じゃない? ハル兄のお嫁さんでワタシより年上でしょ?
イチコ でも次女はあんただよ。
チヅ そうなの?
イチコ そうだよ。
しばしの沈黙の後、納得の溜め息を漏らすチヅ。
チヅ ……なんだ、ワタシずっと勘違いしてた。
イチコ 誰にも言われなかったの?
チヅ 言われなかった。ていうか、次女だ三女だってのも自分で言ってなかった気がする。
イチコ まぁそうね。
チヅ そうだ、小津江ちゃんがね。さっきハル兄の友達が遅れて来て小津江ちゃんが出迎えたんだけど……
イチコ なに?
チヅ その後もうひとりの友達がそのヒトのこと、なんでか知らないけど大声で怒っちゃってさ。一瞬しぃんとなった。
イチコ あぁ、それでか。
チヅ え、何が。
イチコ うぅん、こっちでも静かになったの分ったから。
チヅ うん。でも二秒後にはまたどんちゃん始まったけどね。なんかアレみたいだったな。
イチコ あれって?
チヅ レストランとかで店員さんがお皿割っちゃって一瞬会話が止まる、アレ。
イチコ ねぇ。
チヅ なに?
イチコ あんた、これ好き?
と、会話中に皿に盛っていたナマスを差し出す。
チヅ ……え、好きだけど。なんで?
イチコ ぅん、別に。
仕事を続けるイチコ。
男が現われる。
男 あれ。居た。
チヅ あぁ、ハナマル。
男 ハナマルって呼ぶな。
チヅ なに、どうかした?
男 いや、水が欲しくて。
チヅ なに、あんたそんなに弱かった?
男 いやヒロミがね。
チヅ ヒロミが?
男 珍しくもう真っ赤になっちゃって。
チヅ そんなに飲んでるの?
男 ん……ちょっとペース速かったかな。まぁ疲れてるのもあるだろうけど。
チヅ 大丈夫?
男 ん、オレは平気。
チヅ じゃなくてヒロミ。大丈夫?
男 あ、大丈夫……だと思うけど……
チヅ どっち?
男 ……いや、分かんないな。
チヅ (イチコに)やっぱワタシ行くわ。お水。
イチコ、すでに水を注いでいたコップをチヅに渡す。
それを手に出て行くチヅ。
イチコ …………。
男 あ、おねえさん。
イチコ え。
男 これこれ。ナマス。
イチコ あぁ。
男 食べてもいいすか。
イチコ いいけど、薬丸くん食べてなかった?
薬丸(男) いや、食べようとしたらオレの席の周り、もうぜんぶ無くなっちゃって。
イチコ はい。
箸を差し出すイチコ。
薬丸 ……え、ここで?
イチコ あっちに持ってたらすぐに無くなっちゃうから。
薬丸 わ、やった! いただきます。
皿に盛られたナマスをつつく薬丸。
薬丸 お、うま……この酢と甘さの加減がまた……なんていうか、絶妙のハーモニー?
ぱくぱくと食べ続ける。
薬丸 あ、うま……これ作ったのおねえさんですか?
イチコ うぅん、小津江ちゃん。
薬丸 (ナマスを頬張りながら)あぁ。へぇ。ほう。
イチコ おいしい?
薬丸 うん、うまいっす。
イチコ そう……
箸が止まらない様子。
イチコ ヒロミ、どうかしたの?
薬丸 え、
イチコ さっきチヅが「大丈夫」ってしきりに聞いてたから。
薬丸 あ、大丈夫だと思いますよ。
イチコ そう?
薬丸 あいつはああいう奴ですから。
イチコ そっか。
薬丸 そっす。
イチコ 薬丸くんが言うんなら、大丈夫か。
薬丸 …………。
薬丸、ナマスを食べていた箸を止め、
薬丸 ……いや、どうなんでしょ。
イチコ え。
薬丸 あ、いや。オレはホラ、ただのダチですから。
イチコ うん。
薬丸 だから、ある意味あいつのことは知ってても知らないっていうか……やっぱおねえさんとかチヅさんのほうが知ってることもあるっていうか……
イチコ 何かあった?
薬丸 え……いや、何もないっすよ……いや、何もないっていう言い方もヘンか……いや、どうなんだろ……
考え込む薬丸。
イチコ いいよ、言いづらいことだったら別に、
薬丸 いや言いづらいとかそういうんじゃなくて……なんて言うんでしょう……ほら、紺野家に口出すみたいなのもアレですから。
と言ってまたナマスを食べ始める。
イチコ、少し考えて、
イチコ ……「あれ」って?
薬丸 アレ?
イチコ いや、いま「あれ」って言ったから。
薬丸 え、オレ言いました?
イチコ 言ったけど……
薬丸 もしかして「アレ」のことっすか?
イチコ は?
薬丸 アレって「アレ」のことでしょ?
イチコ アレ?
薬丸 だから「アレ」。
イチコ ……ごめん、よく分かんない。なんのこと?
沈黙。
薬丸 ……もしかしてオレ、墓穴掘りました?
イチコ いや、分かんないけど……そうなの?
薬丸 うわぁ、そっかぁ! しまった。いや、しまったじゃないか。ぅわ、なんだろ、オレ……
ちょっとしたパニックに陥り、ひとり頭を抱える薬丸。
その様子を呆然と見つめるイチコ。
薬丸、なんとか自分を落ち着かせ、
薬丸 いや、実はですね、
イチコ (同時に)いや、いいけど。
薬丸 は。
イチコ あ……言いたくなかったら別に構わないから。
薬丸 えぇと……これって、どうなんでしょう?
イチコ どうって、ワタシに聞かれても……
薬丸 あぁ、そうですよね。そりゃそうだ……うん、じゃあ話します。でもコレお姉さんも知ってる話かもしれないんで。
イチコ それはそれで、別に。
薬丸 そうですね。じゃあ……
薬丸、箸と皿を置き。
薬丸 ……ハルアキさんと、小津江さんのことなんですけど。
イチコ うん。
薬丸 結婚したあと、ハルアキさんと二人で帰ってきたじゃないですか。
イチコ うん。
薬丸 ヒロミにはそれがかなりショックだったらしくて。ハルアキさん、「もう帰ってこない」的なこと言ってたみたいじゃないですか、ヒロミの話によると。
イチコ そうだね。
薬丸 それであいつは自分なりに踏ん切り付けて、紺野の家、継ぐつもりでいたんです。でもそこに突然ハルアキさん、帰ってきて……それからずっと悩んでたんです、つい最近まで。それでやっとまた踏ん切りが付いた頃に、ハルアキさんが逝っちゃって……だから、また悩んでるみたいです。その辺ほらオレ、チヅさんとも仲いいからたまに話してたんですよね。それで……
イチコ …………。
イチコの様子をうかがう薬丸。
薬丸 ……やっぱり余計なこと言いました?
イチコ うぅん、別に……でも知らなかった。そうなんだ……
薬丸 あの、なんて言うか……
イチコ え、
薬丸 すみません。
イチコ なんで謝るの?
薬丸 いや、何となく。
イチコ ぜんぜん。むしろ教えてもらって良かった。
薬丸 そうですか?
イチコ うん。ワタシね、長女なのに兄弟のことよく知らないんだ。一番知ってなきゃいけないのに。
薬丸 ……オレ、ひとりっこだから分かんないですけど……そういうもんですか?
イチコ ん、そういうもんだと思うよ……ワタシはハルアキのことも、チヅエのことも、小津江ちゃんのこともあんまり良く分ってない……
薬丸 小津江さんも入るんですか?
イチコ え、
薬丸 そっかぁ。大変だな、兄弟って。弟のお嫁さんまで考えなきゃいけないのか。すげぇなぁ……
イチコ …………。
薬丸、再び皿を手に取りナマスを食べ始める。
イチコ、少し考えた後、
イチコ ……そっか。
薬丸 え、なんすか。
イチコ 薬丸くん、正しい。
薬丸 何がすか?
イチコ ごめん、さっきのはキャンセル。
薬丸 は?
イチコ 小津江ちゃんは、小津江ちゃんなんだ。
薬丸 はぁ……
イチコ だからワタシは平気だ。うん。
薬丸 え……それよく分かんないです。
イチコ ん……ワタシにもよく分かんないけど………でもそんな気がする。
薬丸 はぁ……
イチコ うん、ありがとう。
薬丸 いえ、どういたしまして……
薬丸、訳の分らないままナマスを食べ続ける。
イチコ ……ところで薬丸くん。
薬丸 はい?
イチコ どうしてハナマルなの?
薬丸 なんでですかね。チヅさんが言うには……
イチコ うん。
薬丸 「薬丸だから、ハナマル」って言ってるけど……ワケ分かんねぇっす。
イチコが吹き出す。
薬丸 え、どうかしました?
イチコ いや、その通りだなって。
薬丸 は。
イチコ 薬丸は、薬丸くんだからハナマル。
薬丸 そうすか? やっぱよく分かんないっす。
イチコ ううん、分かる分かる。
薬丸 いや、分かんないっすよ。なんでですか?
チヅが現われる。
チヅ あ、居た。ねぇ。
薬丸 なに?
チヅ ヒロミの相手、代わって。
薬丸 え、オレ?
チヅ ワタシはみんなに挨拶しなきゃいけないの……ていうかなにアンタ、つまみ食いしてんの?
薬丸 いや、別につまみ食いじゃないけど、
イチコ チヅ。
チヅ え。
イチコ ヒロミは平気?
チヅ ……え?
イチコ 大丈夫?
チヅ うん……もう少しすれば、酔いも醒めると思うから……
イチコ そう、良かった。
チヅ …………。
イチコの顔に優しい笑みが浮かぶ。
その表情を窺うチヅ。
ほんのわずかの間。
チヅが薬丸に向かい、
チヅ ……じゃあアンタ、頼んだかんね。
薬丸 あ、うん。すぐ行く。
チヅ、出て行く。
変わらずナマスを食べ続ける薬丸。
イチコ ……薬丸くんさ。
薬丸 なんすか?
イチコ チヅのこと好きでしょ?
薬丸 好きっすよ。
イチコ …………。
薬丸 ていうかオレ、紺野さんの家族、みんな好きです。おねえさんもオヤジさんもハルアキさんも、小津江さんも、ヒロミも。
イチコ ふぅん……
薬丸 え、なんすか。
イチコ うぅん、凄いなぁ、と思って。
薬丸 そうすか?
イチコ うん、凄いよ………うん、凄い。
薬丸 はぁ……
と、突然薬丸の叫び。
薬丸 うわ、しまった!
イチコ え、なに? どうしたの?
薬丸 ……ナマス……ぜんぶ食っちゃいました……
空の皿と箸を両手に持つ薬丸の姿を眺め、イチコが笑い出す。
薬丸 ぅわ、オレどうしよ……
ひとり慌てる薬丸の姿に、笑いを増すイチコ。
ひとしきり笑い終え、
イチコ 大丈夫。まだたくさんあるから。
薬丸 え、ホントすか。
イチコ うん。小津江ちゃんがいっぱい作ってくれたから。
薬丸 あぁ、よかった。オレ、ホントどうしようかと思って……焦ったぁ……
また小さく笑うイチコ。
再び容器から膾を取り分け始める。
薬丸 ほんじゃ、オレ行きますわ。
イチコ うん。あ、薬丸くんさ。
薬丸 なんすか?
イチコ ヒロミのことよろしくね。
薬丸 ……合点承知!
薬丸、笑顔で出て行く。
ひとりきりの台所。
静寂が訪れる。
片隅の床に腰を落とし、台所を見渡すイチコ。
トキが置き忘れていった煙草とライターを見付ける。
それを手に取り、一本を取り出し、しばらくの間それを眺める。
火を点けて、深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
そして煙草を吸いながら、また声にならぬ声で、鼻歌を唄い始める。
イチコ 菜の花畑に/入り日薄れ/見渡す山の端/霞ふかし/春風そよ吹く/空を見れば/夕月かかりて/匂い淡し(※)
煙草を手近な皿に置くイチコ。
盛りかけのナマスを口にする。
静かな、小さな微笑み。
もう一度口にする。
そしてまた、小さな笑み。
トキが入ってくる。
トキ イチコさん、イチコさん。
イチコ なに。
トキ ナマス、まだある?
イチコ またなくなったの?
トキ おかわりリクエストアゲイン。それから、叔父さんがこもってないでこっちに来いって………あ、
イチコが吸っている煙草を見留めたトキ。
トキ 煙草……
イチコ あぁ、ゴメン。一本もらった。
トキ じゃなくてイチコさんさっき……
イチコ うん……今日からね、解禁したの。
トキ …………。
イチコ ねえ、トキちゃん。
トキ なに?
イチコ、皿の膾を指して、
イチコ これ、食べた?
トキ え、食べたけど……
イチコ ホントだね。
トキ え。
イチコ 口惜しい…………でも、美味しい……
トキ …………。
静かな時間が過ぎていく。
すると広間の方からイチコを呼ぶ声。
イチコ あ、呼んでる。(広間に向かい大声で)はぁい! いま行きます。
澄んだイチコの声が響く。
煙草の火を消し、ナマスの皿を盆に載せる。
そしてトキに向かい明るく、
イチコ よし、じゃ行こうか。
トキ うん……
二人、出て行く。
誰も居ない台所。
流しには洗いかけの食器。
調理台には包丁を置いたままのまな板。
煙草を置いた皿からは、消えかけの微かな煙が立ち昇る。
ゆっくりと灯りが落ちていく。
暗転。そして、
-----幕。
※高野辰之作詞「朧月夜」より引用
![リュカ.(Lucas [lyka])](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/294689503/profile_139eec4ebe0c3b11742bcde367b96d17.png?width=60)