飴ちゃんのおばちゃんと幸福の王子
私の心の中にはいくつか瓶があって、その一つに「優しさの瓶」があると思う。
そこには、小さい頃から今に至るまで、たくさんの人からもらってきた、大きくてまん丸でカラフルな「優しさの飴玉」が入っている。
私が誰かに優しくしたり手を差しのべたりするとき、私はこの瓶の中から飴玉を取り出して、周りの人に再分配している気がする。
瓶のふたの上には、典型的な「飴ちゃんを配りたがる関西のおばちゃん」が「はい、飴ちゃんでも食べ」と言いながら、ちょこんと座っている。
「幸福の王子」という有名な話がある。街の貧しい人たちに、自分の金の装飾や宝石を渡していくあの物語は、「賢者の贈り物」と同じくらい印象に残っている。私は特にクリスチャンではないが、小学校を除き、たまたま保育園から大学までキリスト教母体の経営する学校に通っていた。だから、献身みたいなものに親和性を感じていたのかもしれない。
どんな話だったか詳しく思い出したくなり、青空文庫としてネット上にあったPDFを読んだ。
そして、驚いた。
原作を改めて読むと、思っていたよりもだいぶ淡々としていて、そして緩かったのだ。
王子は像になっていて動けないし、まとっている豪華な装飾品も、自分では使えない。生きていたときには知る由もなかった貧しい人々の存在を、像として街を見回せるようになって初めて目の当たりにし、いたたまれなくなる。自分には全く価値がない装飾品を、「これ、役に立つなら好きに使って」くらいの気持ちで人々に渡しているように見えた。そこに、身を切るような苦しさがあるようには見えない。
ツバメもツバメで、仲間たちが次々エジプトへと向かい始める中、あろうことか植物の葦に恋をしてしまい、エジプト行きのタイミングを逃してそのまま残ってしまった、という何とも間抜けなくだりがあった。王子の使いを受けるのも、使命感というより、ちょっとした成り行きの延長みたいだった。
それなのに、結果だけを見ると、最後に天使と神様が出てきて、なんだかすごく立派な物語に仕上がっている。そのギャップに戸惑っていると、私の心の瓶のふたの上から、おばちゃんがにやっと笑って声をかけてきた気がした。
「そうやねん。王子もあれ、なんか崇高なフリしてるけど、ただのおせっかいやで。九割放っておかれへんかっただけやろ。」
そうか、と腑に落ちた。
これは「崇高な自己犠牲」というより、「あとからそう見えるようになっただけ」の物語なのかもしれない。
「なんか、放っておけなかった」 たぶん、王子もツバメもそれだけだった。 押し付けられた自己犠牲なんかじゃなく、自分の心が納得して、自発的なエネルギーで動いただけ。だからこそ王子もツバメも、ボロボロになっても幸せだったんじゃないかな、と私には思えた。
それって、うちの優しさの瓶の上に座っているおばちゃんが、通りすがりの人に「どうしたん?ほら、飴ちゃんでも食べ」って勝手に差し出すのと、完全に地続きのエネルギーなんじゃないだろうか。崇高でもなんでもない、主語が「自分」にある、見返りを求めない身勝手な愛。
この「自発的なエネルギー」で思い出すのは、前に記事にした小学校4年生のそろばんの自習時間のことだ。
あのときの私の行動は、ただ「そろばんを忘れ、何もせずに45分間、正座をしている友だちを見ていられない」という、若さゆえの、ちょっと無鉄砲で身勝手で純粋な「なんか力になれないかな」のエネルギーが生み出したものだった。
ルールを破って一緒に正座したことが100%正しい判断だったかは今でも分からない。でも、そんな私の行動をそのまま受け入れてくれた先生の言葉は、私の瓶をきらきらと満たす大きな飴玉になった。
「だれかに飴玉を差し出したとき、私はまた別の飴玉を受け取ることがある」 このことは、私の人生の中で、とても大きな発見だったように思う。
同時に、私は気がついた。私のこの「力になりたい」エネルギーは、時に、相手にとって望まない「お節介」や「ありがた迷惑」になってしまう可能性を秘めている、ということに。
あのとき、友だちに意外な言葉をかけられた記憶はないけれど、心の中で「私が勝手にしたこと」だと思っていたとしても異論はない。
私がもらってきた飴は、私にとってはキラキラ光る大きくてまあるい宝物だったけれど、差し出した相手に渡ると、口の中の水分を全部持っていかれる黒蜜きなこ棒だったり、汗をかいたわけでもないタイミングでのしょっぱい塩飴だったり、ハリーポッターの百味ビーンズみたいな味に変わってしまうのかもしれない。
人によって、求めるサポートの形は全く違う。 そのことに気づいてから、私はただ闇雲に「自分勝手な優しさ」を押し付けるのではなく、一歩引いて「相手が本当に望んでいることは何か」を考えるようにはなった。
でも、現実に人間関係は難しい。私は、人の心を読める霊能力者でもなければ、ただの飴ちゃん配りおばちゃんだ。だからこそ、私は、私が配りたいタイミングで、私の出せる範囲の飴ちゃんしか出せない。「なんか放っておけない」、「これ役に立ちそうだから渡したい」、そんな頼まれてもいない勝手な動機で動くことしかできなかった。
考えた挙句、グッと抑えることもあったし、その結果、やっぱりあそこで抑えずに飴を差し出していればよかった、と後悔することだって何度もあった。
でも、優しさって、結局は万人受けするものじゃないのかもしれない。最初から立派なものじゃなくていいし、それを断られても、相手は悪くないし、私の中のおばちゃんも悪くない。 心の中のおばちゃんが「そやで。迷うくらいなら配っといたらいいやん!食べるか食べへんかは、相手に決めてもらったらいいんやから。」と笑った気がした。
優しさは、相手に差し出して終わるわけじゃない。相手から飴玉をもらうこともあるし、全然別の人から飴玉をもらうこともある。 でも、いつでも都合よく飴玉が補充されるわけじゃない。
それに、相手からお返しとして返ってきたものが、まさかのサクマのいちごみるくなら最高だけど、ときには、喉も痛くないのにやたらと体に良さそうな苦いお薬系のノーサンキューのど飴だったりすることもある。
だから、配るばかりで、私の中の「優しい飴の在庫」が少なくなってしまう事態も、たまにはある。
だから。
「ごめん、今日は飴ちゃん、もう品切れやねん」
「そうなんや。じゃあ、他あたってみるわー」
「ごめんな。そういや、たまにはそっちのも一個くらいちょうだいや」
たぶんそんなことが言い合える関係性が築けたら一番いい、そう思う。
勘違いしてほしくないのは、おばちゃんの飴ちゃんは「無料の配給所」ではないということだ。 たまに、こちらの「放っておけない、力になりたいエネルギー」に軽々しく乗っかって、甘い汁ならぬ甘い飴だけごっそり取っていこうとする人がいる。
「この人はやるのが好きで配ってるんだから、頼まなくてもやってくれるでしょ」と言わんばかりに、人の目も見ず、用件だけを放り投げてくるような人。
べつに、大層な感謝の言葉が欲しいわけじゃない。崇め奉って欲しいわけでもない。
ただ、私の瓶の中にある飴玉は、私がこれまでの人生でたくさんの人から大切に貰ってきた宝物だ。それを差し出す私の「自発的なエネルギー」ごと当たり前だと軽視されるような人には、一個も飴ちゃんを落としたくはない。
私の中のおばちゃんは、無言で瓶のふたをキュキュッと閉めて、閉店ガラガラをする。「あの人にはもう金輪際あげへんで。瓶に鍵かけて隠しといたる!」と瓶の上で腕を組み、ヘソを曲げる。
だけど、一晩寝て、またその人がちょっと困った顔をしているのを見かけると、私の中のおばちゃんは性懲りもなく、瓶をごそごそと漁り始めている。昨日あんなに怒ってシャッターを下ろして鍵までかけたのに、指先が勝手にとっておきのサクマのいちごみるくを探しているのだから、我ながら呆れてしまう。やっぱり、放っておけない。私の負けである。
私の「優しさの飴玉」は、瓶の中で増えたり減ったり。
私はこれからも、主語を「自分」に置き、心から「力になりたい」と思える相手に、自分の瓶から、自らの手で気楽に身勝手に、無邪気に飴玉を差し出したい。目を合わせようともしない人の要求や、周りからの百味ビーンズは、颯爽とお断りすればいい。
ただ、どこかから降ってくるキラキラした飴玉を見逃さず、この手でしっかり受け取り続けていきたい。
