『足仲彦記』(還れぬ王)序章…
序章 その日、王は還らなかった
天より遣わされ、地へと降りたその王は、まだ裁く者ではなく、秩序を視る者として遣わされていた。
「天遣わし」のとき、天から降りた王は、地に留まる存在ではなかった。
古事記が描く古代世界において、王とは特定の土地に根を張る者ではなく、各地を巡り、秩序を確かめ、役目を終えれば必ず還る存在として構想されている。
天に属する者が地に降り、世界のありようを見届け、役割を果たし、再び天へ帰る。
それが王権という制度のもっとも古いかたちだった。
この「還る」という観念は、死後の救済や霊魂観を指すものではない。
港と海路が国境であった時代、王が還る先とは天上世界であると同時に、王権の中枢そのものを意味していた。
王が巡り、そして戻ることでのみ、交易と軍事、誓約と統治の回路は更新されていく。
ゆえに、王が還れなくなったときに失われるのは、王個人の命ではない。
失われるのは、王権という構造そのものだった。
その記憶は歴史として記されることなく、神話の断片として各地に沈んでいく。
そして、後の世に「急死」とだけ記された一人の王がいた。
還るべき海の先を失い、帰る場所を持たなくなった王。
足仲彦という名は、その最後の痕跡として残された。
