旧東京中央郵便局の地下には昔、日本初の地下鉄が!〜東京建築祭2025③〜
旧東京中央郵便局
『【旧東京中央郵便局】建築史家&改修設計者と、モダニズム建築の保存と再生を辿る』という東京建築祭のガイドツアーも、とても楽しいツアーだった。

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最初に説明しておくと、「旧東京中央郵便局」とは、東京駅丸の内南口の左手に15年ほど前まで立っていた、上の写真のようなビルのことである。1933年に竣工したが、2009年から一部解体が始まり、2012年までに新築の超高層ビルと一体化した建造物「JPタワー」へと生まれ変わった。今は、下の写真のようになっている。また、この1〜6階部分にある商業施設は「KITTE」という洒落た名前とともに有名だ。

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そんな「JPタワー」内を回りながら、専門家たちの説明を聴きながら「旧東京中央郵便局」の魅力を存分に味わおうというのが今回のツアーだ。「JPタワー」1階にある「アトリウム」に集合すると、東京建築祭スタッフの方からの挨拶に続いて、二人のガイドが紹介された。建築史家で日大理工学部建築学教授で、さらに一級建築士でもある田所辰之助さんと、このJ Pタワーの設計者でもある三菱地所設計チーフアーキテクトの大西康文さんのお二人!

日大理工学部建築学教授の田所辰之助さん(右)
まずは、建築史研究家の田所辰之助さんからの説明。
この建物のオリジナルである「旧東京中央郵便局」の設計者・吉田鉄郎さんについて。まずは、吉田さんが1919年に入省した「逓信省」の言葉の由来の説明から始まった。ま、要するに少し前の「郵政省」、そして現在の「郵政事業庁」のことだ。ただし、吉田さんが入省した頃の「逓信省」を今の郵政事業庁と比べると少しばかり誤解が生まれるかもしれない。
なぜなら当時、20世紀初頭の同省は、「電信」という、今ならさしずめ情報インフラの最先端を担当する監督官庁だったからだ、ということをまず田所さんは強調した。そして、そんな最先端官庁には「営繕課」(建設担当!)という部署があってここには、のちに「東京中央電信局」や「日本武道館」を設計したことで有名になる山田守など、優秀な若手建築家たちが多数集まっていた。

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そんな逓信省営繕課に所属していた建築家・吉田鉄郎さんの設計で1931年に竣工したのが、「旧東京中央郵便局」だった。日本におけるモダニズム建築の先駆け的な作品で、鉄筋コンクリート造でありながら、柱や梁の構成が外観で強調されているところが特徴的だ。だって、鉄筋コンクリートには本来、柱も梁も外観的に強調する必要はないはずだ。でも、吉田さんはあえてそれを強調した。そこにはまるで、日本の和風木造建築にも通じる美しさがる。そんな背景から、彼の作品は「木割の美学」とも呼ばれる。そんな吉田さんの代表作である「旧東京中央郵便局」は、当時来日していた「桂離宮」の紹介でもおなじみブルーノ・タウトさんが、ヨーロッパにいち早く紹介してくれたことでさらに有名になった。
さて、このあたりから、実際にこのビルの改修工事の設計を担当した三菱地所の大西康文さんによる解説が始まった。
話は、いっきに2000年代へ。当時盛り上がっていた小泉純一郎首相の郵政改革の荒波から、旧東京中央郵便局も無縁ではいられなかった。業務の面では移転や統合が繰り返され、一方、建物の面でも東京駅前という日本最高峰の一等地を無駄にしないために、その敷地に日本郵便・JR東日本・三菱地所の共同事業として、地下4階地上38階の「JPタワー」が建てられることになった。その際、最初は完全解体される予定だった「旧東京中央郵便局」だが、結果としては、一部分がこのJPタワーの中に残されることになった。一体どの部分がどんな風に残されているのか?パッと見ただけではよくわからない。
そこで、かつての「旧東京中央郵便局」と現在の「JPタワー」、二つの建物を図面で比較してみる。まずは「旧東京中央郵便局」から。

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おわかりだろうか?
二つの図面を見比べるとわかりやすいのだが、現在の「JPタワー」の図面のうち赤色の部分だけが「旧東京中央郵便局」から残した部分で、それ以外の部分は取り壊してしまった。で、この、大西さん曰く「くの字型」の「赤色の部分」の右上に正方形の超高層ビルを建て、左上に「店舗/店舗/店舗」と書いてある横長の建造物を建て、以上3つの建物に挟まれた直角三角形の部分(「多目的広場」と書いてある!)が巨大な吹き抜け空間になっており、「アトリウム」と呼ばれている。

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そんな説明を三菱地所の大西康文さんがしている場所が、まさにそのアトリウムだ。ちなみに、現在のJPタワーの内装部分の設計を担当したのは、建築家としても有名な隈研吾さん。彼は「旧東京中央郵便局」にとって重要な役割を担っていた「柱」を新しい施設の中でも象徴的に使いながら、部分的に往年の外観をイメージした壁面や仕掛けを作っている。結果、なかなかにユニークな空間に仕上がっている。
大西さん曰く、この「JPタワー」は、吉田鉄郎さんのオリジナルデザインを受け継ぎながら、改修デザインの大西さんたちと、内装デザインの隈さんたちとがひとつになって、新しいひとつの空間を作り上げている。そんな話を聴きながら一瞬、アトリウムの三角形が、そんな3人のトライアングルにも見えた。
ところで、「旧東京中央郵便局」を、さっきも書いたように「柱」の話を抜きに語ることは出来ない。。
そもそも吉田鉄郎さんが設計した「旧東京中央郵便局」において、「柱」は非常に特徴的な意味と役割を持っていた。まずは、下の平面図を見て欲しい。

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上の図面はその1階部分だが、床面に無数にある白丸(○)が実は「柱」である。なんという本数!偏執的なまでに柱が林立していた。ただしこの柱の森は、ただの伊達や酔狂ではない。
なぜこんなにも大量の柱を、まるでドット絵のように立てる必要があったのか?
なぜなら当時の「旧東京中央郵便局」では、日本全国から鉄道やトラックで大量の郵便物が届き、仕分けしてから今度は東京全域に送られていき、一方で、東京全域から集まった大量の郵便物が今度は日本全国へと運ばれていく。こうして出たり入ったりする郵便物は、建物内のエレベーターやベルトコンベアなどの重機を使って建物内を縦に横にと移動させる必要があった。そのため、様々な重機を建物内に取り付けやすくするために、これらの柱は重要だったのだ。

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そんな柱の名残は、アトリウムの床面に「八角形の模様」として今も残されている。

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また、アトリウム内の旧東京中央郵便局の「断面部」に、同建築がかつて特徴としていた「木割の美学」に基づく柱のイメージが明確に残されている。下図の向かって左側に、しっかりと白い柱が6本ほど残っている。

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また、それ以外のパート(上の写真では向かって右側の断面)にも、不透明な壁の代わりにあえて透明度の高いガラス素材を多用することで、その背後を貫通しているたくさんの「柱」を印象付ける構成になっている。さらに、内装担当の隈さんは、東京駅前ということで、世界中から集まるお客さんを意識してフロアごとに「布」「瓦」「木材」などの和風な素材をこれらの柱に施している。
ここからツアーはアトリウムを抜けて、そのまま建物の裏側へと抜ける。屋外だ。すると、とってもモダンな風景が見えてくる。下の写真のような旧東京中央郵便局の背面の一部だ。大西さん言うところの「くの字」のテッペン部分が、ほぼ昔のまんま残されている。有名な旧東京中央郵便局のシンプルな美しさを持つファザードとはやや対照的なデザインで、二丁掛タイルを全面に貼った壁面の中で、攻撃的でアクセントの強い黒い非常階段とバルコニーのコンビネーション、さらに特徴的な開口部を持つ煙突など、とても印象的なデザインだ。

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この背面のデザインを、かのブルーノ・タウトは正面のファザードよりも褒めたという。ただし、この背面部分は改修時に移築をしているので、完全なオリジナルではないそうだ。
さて、この場所でも二人のガイドから、いろいろ楽しい話が飛び出した。
当時、日本全国から集まった郵便物を東京駅の地下からこの「旧東京中央郵便局」の地下まで運ぶために、距離にしてわずか200mほどを結ぶ地下鉄が存在していたという。この鉄道は1915年に作られ、一日に100回ほど往復していたという。そして、東京地下鉄道(現在の銀座線)の開通が1927年なので、こちらは貨物専用ではあったものの、日本初の地下鉄ということになる。この軌道は、東京駅での鉄道郵便受渡しが終了する1978年に廃止されるまで、60年間休むことなく走り続けたという。

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郵便物と言えばこの頃、鉄道だけじゃなくトラックでも24時間この建物に運び込まれていた。そのための発着場(搬入口)があったのが現在のこの背面部分の1階部分だった。下の写真が当時の写真だが、移築の際にその特徴的な屋根は取り壊されているが、その付け根跡は今もそのまま残されている。床の高さはオリジナルよりも80cm下げて作ってあるが、この高さはトラック用ホームの高さだ。

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発着場周辺の当時デザインがまた、めちゃくちゃカッコいい!
ブルーノ・タウトが絶賛したのもわかるような気がする。
そんな、ブルーノ・タウト推奨の建物背面を鑑賞し終えると、ツアー参加者はガイドに導かれるまま横断歩道を渡って、今度は東京駅側から「旧東京中央郵便局」の真正面まで進む。ちょうど真ん前に、新しいKITTEの正門が見える。

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東京駅側から見るこの建物は、とにかく長い!めちゃくちゃ横長である。およそ200m。普通のスマホカメラだとひとつの画面に収まりきらないぐらいに長い。
この場所から最初に話を始めたのは、日大理工学部の田所辰之助教授。
ここで、なんと言っても印象的なのはその骨組構造である。鉄筋コンクリート建築なのに、柱〜壁〜柱〜壁〜…という日本建築特有の「真壁造(しんかべづくり)」のように見える不思議なファザードである。「真壁造」とは日本独特の建築スタイルで、お寺や神社などの一般的な和風建築を思い出してもらうと分かりやすいが、柱〜壁〜柱〜壁〜…を繰り返していく。この建築スタイルだと、間隔を決めることで全体と細部のサイズが自動的に計算できるので、かつては、普通の民家ぐらいなら地元の大工さんが設計図無しで建ててしまうことができた。「旧東京中央郵便局」の設計者である吉田鉄郎さんは、この方式を鉄筋コンクリートでも応用できないか?と考えた。
なかなかのチャレンジである。
実際、いずれもシンプルなデザインである柱と壁と窓だけで構成された壁面は、和の「真壁造」をベースにしながらも、爽やかでリズミカルなモダンさが感じられる。それでもまだ吉田は不満だったという。そのひとつが最上階5階のデザインで、ココだけは吉田の前任の設計者のデザインが残ってしまったという。そのため、5階のすぐ下のところに短いスカートみたいなコーニスが残っちゃってる。なんで前任設計者の設計が残ったのかは質問し忘れたが、そりゃ吉田さん、不満だったろうなと想像する。でも、個人的にはこのコーニス、この建物の、ちょっとした可愛げになっていると私は思う。

※赤色に塗った部分
あとひとつ、吉田さんは微妙なところが気に入らなかったという。それが、「袖壁」だ。下図のように、柱梁と窓枠の間にほんのわずかな「袖壁」(赤い部分)が残っている。こうすることで、柱梁と窓枠の間のちょっとした誤差を「袖壁」で吸収したりすることができる。実質的な現場作業としてはとても合理的な作り方だったが、コンクリート建築で「真壁造」を実現するという吉田の理想としてはこのわずかな「袖壁」が許せなかったそうだ。

※赤色に塗った部分が<袖壁>
そこで、吉田が旧東京中央郵便局の8年後に作った旧大阪中央郵便局では、この袖壁を完全にゼロにしている。つまり、柱梁と窓枠とが完全にピタリとくっついている。現場作業の難易度は上がるが、これこそが吉田の夢だった。

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袖壁がない、吉田の夢「完全なる真壁造」が実現されている!

※袖壁が見当たらない
途中から話し手は、田所さんから三菱地所の大西康文さんへと変わった。
大西さんは、旧東京中央郵便局の建物を「くの字」だけ残してあとはすべて取り壊すというプロジェクトの責任者だった。とにかく、こんな風に古いコンクリート建築の一部を残して保存するという作業の方法論がまだ確立されていなかった時代なので、この工事は大きな挑戦だった。しかも、できれば吉田鉄郎さんたちの世代の技術もなんとか新しい建築の中に残したかった。
とくに難しかったのは、建物のうち「くの字」だけを残すことだった。というのも、この「くの字」は、とっても細長い!そこで、この細長い建造物が地震大国ニッポンで物理的に倒れないように、建物内にたくさんの「補強」を取り付ける必要があった。だが、それをしたくなかった大西さんたちは、「補強」の代わりに「免震装置」をたくさんつけることにした。

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また、向かって左側の壁は、実はあえて途中で切断して、間にエクスパンションジョイントをつけてある。これも免震のためだ。でも、ステンレスで覆いをつけて上からタイルを貼り、外側から見てもジョイント部分がわからないようになっている。現場でその説明を聞きながら見ると、確かにその部分は特定できた。
なお、この建物の特徴である白いタイトルについては、耐久性などの問題から、そのほとんどすべてを新しいものと交換した。5階部分はすべて、4階部分も大部分を取り替えた。微妙に色の違う6種類の白タイルが貼られている。向かって右側、時計の下の旧正門口のあたりには、当時のオリジナルタイルが少しだけ残してある。何枚か教えてもらった。
ところでこのタイル、実際は厚みのない薄っぺらなものだが、柱の角などでは下図のように、まるで煉瓦を積むように(つまり、煉瓦のように厚みがあるように)貼ってあるので誤差が出やすい。それでも全400段のタイトルを厳格なルールを守りつつ見事に貼ったそうだ。この際、現在のメートル法の計算で、かつての尺貫法の寸法をピタリと合わせたという。職人さんたち、おそるべし。

※ちょうど、石垣の角の部分を想像してもらうとわかりやすい
再び、田所さんの解説が始まる。
旧東京中央郵便局の外観ファザードで設計者・吉田鉄郎さんは「自抑性」という概念を表現したかったという。「自抑性」とは「個性を型に入れて鍛錬し、普遍的なもの、永遠的なものに高める」ものだと吉田さんは説明している。まさに、そんな吉田スタイルのひとつの頂点としてこの建物は建てられた。
ちなみに、そんなこの建物も2000年代に入ると郵政民営化の波の中。2009年には完全に取り壊されることになった。だが、当時の鳩山邦夫総務大臣の「重要文化財になるものはそんなにない。重要文化財でなくすのは、トキを焼き鳥にして食べるような話だ」という言葉をきっかけに保存運動が活発化し、現在の方法での保存が決まった。
さて、ここからツアー一行は、東京駅前から横断歩道を渡って旧東京中央郵便局の旧正門の前へと移動する。
このあたりのタイルに、オリジナルのタイルが混じっていることは少し前に説明されていたが、このあたりの窓ガラスも「当時のガラスをイケドリにして使った」という説明が大西さんからあった。これはつまり、解体工事の際に「建設当時の古いガラスを採取保存しておいて、改修工事の際に改めて使った」ということだ。「イケドリ」という言葉遣いが面白い。確かに、と思う。そしてイケドリにされ再利用されたガラスとは、表面が完全なる水平ではなく、ゆるやかに波打っているためにわずかに風景が歪む、例のガラス板である。
さて、正門から建物の中に入ると、そこは現在「東京中央郵便局(銀座郵便局JPタワー内分室)」と「ゆうちょ銀行 本店」になっている場所だ。かつての、東京中央郵便局の窓口だ。

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ココにも存在感たっぷりの柱が大量に群生している。これらはベルギー産の大理石によって作られている。改修時に床の高さを歩道の高さに揃えるため80cm下げているので、大理石製の柱の根本には巾木(はばき)がついていて、その高さを吸収している。また、大理石は郵便局の長い歴史の中で人間の呼吸などにより劣化(中性化)しており、改めてアルカリ化してから再利用したという。柱のアルカリ化っていうのがどんな作業か知らないが、なんか、凄そうである。
続いて、館内2〜3階にある「インターメディアテク」へ。

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ここは、東京大学が開学以来、蓄積してきた学術標本を展示しているが、館内の一部に旧東京中央郵便局時代の内装が残っている。例えば、天井などのモルタルは当時のままだが、当時はその色は白だったものが今では濃い色に塗り替えられたりしている。また、フローリングも当時の雰囲気を残している。
さらに、4階にある「東京中央郵便局長室」へ。

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眼の前の東京駅を見下ろすためにしっかり広くとった窓など、その内装が抜群に素敵な部屋だ。落ち着いた色調の壁、床、テーブルなど、そのもろもろたまらない。いずれも、軽やかな高級感がある。田所さんによると、これらはもちろん吉田鉄郎さんのデザインで、吉田が故郷・富山県から連れてきた棟梁と組んで作ったという。とくに、非常に凝ったこの部屋の壁は、吉田の作品である「旧馬場家牛込邸」にある壁とも類似している。
そして、この「旧馬場家牛込邸」の持ち主だった馬場家とは、北前船の時代から活躍し富山県で海運業を営んで財産を築いた富豪一家で、吉田鉄郎の実質的なパトロンでもあった。そのため、逓信省経理局営繕課のスーパーエリート設計者だった吉田は、昼間こそ逓信省の省内でバリバリと働いてから、夜になるとこのパトロン・馬場の屋敷に移動して、このパトロンのためにディーゼル船の時代に電気船を作るための設計などをしていたという。吉田さんのバイタリティが忍ばれるエピソードだ。
ツアーの最初に「今日は動き回りますよ」との説明があったが、この日は本当によく動いた。JPタワー、とくにKITTEの内外をグルグルと回りながら、最後は途中で見かけた「屋外非常階段」のちょうど真裏あたりにある「館内非常階段」を登って、「屋上庭園」へ。
屋上庭園は、ただただ気持ちがいい。おもに、芝生とウッドデッキとベンチで構成された開放的な空間の南端には、開口部がカンカン帽みたいな形状の煙突が立っている。それ以外は、青空が空一面に広がる楽しい空間だ。

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ここでの解説では、とても面白い話が飛び出した。かつて旧東京中央郵便局時代の屋上には布団干しの場所があったという。なぜなら、往時、局員たちが24時間休みなく働いていたこの建物には宿舎的な施設が上層階にあり、そこで暮らす人たちのために建物内には、病院、薬局、散髪、食堂などの施設があったという。あの、吉田鉄郎さん設計のシンプルで美しいファザードの裏に、24時間突貫工事で働く人々の汗にまみれた作業現場とともに、そこで暮らす人々の日々の生活があったことにかなり感動する。
さて、最後に面白い話が始まった。
この屋上庭園からは、東京駅とその周辺の風景が思っきり見渡せる。東京駅の赤茶色の美しいフォルムとその駅前広場を、まるで天然の盆地のようにたくさんの高層ビルが囲んでおり、その真上を広々とした青空が覆っている。旧東京中央郵便局の屋上から見渡すと、向かって右の八重洲口側にはグラントウキョウの2つのタワーや東京ミッドタウン八重洲などの高層ビルが並び、向かって左の丸の内口側には丸ビルや新丸ビルなどの高層ビルがやっぱり並んでいる。
このうち丸の内口側を見てみると、ひとつの特徴に気づく。

高層ビル群の高さとは別に、もうひとつの高さに気づく。JPタワー、丸ビル、新丸ビル、日本工業倶楽部など、これら高層ビルの壁面下層階は共通して古風な建物のデザインになっており、それらがすべてピタリと同じ高さで揃っている。実はこの高さ、かつて日本にあった「百尺規制」というルールの名残だ。当時の我が国では100尺(およそ31m)以上の建築物を建てることが出来なかったので、当時の高層建築であるこれらの建物は、制限一杯ギリギリの高さ31mで揃っている。

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その結果、「丸ビル」こと現在の「丸の内ビルディング」(2002年竣工:地上180m/37階建て)の下層部分に再現された、かつての建物(1923年竣工の初代・丸ビル:地上8階建て)のデザインもまた、ピッタリ31m。お隣の「新丸の内ビルディング」(2007年竣工、かつての初代・新丸ビルは1952年竣工)も同様に、古いデザイン部分の高さは31m。そして、今まさに屋上に建っている「JPタワー/旧東京中央郵便局」、そして新丸ビルの向こうに見える「日本工業倶楽部」なども同様に古い建物の高さが揃っていて、「百尺規制」の名残を今に残している。

右奥に見えるのは「新丸の内ビルディング」(2007年竣工)
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かつての建造物の名残をこうやって残す方法を「ファザード保存」と呼ぶ。
また、その形状から、たまに「腰巻ビル」と呼ぶことも。
さらに、新丸ビルに隣接する「みずほ丸の内タワー・銀行会館・丸の内テラス」(2020年竣工)の場所にはかつて、モダンルネサンス様式の建築物「東京銀行集会所」(1916年竣工)が建っていたのだが、地上20階建ての建物「東京銀行会館ビルヂング」(1993年竣工)を建てる際に、古い建造物(東京銀行集会所)の一部を保存・再利用して下の写真のようになった。しかし、残念なことに2016年には、隣接する「みずほ銀行前本店ビル」「銀行会館」とともにすべて解体され、新しい高層ビル「みずほ丸の内タワー・銀行会館・丸の内テラス」(2020年竣工)へと生まれ変わってしまった。

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同じく新丸ビルに隣接する「日本工業倶楽部会館」の場合は、2/3を解体しながら1/3を保存して2003年に地上30階建の新高層ビル「日本工業倶楽部会館・三菱UFJ信託銀行本店ビル」(2003年竣工)に統合されている。これとだいたい同じようなスタイルなのが、2012年竣工の「旧東京中央郵便局/JPタワー」だ。

新築された地下構築物の上に免震装置を介して建物を保存しているそう。
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そして、この流れがさらに進化したとも言えるカタチが、先日noteでも紹介した「明治生命館」である。2004年に竣工した新しい超高層ビル「明治安田生命ビル」と合体させることにより、古い建物を100%保存することに成功している。

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こうして、
●「一部を保存するも、その後解体」(東京銀行会館ビル 1993年)
●「過去の意匠だけを再現」(丸ビル 2002年、新丸ビル 2007年)
●「1/3を保存、2/3を解体」
(日本工業倶楽部会館 2003年、旧東京中央郵便局 2012年)
●「完全保存しながら統合」(明治生命館 2004年)
…と、
東京駅周辺には、古い建物を活かしながら新しい建物を建てていく歴史の遺構が各年代ごとに揃っている。結果、まるで建築保存のフォロ・ロマーノみたいな場所になっている。1980年代の「丸の内マンハッタン計画」に基づき、この付近では建物の高層化が進んだが、その過程で最初は壊されるがままだった古くて素晴らしい建造物を、何らかの方法で未来へ残していこう!という意思が生まれ、それがどんどんカタチ(技術と結果)になっていくという流れへと育っていった。今回、たっぷりと鑑賞した「JPタワー/旧東京中央郵便局」はその、まさに過渡期的な作品だったと言える。
以上、
駆け足で東京建築祭2025のツアー『【旧東京中央郵便局】建築史家&改修設計者と、モダニズム建築の保存と再生を辿る』の模様を振り返ってみた。このツアーでは、とっても充実した時間を過ごすことが出来た。解説するお二人、田所辰之助さんと大西康文さんの、オリジナル建築の設計者・吉田鉄郎さんへの多大なるリスペクト魂がめちゃくちゃ感じられる60分間だった。いや、お二人の話が終わらず、延長に延長を重ねた90分間だった。とにかく、楽しかった!
2025-08-05
