闇 379(二俣川最後の日編)
闇 379(二俣川最後の日編)

2025/10/16 thu
前回の章

二年十六年十一月十三日、日曜日大安。
石川との楽しかった宴から、忌々しい二俣川のアパートへ戻って二日目。
俺は未だこの暗く侘しい場所からまだ動かずにいた。
本来なら土曜になった時点で、川越へ行くつもりだったのだ。
しかしその日は仏滅。
これだけの地獄めぐりをした俺は、以前よりこの辺が慎重派へと切り替わっていた。
豪速球投手が自身の老いに気付き、小便カーブを投げ出した感じに近い。
なので昨日は夜になるとまたあの西友へ行き、侘しい二百八十円の弁当を買い食べる。
少しだけ前と違う点は、総菜のコロッケとメンチカツを両方一緒に食べた事。
特別に頑張っている訳ではないが、あの死の淵から何とか生還し、何とか今も息をしている自分自身へご褒美として与えるにはいいだろうという思ったからだ。
本当に安っぽい男だな。
仏滅で気にしたが、本日は大安。
昼になり、出掛ける準備をした俺はふと気になった。
今日はエリザベス女王杯。
浅草ビューホテル時代、ダンスパートナーとフェアダンスでズバリ取ったレースでもある。
おいおいそれっていつの話だよ?
千九百九十六年だぞ?
ちょうどピッタリ二十年前。
ちょっとおかしい……。
いや、かなり変だ。
二十年前に当てたゲンのいいレース…、ここまではまだいい。
これまで貧窮によって競馬など、ほとんどしていなかったに等しい俺。
すぐ川越に帰ればいいものを、ついついどうでもいい事を考え出してしまう。
もし大安で縁起が良いなら、本日の競馬も当たるのではないだろうか?
妙な引っ掛かりと、お告げに似たような変な自信。
自分自身に呆れてしまう。
今こうして元気を取り戻せたの何故だ?
岡部さんがいきなり二十万円を貸してくれたから。
その命に等しい金をいきなり競馬に使う?
違う、最初は西友の弁当を買うのに使わせてもらった……。
そんな事言ってんじゃねえって!
邪な気持ちでくだらない金の遣い方をするなって言ってんだよ!
どうでもいい自問自答を繰り返す。
そもそも俺の銀行口座の中なんて、千円すら残っていないだろうが。
そっか!
岡部さんから借りた大事な金を賭博へ充てるのではない。
これは、キャッシュディスペンサーではおろせない金額を有効利用しようという話なのである。
JRAのネット投票へ久しぶりにログインしてみた。
残高いくらかまで覚えていないが、百円単位で入金はできる。
俺は九百円の入金を申請した。
エラー、残高が足りないと表示される。
じゃあ八百円…、あ、できた!
自身のある意味本当の全財産。
大安だしエリザベスだし、当たるような気がした。
しばらく競馬などやっていないから、馬の名前なんて分からない。
俺は誕生日の九月十三日を軸に考える。
まず京都11レースのエリザベス女王杯。
三連複で9-1-3、二百円。
七月に酷い目に遭ったイメージだから、馬連7-9に二百円。
それと誕生日馬券の馬連で9-13へ二百円。
一昨年の有馬記念の再来を期待して、枠連4-6へ二百円。
俺は両手を静かに合わせ合掌しながら「南無さん…」と呟く。
テレビが無いのでタバコを吸って時間を潰す。
時刻は夕方四時過ぎ。
そろそろレース結果も出た頃だろう。
インターネットで閲覧してみる。

えーと…、一着3番、二着9番、三着1番……。
あれ、これひょっとして当たってねえか?
三連複ズバリゲット!
二万六百八十円の万馬券。
つまり二倍の四万千三百六十円になった訳だ。

手狭な部屋の中、一人飛び上がって喜ぶ。
「キュピピ」
「あ、ごめんよ。驚かせちゃったね」
マゲ一家全員に謝り、小さくガッツポーズをした。
待てよ…、これ各二百円ずつ買った訳であるが、はなっから三連単ボックスを買っていたら、いくらになったんだ?
「……」
三連単配当が十五万八千九百三十円?
「えー!」
百円を六点買いで買っていれば、その金額になっていたの?
「あー!」
その場で地団駄を踏む。
「キュピ」
「ごめんごめんよ、君たち」
まあ結局たらればを気にしたところでしょうがない。
どちらにせよ、八百円が四万円になったのだ。
つまり俺はウィナー。
石川雅之へ連絡をする。
この勝利の喜びを分かち合いたかったから。
しかし彼は仕事で多忙との事で無理。
仕方ない。
さて…、夜の街へと繰り出すか……。
スーツへ着替えながら、途中で動きを止める。
馬鹿…、本当に俺の馬鹿……。
岡部さんから借りた二十万があったからこそ、なけなし残高の八百円を競馬へ賭けられただけの話。
これですぐ図に乗るから、俺は地獄へのめり込むのだ。
いい加減学習しろよ、馬鹿……。
何を図に乗ってんだ。
あの時電話がなかったら、保土ヶ谷バイパスから飛び降りていたんだぞ?
無意味な身投げをして人生終えるところ寸前だったのだ。
その一週間後競馬で当たったぐらいではしゃぐなよ。
そして岡部さんへの感謝を忘れるな。
今日は大人しくこのまま過ごす。
腹が減ったら西友へ行き、さもしい弁当を買って食う。
これが俺の二俣駅ルーティーンだろ!
自身を厳しく戒める。
仁義礼智信、厳勇の厳だ。
この五徳を実行するには、自分を厳しく諫める。
すぐ図に乗るんじゃない。
これから新たな出発なのだから。
川越には明日ゆっくり帰ればいい。
二千十六年十一月十四日、月曜日赤口。
爽快な目覚め。
小気味いい朝がやってくる。
でもこの部屋に日差しなど届かない。
忌々しい戸田のようなネチネチとした部屋。
マゲ一家の餌と水を替える。
シャワーを浴びて、身支度を整えた。
さて、いざ川越へ。
徒歩で二俣川駅へ向かうが、本当に坂道が多いよな、ここって。
電車へ乗って横浜駅へ到着してから気付いた事。
そういえば明日引っ越しで、どちらにしても川越へ帰るんじゃん……。
何をやってんのよ、俺は?
でもここまで来ちゃったしなあ。
せっかくだからちょとだけ顔を出しに行くか。
仏滅だから大安だからとか意味不明な事を気にしたから、こうなってしまう。
でもそのお陰で競馬当たったし。
湘南新宿ラインから新宿駅まで向かい、そこから歩いて西武新宿駅へ。
歌舞伎町エリアに差し掛かり、随分久しぶりに来たような感覚になる。
セントラル通りの奥に見えるホテルから首を出したゴジラが見えた。
もうあそこにコマ劇場はない。
フライキッチン峰が残っていたなら、寄っていったんだけどなあ……。
もうどこへ行ってしまったのか、あの店はとっくに無いのだ。
何だか淋しい。
「……」
俺がまだ若く楽しく馬鹿をやっていた時代。
時の流れはこうしてみると恐ろしく早い。
この街へ初めて流れ着いてから二十年が過ぎたのか……。
そりゃあ俺も年を取る訳だ。
横断歩道を渡り、新宿クレッシェンドの表紙の撮影をした場所を通る。
あの撮影が二千七年の冬、岩上整体を開業していた頃だから九年前になるのか。
時間は進み、担当編集の今井貴子はもう亡くなっている。
三十代の彼女が癌で死に、四十五歳の俺は生き恥を晒しながらも未だこうして生きている現実。
何故俺はまだいて、ここへいる?
分かる訳がない。
でもまだ何かしらやらなきゃいけない事が、きっと残っているはず。
地獄からの生還した男が、再びこの汚らしいネオンの街を通るだけ。
歌舞伎町の中にはあえて入らず、靖国通りを歩いて西武新宿駅へ向かう。
久しぶりの特急小江戸号。
久しぶりの地元川越。
いやいや、全然久しくないじゃん。
九月の終わりに保険証の再交付で来ているよ。
本川越駅へ到着すると、一つしかない改札を潜り、目の前の駅ビルペペを通過する。
出ると以前なら目の前に岩上整体があった。
そしてその横には街中華の王賛、二階には焼肉の炙りや。
「……」
今じゃその建物ごとありゃあしない。
時間の経ったあとの寂しさを実感する。
駅前の中央通りをそのまま真っ直ぐ進む。
熊野神社、連繋寺を過ぎて始さんの和菓子屋の伊勢屋へ顔を出す。
挨拶を済ませると隣りのレストランシブヤへ入る。

まずは地元で愛着のある場所で食事を。
「あら、岩上さんお久しぶり。ランチ?」
「もう! よく覚えていますよね。それと焼きそばも下さい」

ここへ来ると九割方頼むランチ。
トンカツ、串カツ、酢豚に焼売、ライスにサラダが一つのプレートへ乗ったメニュー。

そして焼きそばと、俺は久しぶりの川越の味を胃袋へ放り込む。
店を出ると加賀屋のおばさんのところへ…、まあ明日またこっちへ戻って来るからな。
積もる話があり過ぎる。
時間に余裕ある時のほうがいいだろう。
今日は横浜へもう戻るとするか。
帰り道櫻井商店の前を通ると、カーテンから明かりが漏れていた。
また櫻井さん、松永さん呼んで中で酒を飲んでいるのか?
顔を出すと案の定二人で酒を飲んでいる。
「あ、智一郎だ」
「おう、智一郎。おまえも座って飲んで行け」
自分の家でもないのに偉そうな松永さん。
お言葉に甘え腰掛ける。
「智一郎、ウイスキーでいいのか?」
「ありがとうございます」
三人で乾杯し、酒を飲む。
「そういやあ智一郎。おまえ、今年の祭りいなかったじゃねえかよ」
「そんな事より松永さん……」
「ん、何だよ?」
「入学金は用意できたんですか?」
「テメー、この野郎! ぶっ殺すぞ!」
松永さんへ会う度通過儀礼のように定着したこのやり取り。
川越に帰ってきたんだなと実感する。
「あれ、智一郎こっちへ帰ってくるの明日じゃなかったっけ?」
「そうなんですよ。明日が引っ越しなんですよ。だから今日は一回面倒だけど戻るようなんです」
「何だよ…、おまえがこっち戻って来るんじゃ、またこうして飲む回数が増えるなあ」
そう言いながらグラスを傾ける松永さん。
自身の存在意義を感じられ、有難いなと思う。
「そんな事よりも松永さんは、早く入学金を用意して下さいよ」
「テメー、まだ言うか、この野郎!」
川越での日常が少しずつ身体へ馴染んでくる。
このあと河岸を変え、街中華呑龍へ向かう。

絶対に譲れないのがこの店のしょうが焼き定食。

櫻井さんたちは餃子と豚の唐揚げをつまみに酒を飲んでいる。
呑龍マスターの太った次女が店を手伝っていた。
基本的に無口な子だが、何故か俺には色々話し掛けてくる。
「おい、俺がな…。どれだけここのしょうが焼き定食食いたかったか、おまえに分かるか!」
「分かんにゃい」
「駄目だ、そんな事じゃ! せっかく親父さんの傍にいるんだから、おまえがこの味を継承しなきゃ駄目だろうが!」
「料理苦手だし」
「この野郎!」
「私、女」
俺と次女のやり取りを見て、松永さんが大爆笑していた。
明日は引っ越しなので、そろそろ横浜へ帰る準備をする。
川越から池袋、そこから横浜、それで二俣川。
多分このルートが一番早いだろう。
クレアモール商店街を歩いていると、天下鶏のオーナーである田辺に突然「智さーん」と抱きつかれる。
川越のいい部分でもあり悪い部分。
知り合いが地元なので多過ぎる事。
嬉しい悲鳴ってやつだよな。
ああ、帰るの面倒臭い……。
二千十六年十一月十五日、火曜日先勝。
とうとう二俣川最後の日がやってくる。
昼頃には引っ越し屋も到着。
この二年間で同じ引っ越し屋を三回も使ったので、料金を割り引いてくれた。
横浜から川越まで三万八千円。
ようやくこれで忌々しい坂の街でもお別れ。
まるで感慨深いものがない。
そもそもいい思い出が何一つここには無いのだから当然である。
サビた鉄柵のロフトを眺めた。
本当に鬱になり、心が折れそうになった場所だったなあ……。
九月末から十一月半ばまでの約一ヶ月半で、もらった金一万五千円だけ。
しかもクソガキ職人の玉井の携帯電話を壊したから、俺は二万円あげているのだ。
それに毎日現場へ行く電車賃や飯代も掛かっている。
完全な赤字。
あの戸田も何を考えて俺を拘束したのか意味不明だ。
あの時辞めて地元へ戻っていたら、もう少し違っていたような気がする。
それを強引に引き留め、こんな辺鄙な場所を用意して。
しかもよくよく考えてみたら、こっちへ来て一円すらもらっていないのだ。
本当にこれ、人間が死ぬぞ?
あの男に声を掛けられ、二俣川と関わるようになってからマイナスにしかなっていない。
人間は霞を食って生きられる訳ではないし、生活する上で最低限の金は掛かってしまう。
ここへ来た時の引越し代だって自分持ち。
普通に想像すれば生活できなくなるのぐらい分かるだろ。
ジメジメと暗く、自分で後々責任が来ないよう人を疲弊させ遠回しに誘導するだけの男。
これまで見て接してきた中でも最低ランクの人間だ。
俺は岡部さんのような先輩がいたから、たまたま立て直せるチャンスがあっただけに過ぎない。
挫けそうな時に、石川雅之が美味い店を色々連れて行ってくれた。
川越へ戻ろうと決めた時、坊主さん夫婦が千葉へ来いと言ってくれた。
裕子さんが泣き叫びながら俺に言ってくれた数々の言葉。
本当身に染みたなあ……。
あの二人の結婚式で頼まれた友人代表のスピーチを思い出す。
「この度土方智さんと最上裕子さんがこの場で結婚します。私にとって兄のような存在であり、また裕子さんも俺にとって姉のような存在になります。ん? 兄と姉…、これじゃ近親相姦になってしまいますね……」
会場がドッと沸く。
「ちょっと矛盾した言い方になるけど、言わせて下さい。坊主さん、裕子さん! いや…、兄さん、姉さん! 本日はご結婚本当におめでとうございます!」
深々と頭を下げる中、割れんばかりの拍手に包まれた。
俺が歌舞伎町へ行き出してすぐの頃。
二十代半ばか?
坊主さんなんて俺が自衛隊終わってからの付き合いだから、十九歳の頃からだ。
彼からはパソコンのスキルを始め、様々な知識を教わった。
だからこそ俺に小説というものが生まれたのだ。
今となっちゃ書かなくなってしまったけど。
同じように当時実家の横にあったトンカツひろむで岡部さんと知り合ったのもその頃。
俺は岡部さんの考え方、そして価値観を元に自己を形成していった。
つまり…、今の俺がこうなってしまったのは岡部さんのせい?
「馬鹿!」
自分の頭をグーで殴る。
冗談でもそんな罰当たりな事を考えるなよ、まったく。
そろそろマゲ一家の餌と水を取り替えておくか。
「ほら、マゲちゃん、そして家族たちよ。この場所では最後の餌タイムだ。たんとお食べなさい」

まったく錦華鳥のモゲまで、十姉妹家族に交じって一緒に巣壷にいるんだから面白い。
せっかくなので久しぶりに写真を撮っておく。
やっぱり生みの親より育ての親だよな。
俺にとって生みの親は、親父と離婚させたお袋。
もう何年も顔すら見ていないけど。
育ての親で現在いるとしたら…、癪だけど叔母さんのピーちゃん。
現時点での籍だけ見るなら加藤皐月。
「……」
よく俺もグレなかったものだ。
それにしてもあの実家へこれから戻るのか……。
誰一人家族には俺が戻る事を伝えていない。
おじいちゃんのいなくなったあとの実家。
一旦仕切り直しで戻るだけだ。
他の家族には何一つ期待などしていない。
俺は完全なる個。
自分だけしか信じなければ、必要以上に傷つく事は二度とない。
コンコン……。
ドアをノックする音が聞こえる。
この場所を知っている人間。
戸田以外あり得ない。
最後の最後で嫌な面を眺めるのかよ……。
ゆっくり深呼吸をした。
冷静に…、慎重に……。
怒りで我を忘れ、暴威を振るう事がないように……。
雇ってくれた社長?
どこが?
何一つ世話になっていない。
足を引っ張られ死ぬ一歩寸前まで行ったのだ。
ここまでねちっこく人の人生へ偉そうに関与してきた奴って、これまでいたか?
激しい憎悪に全身が包まれる。
コンコン……。
再度鳴るノック音。
沈黙の間がより俺を闇へ染めていく。
人を死へ追いやるぐらいなんだから、当然自分にも死が降り掛かっても文句は言えねえよな……。
右の拳を思い切り握り締める。
全日本プロレス時代の回想シーンが頭の中で浮かんできた。
一度、以前編み出した自身の必殺打撃技の打突の事を話した。
鶴田師匠の形相が変わり、「おまえは相手を殺すつもりでやっているのか!」と酷い怒られ方をした。
馬場社長の伝えるプロレスは、どんな攻撃をも受ける気構えで構える。
そこへ相手は全力で攻撃を叩き込む。
俺の打突は、仁義に外れた卑劣な技でしかなかったのだ。
異様に発達した握力と親指。
鶴田師匠、ごめんなさい……。
親指を真横へ突き出す。
対応次第じゃ、この打突をお見舞いしてやる。
プロの試合でも使わなかった…、いや、人間には使ってはいけない禁じ手。
戸田ならぶっ刺しても構わないと思った。
良心の呵責など、コイツにだけは持ち合わせていない。
玄関へ近付きドアを開けた。
「あ、いた」
「……」
目の前に立っていたのは玉井だった。
口の利き方の知らない十九歳のペンキ職人。
「岩上さん、仕事辞めんの?」
「……」
「あ、戸田さんから現場へ行く途中、いるか見て来てくれって言われたからさ」
「……」
どう考えても十九歳のガキが、二倍以上年上の四十五歳へ話す口の利き方ではない。
「いるなら早く出てよ」
「嘴の黄色いガキが……」
「あ? あのさ…、俺、この辺じゃよー。ちょっとした顔なんだけど?」
「……」
「舐めてんの、おっさん? あ?」
顔面神経痛になったような表情で、俺を威嚇しているつもりの玉井。
年上として最後の授業を始めるか。
「おい、聞いてん…、ブッ」
気付けば顔面を鷲掴みしていた。
「小僧…、どこでその口の利き方学んだんだか知らねえけどよ? ネズミ如きが虎の前でウロチョロしていると、嚙み殺されるぞ」
壁へ押し付ける。
体重を乗せた。
圧を掛ける。
藻掻く玉井。
しかしまるで動けない。
当たり前だ。
腐っても鯛。
これまで培ってきた身体能力の差が、一般人とは違い過ぎるのだ。
人間を破壊するという事だけを考え、どれだけの時間を割いてきたか。
力を少し加える。
肘を喉へ押し込み加減して圧迫した。
「ひっ!」
ゆっくりと手の力を抜く。
小刻みに震える身体を見て、手を離す。
軽く息を吐き、タバコに火をつけた。
少々大人気なかったな。
一寸の虫にも五分の魂がある。
「す…、すいません……」
「おい、小僧。いいか? 謝る時はすいませんじゃなく、すみませんだ。とっとと失せろ」
「は、はいっ!」
小走りに走り去る玉井。
人の気配を察知して逃げ惑うドブネズミのようだ。
もう今後の人生で交わる事もないだろう。
まさか自分の足でなく、下の従業員を使いに来させるとは何て臆病な男なのだ。
虚像の張りぼてに過ぎなかった戸田。
安全な立ち位置から、ただ吠えているだけのチワワのような男。
くだらねえ……。
まあここもあと数時間でお別れだ。
俺は一度部屋へ戻り、荷造りした段ボールを開ける。
「ナァ、ナァ」
ナミダの鳴き声が聞こえた。
俺は鳥籠の方向へ振り向き、微笑みながら口を開く。
「心配すんなって。ちょっと清めるだけだ」
塩の入った袋を取り出すと、玄関外へ向かって思い切りすべてをぶち撒けた。
さて引っ越し屋到着まで、どう時間を潰す?
近辺に何もない場所。
喫茶店でコーヒー一杯すら飲めやしない。
自動販売機で缶コーヒー一つ満足に無いもんな。
そもそもこんな山を切り開いたようなところへ、車も無いのに住ませようとした戸田は本当に鬼畜だ。
いや、自分の以外の人間がどうなろうとも関係ないだけか。
イワカミ工業をやったからこそ分かるが、旭化成のような大手の下請けなら一人工決まったある程度の金は貰っていたはず。
それを一日一万と残りを貪り、その金すら正規に払おうとしない戸田。
表商売でそれをやったんじゃ、真正のキチガイだ。
自分でケツを拭けない小物を、これ以上目くじら立てたところで意味ないか。
そんな事より大事なのは、今後の俺自身の再起だ。
早く金を稼ぎ、まず岡部さんへ金をキチンと返す。
それを最優先にすべき事案。
屑などその気になればいつでも潰せる。
しかし今やらなきゃならないのはもっと別にあるのだ。
気分転換しよう。
俺は石川雅之へ電話を掛けた。
「石川さん、あとちょいで川越へ行きます」
「寂しくなりますが、また肉を食いに行きましょうね」
「本当にね…、石川さんの存在があったから、クソみたいな横浜生活も救われました。ありがとう」
「やめて下さいよ。そんな畏まって」
「横浜最後の日だから、ちゃんとお礼を言っておきたかったんですよ」
「自分も岩上さんと仲良くなって、本当に楽しかったですよ」
「まあこれで終わりって訳じゃないけど、一旦一区切りと言う事で」
「落ち着いたらまた連絡待ってますよ」
初めて彼と出会ったのが福富町エイトセンターのアンチポップ。
それから一周回って横浜戻ってきて、何でつるむようになったんだっけ?
そうだ、俺が一人寂しくステーキや焼肉行った記事をフェイスブックへ載せて、それを石川がよくコメントくれて、それからじゃあ一緒に飲んでみようってなって……。
山手の洋館めぐりや美星屋、蒲田の井戸屋にホージーホージー。
俺も人の事言えないけど、ほんと食ってばかりの親交だったよなあ。
出会った女は誰がいたっけ?
戻って来て川端里代はすぐ消えたな。
えーと…、名前が出てこない。
ショートメールで誘ってきた中国女。
雅は本当に魔性の女だった。
関わっちゃ絶対駄目なタイプ。
まああんないい女の乳首触れただけでも良しとするか。
すぐに抱けた幸代は、ただのメンヘラだからなあ。
葵は可愛いけど馬鹿過ぎて恋愛対象にならないんだよな、不思議と。
やはり名残惜しいのが麦草の百合だ。
本当に惜しい事をした。
平田の野郎…、スピルタスなんぞあの時飲ませ腐って……。
名残惜しいといえば、超激安居酒屋『楽』もそうだ。
あんないい店、中々ないぞ。
またいつか横浜へ来た時は、必ず顔を出そう。
とりあえず岡部さんには、これから川越戻ると電話掛けておくか。
「ちょっと今、古物商の仕事で手が離せないんだよ。忙しいから土日にしてくれ」
「すみません、岡部さん」
電話を切ると、ちょうど引っ越し屋のトラックが見えた。
荷物とマゲたちは、引っ越し屋が責任を持って川越まで運ぶ。
しかし俺だけは自分で移動するようらしい。
「じゃあこの子たち、しっかり頼みますよ!」
トラックが去るのを見届ける。
俺もそろそろ川越へ向かうとしよう。
さて、アパートの鍵どうするか……。
どうせ取り替えるだろ。
契約は戸田の旭総建工業だろうから、どうでもいいか。
俺はその辺の草むらへ、適当に鍵を放り投げた。
タバコを吸いながら二俣川駅へ向かう。
こんな坂道だらけの場所なんて、もう絶対に住まない。
でも本当はこの街に罪など何もないんだよな。
坂が多いだけ。
戸田や青野が最低だったから、それで心証を悪くした。
高橋俊には世話になったけど、どうしよう?
まあ俊と戸田は元々知り合い。
俺には本当に酷かった戸田も、きっと俊には違う対応をしているのだろう。
こちらから見た戸田は小狡い悪党だが、俊からすれば真っ当な同業者かもしれない。
人間は、立ち位置によって神にも悪魔にもなる。
彼には連絡あったらでいいか。
裸一貫…、ちょっと違う。
岡部さんに借金二十万のマイナスからのスタートの俺。
四十五歳独身。
地獄めぐりで底辺まで落ちて見渡したら、残ったのは横浜では石川だけ。
坊主さん夫婦や岡部さんは元より、あとは地元川越の人間の一部のみ。
さて、ここからどう立て直そうか……。
川越に到着する。
約四年ぶりの実家。
「……」
おじいちゃんが亡くなった時以来。
一階の洗い場のある建物へ入る。
とりあえずここへ荷物を置いておくか。
二十分ほどして到着する引っ越し屋。
まずはマゲ一家とベニ一家の鳥籠を外へ出す。
「ごめんね、窮屈な思いさせちゃって。おまえたち川越は初めてだもんね」
「すみません…、荷物はどちらの家に?」
「あ、ごめんなさい。こちらの洗い場の建物のほうへ持って来てもらっていいですか」
引っ越し屋が作業していると、目の前の駐車場から弟の徹也が近付いてくる。
「何よ、兄貴…。家に戻ってきたの?」
「ああ……」
「そっちに荷物置いちゃ邪魔になるだろ」
「こんだけスペースあんだから、段ボール十個ぐらい問題ないだろ」
「ん、何この鳥?」
「俺のペット」
「兄貴さ、こっちの家には鳥籠置かないほうがいいよ」
「はあ、何でだよ?」
「マロが亡くなったあとさ、ピーちゃんまた猫飼い出したんだよ」
「……」
さすがに猫のいるところで、この子たちを置いておく訳にいかないよな……。
「兄貴さ、こっちの駐車場の管理室へ持って来たら、鳥」
以前伊藤久子らが駐車場の管理をする為の管理室。
この場所で当時俺は彼女から酷評を受けたっけなあ……。
「ここから兄貴も家の目の前だし、俺もここにはよくいるから世話はできるよ」
相変わらず世話好きで口やかましい徹也。
「ん-…、分かった。じゃあ餌とかもこっちへ置いておくよ」
管理室へマゲ一家の鳥籠を運ぶ。
その頃引っ越しが終わったので、金を払い見送った。
「ところで兄貴、急に家へ帰ってきてどうしたのよ?」
「……」
二俣川の旭総建工業の嫌な思い出がフラッシュバックする。
本当に嫌な思いをした。
徹也の顔色が変わる。
「何だよ、兄貴。ひょっとして喧嘩で負けたのかよ!」
「ふざけんな、俺が喧嘩で負ける訳ねえだろ! 嫌な兵糧攻めを食らっただけだ」
殴り合いの喧嘩で負けた訳ではないが、さすがに同じ血の流れる兄弟だ。
俺が横浜の一連の流れで人生の敗北を喫した事に、薄々感づいている。
「兵糧攻め? 何だ、そりゃ?」
「まあいいよ、その話は…。話すと長くなる。疲れているから自分の部屋行って休むよ」
「え、ちょっと待ってよ、兄貴! まだ何の話も終わってねえじゃん」
面倒なので俺は黙ったまま家へ入る。
徹也の面倒臭さは、新宿クレッシェンドを全国発売してから四日後の総合格闘技の試合の一連の流れで嫌というほど分かっていた。
俺が自分で築き上げた舞台に対し、ああしたほうがこうしたほうがいいと聞いてもいない余計なアドバイスをしつこく繰り返すだけ。
うんざりしてもういいと伝えると、今度は血を分けた兄妹だからと始まる。
ああ言えばこう、こう言えばああ。
それでいて俺が坂道を転がり出すと知らんぷり。
上手くいったら周りには自分のアドバイスだといい触らすのは目に見えていた。
もうあんな思い二度とごめんだ。
二階へ上がると自分の部屋へ行き、そのまま寝転ぶ。
とりあえず数日間はじっくり考えながらゆっくり動こう。
疲れていたのか俺はすぐ睡魔に襲われた。

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