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闇 377(死の淵の光編)

闇 377(死の淵の光編)

2025/10/15 wed
前回の章


二千十六年十一月六日後半、日曜日仏滅。

手すりを掴む指先から冷気が全身を伝う。

フラッシュバック。
人間は十一メートルの高さが一番怖く感じるようにできている。
このぐらいの高さがそうだよな……。

自衛隊朝霞駐屯地前期教育隊、第三営内班班長檜山三曹が何度も言っていた台詞。
あの屑野郎が言っていた中で、この事だけは本当の事だと実感する。

レンジャー出身を鼻に掛け、常に俺たち十人の新隊員を特訓と称する名の虐めとシゴキの日常。
ガスマスクを装着させたまま、駐屯地の外壁五キロを朝五時から走らされたり、台風を抜かしながら部屋の中を滅茶苦茶に荒らしたり……。
自分で棚の引き出しを部屋へぶち撒けておきながら「班長の時計で十分以内に綺麗に整理整頓しろ」と降り人ぶりを発揮。

「おまえたちは国税によって賄われている身なんだから、感謝して部屋は常に綺麗にしろ」

時間が来てチェックが入る。
窓の縁に指を滑らせ埃がついていると、腕立て百回。
雑誌が綺麗に整っていないと、腕立て百回。
サザエさんの歌が掛かれたペラペラの貸し本が落ちていると、枚数分の腕立て五百回。
こんな調子で腕立て千七百回を罰としてやらされる。
十名揃って息を合わせできる回数ではない。

「おまえらは班長の命令通りにできなかったから、明日以降だと利子がつく。一日二百回分の利子がついていくぞ。これが終わるまで休日でもおまえらは外出禁止だ」

結局前期教育期間の三ヶ月間。
俺たちは一度しか駐屯地の外へ出れなかった。

催涙ガスをテントの中で炊かれ、その中で「おまえらこの中で、サザエさんを五番まで唄って来い。じゃねえと出さねえぞ」と放り込まれた事もある。
五番までなんて誰も分からない渡されたペラペラの歌詞本を見ながら目をガスでやられ、唄うから喉もやられてしまう。

匍匐前進の最終形態第五匍匐の時のそうだ。
身体を仰向けに地面へつけ、両手で目の前にある草や地面を掴む。
両腕のみの力で少しずつ進んでいく。
当然顔は左右どちらかに向け地面へつけたまま。

進行方向上にガラスの破片が目に入る。
少しだけ顔を浮かせながら進むと、檜山三曹が怒声と共にすっ飛んできて頭を足で踏ん付けた。
「岩上! 何を顔浮かしてやがんだ! 地べたにつけたまま進め」
ガラスの破片があるのを分かりながら進むと、頬に切り傷ができる。

レンジャー出身は究極のサディストの集まりなのかと思う。
人として何かが歪み切っていた。

これまでのシゴキを思い出しながら汗を拭き出し、懸命に腕立て伏せをこなす。

「岩上! 手抜きしてやってんじゃねえぞ、オラ!」

腕立て伏せの姿勢のまま、容赦なく横腹を蹴られる俺。
不意に蹴られ息ができず、身体を丸める俺の背中へさらに蹴りが入る。

「おい、他の班員に迷惑掛けてんじゃねえぞ。早くやれ、このカスが」

人間扱いされなかった三ヶ月。
しかし皮肉な事に、理不尽な中共に釜の飯を食った同期たちとの絆は深まった。
そうした中を潜り抜けてきたのに富田の野郎……。

久しぶりの再会に俺は胸を躍らせて楽しみにしていたのによ。

何であんな屑になってしまったのだろうな。

「……」

ふと現実に返る。

何を過去の回想シーンにふけっているのだ?
早く飛び越えろって。

右脚を上げ、鉄柵へ掛ける。
あとは身体を回転するようにすれば下へ自動的に転落していく。

手すりから離れない両手。
小刻みに震える身体。

気付けば俺は右脚も戻し、陸橋の上に置いていた。

この期に及んでまだ生にしがみ付きたいのか。
死にたいと思っているのに、中々身を投げ出せない俺。

その場へしゃがみ込み、膝を抱えて静かに泣いた。

どこからこうなった?
何で失敗した?
一体いつから……。

振り返っても正直分からなかった。

じゃあいつまでが幸せを感じられた?
最初の横浜時代…、下陰さんの下にいた頃だ。

客層はほぼヤクザだらけ。
それでも横浜の人間はどこかユニークで、何となく憎めなくて。
家に帰れば毎日何を作ろうかと料理ばかりして。

じゃあ何故あの生活を捨てた?

それは高橋ひろしの系列の社長に引き抜かれ、一千五百万円を目の間で積まれた。
途中から一原が絡んできた。
あそこから決定的におかしくなった。

再び新宿へ戻った俺は、インターネットカジノ『新宿クレッシェンド』を設立。
オープン直前に敬愛するおじいちゃんの死。

きっとあれはこれから起こる不吉なる前兆の知らせだったのだ。

それでも走り出した列車はもう止まらない
ころまできていた。

皮肉にも自身の著作の本の名を冠したお陰で客に高額なOUTを出された時、立替で三百万円もの身銭を差し出した。

当然すぐ戻ってくるものだと思っていた。

一原には誤魔化され、従業員の瀬沼は家賃が払えないと金を借りて飛んだ。

あの店で失敗だったのは、まず伊達を名義に添えてしまった事。
そして一原などと二人三脚でやろうとした事自体無理があった。

何で俺はあの時、全財産ともいえる金を簡単に出してしまったんだろうな……。

自分の小説の作品名など、裏稼業の店名にするじゃないかった。
印税をもらえなかったのに、その作者が他人の肩代わりで印税以上の金額を吐き出すという最も愚かな愚行。

あの時だって、新宿の十二階のマンションから飛び降りようとしたじゃないか。
奇跡的に有路からの電話が入り、末期の酒だと朝まで飲み歩く。
結果、誕生日生まれで適当に買った馬券が当たり、九死に一生を得る。
しかし俺は精神的疲弊により、金が無くなるまで何もせずに過ごした。

クレッシェンドが崩壊し三百数十万を失った俺は、誰も俺を知らない店へ紹介してくれと、ガジリ屋ヤスに頼んだのも最悪手。
案内された先は〇〇会直営のゲーム屋。

シャブ中の荻を排除したあと組長の新庄から店の店長を任されたまでは良かった。
いや、荻がいた時点ですぐ辞めるべきだったのだ。
結局その新庄は、組の金二千万円を使い込んで飛んだ。

あの時点で本当に逃げておくべきだったのである。

図に乗った村本を店の監視から追い出すべく動いた俺。
五十五万の家賃とケツモチ料を毎月払って経営しろと責任を押し付けられた。

チャゲアンドアスカのASUKAの覚醒剤所持で逮捕。
その大元である〇〇会理事長と、その側近たちの連日の検挙。

給料も出ずに身銭を払わされる俺。
ついに自分のマンションの家賃すら払う金も無くなってしまう。

店へ誘い入れてしまった岡部さんと入江をまず逃がす事が先決。
そこへ比重を置いた俺は、すべての責任だけを背負わされる。

クソヤクザ秋田を殴り、百十万円の金を毟り取られ、失意の中俺は横浜へ再起を誓い戻った。
いい思い出のあった新天地で活路を切り開くつもりだったのだ。

続く矢田部の誘いで始まったインカジも、あの馬鹿の抜きと裏切りで散々な目に遭う。

最終的に十二時間一万円というあり得ない給料で働かされ辞めた俺。
その状況を見ていた高橋俊からの誘い。

舞台は裏稼業から表舞台へ。
イワカミ工業を設立し、日々微弱ながらも頑張って食らいついた。

待っていたのは紹介者である現場監督青野の抜きと逃亡によるイワカミ工業崩壊。

同時期に〇〇〇〇会若頭三田からの接近。
身体の空いた俺は、彼のインカジを経営するようになった。

しかしヤクザの舎弟しかいない従業員。
一日も休みを取れず、四十四時間働いた事もあった。
積み重なる肉体的疲労。

起死回生にと唯一入れた坂本も、三十四万の借金を無心されただけで何の役にも立たず、休み無し重労働の末身体をおかしくしてしまう。

荒治療として店を辞めた俺。
すぐ戻って来てくれと、そう連絡があるものだとずっと勘違いしていた。

無職で何もしない日々を過ごし、酒に酔って財布を落とし、二十万円の現金とカード類すべてを失う。
そんな俺に、戸田からの誘いで旭総建工業へ。
表社会で真面目に地道に働けばいい…、そう決意した。

そこで待っていたのは坂本の裏切り。
貸した金を五ヶ月間毎月マンション代を払うという約束を反故にされ、坂本は消えた。

待っていたのはレオパレスからの強制退去。
そして二十五万九千円の退去精算料を請求される。

住む場所が無くなってしまった俺は、仕事を辞めて一度地元へ帰って仕切り直す。
そう伝えた俺に対し、戸田は辞めさせてくれなかった。

結果、二俣川のアパートを用意し、在籍一ヶ月半いた期間でもらえた金額は一万五千円だけ。
しかも日当一万と言われた仕事さえ、月で十回程度。
常に不定期で何の予定も立てられない。
現場へ行く時の電車賃、日々の食事はもちろん自腹。

日に日に俺は衰弱し、気力を奪われていった。

「……」

おじいちゃんが亡くなってから二年間で、これだけの事が続いたのである。

これ以上頑張って生きた先に何がある?
まだ何かが理不尽に襲い掛かるだけだろうが……。

陸橋の下を眺めた。

二俣川の保土ヶ谷バイパス。
相変わらず車が勢いよく飛ばしているのが目に入る。

さすがにもう生きていく気力が湧かない。
あの薄暗く寒い部屋の中にはいたくなかった。

だからフラフラとこの場所へ来たのだ。

潔く飛び込もう。
それで終わり。

もうそれでいいじゃないか……。

手すりへ手を掛けて立ち上がる。
その時携帯電話が鳴った。

戸田のクソ野郎か?

あのタイミングで尻尾を丸めて地元へ帰ろうとした俺を強引に引き留めておいて、この停滞楽はなんなんだ?

待てよ…、今ここから飛び降りたところで、あいつは責任など感じるのか?
俺はあんな奴へ屈しる為に命を落とすのか?
遺書を書いておくべきではないのか?

恨みつらみの呪詛が詰まった遺書を……。

電話が鳴りやむ。

自棄になって落ちて死ぬのはいい。
でもどうせなら意味のある死に方をしたい。

一度帰って遺書を作成するか。
少し女々しくないか?

再び鳴り出す携帯電話。
しつこい奴だな、戸田の奴。

画面を見た。
地元の先輩岡部さんからだった。

こんなタイミングで何故?
また横浜へ仕事に来ているから一緒に飲むかとの誘いか?

「……」

俺が最も信頼をしている二人の人間。

それは坊主さんであり、岡部さんだった。
この人からの連絡を無視して死ぬなんて、俺にはできやしない。
最後に話す人間が岡部さんなら、俺の人生の最後にふさわしいだろう。

軽く深呼吸をしてから電話に出る。

「もしもし……」
「おう、智一郎。おまえ、元気でやってんのかよ」
元気そうな岡部さんの声。

「い…、いや……」

「おまえ、今日日曜だから休みだろ? 池袋まで出て来れるか?」

「え……」
「川越までじゃ大変だろ? 俺も川越から横浜まではプライベートだと遠いんだよ。だから池袋」

「……」

「もうちょっとしたら俺も出るから、おまえも池袋へ来いよ、な?」

「は、はあ……」
「じゃあ、あとでな」

切れる電話。
完全に飛び降りるタイミングを意気阻喪してしまう。

いや、最後の晩餐としての相手が岡部さん……。

そう捉えればいい。

ただ、全財産千三百九十円しかないのだ。
池袋までは行って帰ってこれる。

しかし…、いや、会って事情を伝え、そのまま帰ればいい。

もう一度保土ヶ谷バイパスを見る。
また、ここへ戻って来るよ、もうちょっとしたら……。

二俣川駅まで歩き、相鉄線で横浜駅へ向かう。
あとは湘南新宿ラインで池袋駅まで一本。

岡部さんのほうが距離的に先へ着いているだろう。

池袋へ到着すると、電話で確認する前から西口へ出た。
いるとすれば東口でなく西口の歓楽街だと思う。

交番を過ぎた辺りで電話を掛ける。
思った通り岡部さんはすぐ近くの焼肉屋にいた。

「すみません、遅くなってしまって」
「おう、急に呼び出してすまなかったな。俺は先にやってるぞ。何飲むんだ? ウイスキーか?」

陽気な岡部さんの前に、金が無い事を先に言わなきゃ駄目だ。

「いえ…、それがですね、岡部さん……」
「何だよ? 先に注文しちゃえって」

「いや…、あのですね……。俺、もう手持ちが千円無いんですよ…。なので、今日は顔だけ見せに……」
「おまえ、馬鹿野郎! こっちはおまえより五つ先輩なの。俺がおまえを横浜から呼び出しておいてよ、それを割り勘? そんな恥ずかしい真似できる訳ねえだろう。早く頼め。その前に座れ」

「はい……」

泣きそうになるのをグッと堪える。
店員が来ても、メニューを指さしながら注文するだけで、声に出せなかった。

「肉はカルビにロースにタン、あとおまえの大好きなホルモンも頼んである。ライスはまだだな」
「ちょ…、ちょっとトイレ行ってきます」

俺は早歩きでトイレへ駆け込み、鍵を閉めると便器に座って号泣した。

どれだけ弱っていたのだろう。
こんなに泣き虫だったのかよ。
恥ずかしい部分見せるなよ。

トイレットペーパーをたくさん巻き付け鼻をかむ。
そしてまた巻き付けて目の周りをよく拭いた。

洗面所で鏡を見る。
まだ目の周りが赤い。

水で顔を洗う。
一度ゆっくり深呼吸してからトイレを出た。

席へ戻ると「おまえ、乾杯ぐらいしてから便所行けよ」と文句を言われる。

「すみません…。横浜からずっと我慢してたもんで……」
「ほら、酒を持て。乾杯!」

国産の安いウイスキーのロックが喉へ染み込む。
あれ、グレンリベットに負けないぐらい美味いな……。

「ご飯の大盛りで良かったんだろ?」
「はい!」

「気にしないで好きなもん食って、腹一杯食え」
「はい!」

二俣川の暗いアパートへ行ってからずっと仕事中はコンビニ弁当、そして部屋では西友の二百八十円の弁当だけだった。

久しぶりに旨い肉へ齧り付く。
全身の細胞が驚嘆の叫び声をあげる。
隅々までエネルギーが行き渡るのを感じた。

美味しいなあ、なんて旨いご飯なんだろう……。

五臓六腑に染み渡るとはこの事だ。
でもこれから死に向かうのに、こんなご褒美必要あるのか、俺に?

「それとよ、智一郎……」
「はい、何でしょう?」

懐へ手を入れてゴソゴソしている岡部さん。
封筒を取り出し、俺に手渡してくる。

「え、何ですか、これ?」
「これは返さなくていいからな」

「え?」

「本当ならよ…、俺ももうちょっと金持ってたらもっとアレなんだけどよ…。とりあえず二十入っている。詰まってんだろ? 取っとけ」

俺はその場で崩れ落ちるようにして大泣きした。

もうあの冷たい風が吹きつける陸橋へ行かなくていい。

岡部さんの恩情。
心の底まで根を張っていた憎悪を吹き飛ばすには十二分な好意だった。

俺はまだ死ななくていい。
いや、違う!
これで一度川越へ戻り、また再起を必ずするのだ。

横浜での再起は失敗した。
自棄になって命を無駄にしようと思った。

でも、こうしてまだ俺の存在を気に掛けてくれる人がいたという現実。
仕切り直そう。

本当にどん底まで落ちてしまったけど、俺はまだ生きていける……。

これまで生きてきたありったけの勇気を振り絞れ。
死に向かうのは簡単。
命からがらも生き延びる方が辛く大変なのだ。

でも俺は生きなきゃいけない。
何故なら、ジャンボ鶴田師匠、三沢光晴さん、そしておじいちゃんと偉大なる背中を見て育ってしまったのだから。
最低限でもいい。
みっともなくともいい。
必死でもっと生きてみろ。

今しなければならない最前の事だけをシンプルにこなせ。

横浜へ帰ると、すぐ引っ越し屋の手配を探す。

一番早い日時で十一月十五日。
今日が六日だから約十日後。

行先はあの忌々しい川越の実家……。

あそこへ俺は、また戻るのか?
でもこんな有様でどこへ行く?
背に腹は代えられない。
実家しかないのだ。

セブンスターに火をつける。

まずこの転換期の状況を親しい人へ伝えようと思った。

最初に浮かぶのは坊主さん夫妻。
坊主さんへ電話しても出なかったので、奥さんの裕子さんへ掛ける。

「久しぶり、智君。元気だった?」

「実は……」

俺はこれまでの地獄の状況を伝え、これから川越へ戻る事を正直に話す。

「あの家に戻るの? また色々大変になっちゃうよ?」
実家の家族との確執を隅々まで知っている裕子さんは止めてきた。

「でも…、仕切り直さなきゃならないし、嫌だけど、俺には他に選択肢なんかありません……」

あの時家にいたらきっと誰かを殺してしまうという明確な殺意を自覚し、川越を出た俺。
二千十二年十月の話だから、四年も経つ。
あの時から横浜での生活が始まった。
そしておじいちゃんが亡くなり、横浜の生活が終わった。

新宿での失敗のあとでも、川越へ戻るという選択をしなかった俺。
ただ二度目の横浜の地獄めぐりで精も根も尽き果ててしまった。

おじいちゃんが亡くなった時、俺が岩上家の代表だと叱咤激励した。
一体このザマは何だ?
何の成果も出せず、尻尾を丸めて逃げ帰る行為。
情けない限りである。

「ちょっとうちのに代わるね」

事態を重く見た裕子さんは、旦那である坊主さんへ電話を代わる。
待っている内に電話が切れた。

「……」

まあこんな疫病神みたいな俺の話なんて、聞きたくもないよな……。

セブンスターの火まで、いつの間にか消えていた。
タバコにまで小馬鹿にされてしまったな。
再度火をつける。
薄暗い部屋のロフトを眺めながら、ゆっくりと煙を吐く。

「ナァ、ナァ」

錦華鳥のナミダの鳴き声だけが聞こえた。

あとは石川雅之だけには伝えておこう。
二回目の横浜の生活で、唯一楽しかったのが彼との食事の時間だった。

あ、激安居酒屋の楽のマスターにも言いたいけど、連絡先分からないんだよな……。

幸い二俣川へ引っ越してきてから、布団以外段ボールから荷物を出していなかった。
始めからこの場所へ馴染めないと思っていたからだろう。

石川へ電話をすると驚きと共に、この現状へ対する同情もされる。

「岩上さん、川越に帰ってしまわれるんですね。しょうがないですが、寂しくなりますね。いつ頃引っ越しの予定なんですか?」
「予定では再来週の火曜…、十五日に引っ越す予定です」

「ちょっと待って下さいね…。えーと…、十一日…、十一日の金曜日なら自分も予定空いているので、よろしければ二俣川まで行くので一緒に食事しましょう」
「それは楽しみですね」

「そんな金無いからいいところじゃないけど、自分にご馳走させて下さい」

「いやいや…、割り勘でいきましょうよ」
「駄目です! ここは絶対に自分がご馳走させて頂きますから」

何だか温かいなあ……。

うん、人生簡単に自棄になっちゃいけない。
岡部さんと石川の好意によって、俺は思い知らされた。

布団の上で横になる。
この掃き溜めみたいな場所も、あとちょっとでおさらば。

本当に忌々しい土地だ。

携帯電話が鳴る。
画面を見ると、坊主さんからだった。

「……」

呆れられて電話を切られた訳じゃなかったのか?

おいおい…、どれだけ長い付き合いをしてきていたのだ。

本当にすぐ悲観的に物事を捉える癖。
いい加減そういうのはやめろって。
俺は自分を戒めた。

「あ、智。悪いね、電話切れちゃったみたいでさ」
「いえいえ」

「川越のあの家戻るんだって? 裕子から聞いたけど」

「ええ…、背に腹は代えられないと言うか……」

「あのさ…、裕子とそれで話し合ったんだよ、今までさ」

「…と言いますと?」
「俺、千葉に家買ったろ?」
「はい」

「おまえ、俺の家来い」

「え?」
「裕子にちょっと代わるから待ってて」

「はあ……」

俺が坊主さんの家に行く?
いやいや、手持ちの金は岡部さんが渡してくれた二十万だけ。
今は正直千葉まで顔を出しに行けるような余裕もない。

これから川越へ一旦戻り、どう再起するかを考えなければならないのだ。

「智君!」

電話口に裕子さんが出る。

「はい」
「智君ね…、うちに来なさい!」

「いや…、裕子さん。俺はですね…、川越帰って一度仕切り直して……」
「駄目! あそこにいたから、智君の人生台無しになっちゃったんだよ? 戻っちゃ絶対に駄目!」

「だってどうしろって言うんですか!」

つい口調が荒くなってしまう。
今は戻る戻らないの状況ではないのだ。

「あのあとから入ってきた女の人のせいで、うちの怜がまだ一歳の時した試合なんて徹夜で試合に出たんでしょ?」

「……」

親父が内緒で籍を入れた加藤皐月。

そうだ…、二千年の総合格闘技タイタンファイトの試合前夜、加藤が親父に捨てられると深夜家へ上がり込み大騒ぎをした。

お陰で俺はまったく睡眠が取れず、徹夜のまま試合へ出場した。
あの時も坊主さんは会社を休み、俺のセコンドへついてくれたっけ……。

「せっかく智君が真面目にサラリーマンをしてた時だって、家の役員会議だって引っ張り出されて、滅茶苦茶にされたじゃない」

「……」

そう…、加藤皐月が早朝おじいちゃんの部屋へ毎日押し掛け、親父を社長にしろ、そして金の無心をずっとした。
根負けたおじいちゃんが社長を親父に譲ろうとして、勃発した支店の独立騒動。

家の事にまるで無関心じゃねえかと弟の徹也に責められて出た役員会議。
誠心誠意無償で尽くしたのに、叔母さんのピーちゃんからは「おまえが余計な事をするからこうなった」と常に責められた。

幼少の頃、お袋が出て行き離婚しないままだった。

「おまえのお母さんは家の財産が目当てで離婚しないだよ」
そう常に言われ続けた幼少期。
気付けば俺はいち早く社会人になって、お袋のところへ話し合いに行こうと自衛隊へ入った。

俺の相談に応じて離婚してくれたお袋。
だからそのあとも顔を出し、話し合う場を設けるようになっただけ。

それを親父は「そんなお袋が恋しいのか? 岩上の性を捨てちまえ」となじられた。

十数年経ち加藤皐月が実家へ勝手に住み込んだ事に対し、ピーちゃんはそれを俺のせいにする。

「整体だって、智君の顔の広さなら新宿でやれば良かったのに、おじいちゃんが心配で川越に出したんでしょ?」

「……」

親父が社長になっても朝の四時五時に毎日おじいちゃんの枕元に立つ加藤。
誰も家族はそれを止めない。

だから俺がおじいちゃんを守る為、川越で整体の物件を決めた。
当時付き合っていた百合子との仲がおかしくなったのも、親父と加藤が原因というのはかなりある。

俺はあの家にいた事で、憎悪を静かにずっと蓄積していたのだ。

「小説だってさ、智君が賞を取って本まで出したんだよ? それをみんな認めないでさ…。酷い事ばかり言ったじゃない」

「……」

処女作『新宿クレッシェンド』が『第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ』を取り本になった時、俺はピーちゃんにプレゼントした。

「おまえの小説は読んでいて暗くなるから嫌な気分しかしない。こんなものを買う人間の神経が分からない」

そう言われたじゃないかよ……。

俺が何をしても否定のみ。

よく岩上整体へ通ってくれた患者、渡辺信さんの台詞が蘇る。

「あんたね、普通じゃない事やってんだよ! だから俺だけでなく色々な人が先生のところへ集まってる。それを辞めて好きな格闘技へ行くんだろ? 何で全然嬉しそうじゃないんだよ!」
あの時泣いてしまった俺。

「先生ね、ごめんなさい。乱暴な言い方して。俺はね、先生の事が人間的に凄い好きなんですよ。だから余計にここが無くなるのが堪えられない辛いし残念だし、でもね先生が決めた道なんだったら、やっぱ応援したいし……」

俺はあのようないい人が喜んで来てくれた場所を自分で潰してしまったのだ。

「それでその叔母さん、智君の一番下の弟と内緒で養子縁組してたんでしょ? 駄目だよ、そんな家に戻っちゃ……」

裕子さんは半分涙声が混じりながら言っていた。

「……」

今でもあの時の事は忘れられない。
家の財産を狙う加藤皐月が戸籍謄本を調べて発覚した養子縁組騒動。

「お父さんを手伝って、この家を継ぐつもりはないの?」
「あんたさー、どの口が言ってたんだ? 頭大丈夫かよ?」
これまでの行動とは一転して、逆に気持ち悪い。
「もうね、お父さんの智さんにとって子供は智ちゃんと徹っちゃんしかいないしね……」
「はあ? あんた、さっきから何を言ってんだ? 俺らは三兄弟だよ!」
「先日ね…、私が戸籍謄本を調べていたらね」
「だから何であんたが、うちの戸籍謄本なんざ、調べる必要性があるんだよ!」
この守銭奴が……。
「一番下の貴彦ちゃんね…。あの子は由美子さんと養子縁組しちゃってるから、もうお父さんの子供では無いのね」
「養子縁組? 何だ、そりゃ?」
「たーが、ピーちゃんと養子縁組?」
「私から聞いたなんて言わないでよ。口が滑っちゃっただけだから」
それだけ言うと、加藤皐月はまた親父の部屋に戻った。
今貴彦が始めた『北風と太陽』。
俺が元々は岩上整体をやろうとしていたのを強引にピーちゃんに阻止された。
そのあとすぐ貴彦がやってきた。

そういえば何故家のスペースの問題をピーちゃんが決められたんだ?
「兄貴さ…、仕事もしないでずっと家に居て、何をしてんだよ!」
「別におまえや家に迷惑など掛けていないだろ。それにKDDIの有給休暇の消化が終わってからじゃないと、休業補償もらえねえんだよ」
「兄貴はね、小説で本にしたのは凄いと思うよ。でもさ、何もしないで家にただ居てさ…。これ、血の繋がった兄弟だから言ってんだぜ?」
「貴彦…。おまえ、今兄弟って抜かしたよな? 俺に偉そうな事抜かす前に、もっと言わなきゃならない事があるんじゃねえのか、おい」
「何の話だよ?」
「まだ白を切るのか? おまえ、すでに俺と徹也とは兄弟じゃないんだろ?」
「だ、誰から聞いたんだよ!」
「世の中で一番それを聞かされたくなかった守銭奴からだよ……」
しばらく沈黙が続く。
貴彦の中で俺の言葉から、誰が言ったのかを推測しているのだろう。
「兄貴はさ…、血を分けた兄弟と、あの守銭奴の言い分のどっちを信じるんだよ?」
「貴彦…、あんまり笑わせるな。金が絡んだ件だからこそ、守銭奴の言い分しか信じられねえな」
「いや、兄貴さ……」
「おい…、兄弟じゃないのに、次に兄貴って呼んでみろ。殺すからな」

そうだ…、俺はあの一件で白を切った貴彦との縁を切ったのだ。

「聞こえてる、智君?」

「ええ…、聞こえています…。でもね、裕子さん…、俺はとりあえず仕切り直さないと……」
「だからうちへ追いで!」

「え?」

「うちは中古だけど、一軒家だし、部屋だって掃除すれば余っているの! だから智君、うちに追いでよ」

「……」

何て表現したらいいのだろう。
裕子さんの優しい慈母のような言葉が、俺の五臓六腑に染み渡る。

俺は嗚咽を漏らしながら、その場で泣き崩れた。





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