見出し画像

ひいじいちゃんの足跡を辿ったら百年前の世界初のツナ缶誕生に出会った。

「密航者」という名の偉大なるパイオニア


「そういえば、ひいじいちゃんの話、全然でてきてないな……」

前回の記事を書き終えたあと、ふとそんな思いが頭をよぎりました。私のルーツである伊豆川家の物語を綴るなかで、祖父・埈次や平和食品を作った親族たちの影に隠れて、曾祖父である「寅蔵(とらぞう)」の存在は、どこか霧に包まれたようなままでした。

※もし前回のお話を読んでいない方がいらっしゃったら前回の記事から読んでいただいた方が面白さ100倍です。

父から聞いていた寅蔵さんの話は、まるで古い冒険小説のようでした。

「じいちゃんは昔、アメリカに密航したんだ。そこで必死に働いて一財産築いて帰ってきたんだけど、その金をきれいに散財しちゃって。結局故郷の蒲原で削り節やおぼろを作る海産物加工屋を細々とやってたんだよ。結婚して5人の子どもに恵まれたんだけど、奥さんと娘を鉄道事故や病気で亡くし、自分も脳梗塞で身体が不自由になって、最後は病床でも酒を飲んでいたような人だった。」

密航して、稼いで、使って、小さな店で生涯を終える。 私が産まれる前に亡くなってしまったこともあり、私の中の曾祖父・寅蔵のイメージは、ずっとその「破天荒な流れ者」のままでした。

けれど、ふとした好奇心からひいじいちゃんの足跡を辿ってみることにしました。国立国会図書館のデジタルアーカイブや、アメリカの新聞記事に残された古い記録を、まるで宝探しのように。

そこで見つけたのは、私が聞いていた「密航の話」を根底から覆す、とんでもない真実でした。

彼は密航者ではなかった。 113年前のカリフォルニア・サンペドロ。そこは、世界で初めて「マグロの缶詰」が発明され、巨大な産業へと化けていくツナ缶の中心地。寅蔵じいちゃんは、その熱狂のど真ん中で、自分の船を操り、ある「循環」の始まりを目撃していたのです。

いま、私の手元には、1921年の在米邦人の住所録や、1920年代の古い新聞の切れ端があります。 そこから浮かび上がってきたのは、伊豆川家の歴史を塗り替える、ある確信でした。

「実は俺、3代目じゃなかった。4代目だったんだ。」

点と点が繋がり、100年の時を超えて私の元へ届いた、ひいじいちゃんからのメッセージ。 今回は私と一緒に、その歴史の冒険を追体験してみてください。

古い住所録のなかの「伊豆川」

「密航していた」という話が本当なら、公的な記録なんて残っているはずがないよなあ。 半分そう思いながら、私は国立国会図書館のデジタルアーカイブにアクセスしました。検索窓に打ち込んだのは「伊豆川寅蔵」。

すると、一つの資料に辿り着きました。 『在米日本人人名辞典』。

そこには、私の想像を遥かに超える「伊豆川寅蔵」の姿が記されていました。どうやらカリフォルニアのウィルミントンという街にいたようです。

「伊豆川寅蔵、静岡県庵原郡蒲原町、明治23年生まれ(寅年)、大正2年渡米。羅府(ロサンゼルス)で洋食店経営、漁業、墨国(メキシコ)乾魚の輸入、漁船を所有……」

出身地・生年月日も一致

思わず画面を二度見しました。 「密航して日銭を稼いでいた」というイメージからは程遠い、多角経営を行う実業家としての顔。彼はただアメリカに渡っただけでなく、現地のコミュニティに根を張り、食のインフラを支えるビジネスを次々と展開していたのです。

「寅蔵さん、密航じゃなかったんだ……」

正直に言えば、一番の感情は「安堵」でした。 法を犯して潜り込んだ流れ者ではなく、異国の地で正当に勝負し、自らの道を切り拓いた一人のパイオニアだった。その事実が、誇らしくて仕方がありませんでした。

さらに読み進めると、そこにはもう一つの確信が待っていました。 同じく静岡県庵原郡蒲原町出身の「大石常吉」さんの名前です。

「大石さんは、じいちゃんの相棒だったんだよ」

左下にある「大石常吉」さん

父から古いアルバムを見ながら聞いた話が、100年前の活字となって目の前に現れたとき、鳥肌が立ちました。 家族のなかに断片的に残っていた「記憶」が、海の向こうに残された「記録」とガチリと重なった。洋食店経営、漁業、漁船「港丸」。※住所録では湊丸となっていましたが、じいちゃんのノートに「港丸」と表記されていたのでこちらに統一します。

真ん中が寅蔵じいちゃん、左側が大石さん(帰国後の晩年)

二人の蒲原の男たちが、ウィルミントン、そして隣町のサンペドロというロサンゼルスの港で肩を並べて戦っていた。 その熱気が、時代を超えてダイレクトに伝わってきたような気がしました。

ウィルミントンとサンペドロ、その隣のターミナル島はロサンゼルス港を形成

しかし、驚きはこれだけでは終わりませんでした。 彼らが拠点を置いていた「サンペドロ」という場所。 そこを詳しく調べていくと、伊豆川家のルーツに関わる「あまりにも出来すぎた偶然」が浮かび上がってきたのです。

世界のツナ缶発祥の地・サンペドロ

『在米日本人人名辞典』でひいじいちゃんの意外な実業家としての顔を知った私は、さらに調査を続けました。そこで辿り着いたのが、同じく国立国会図書館に保管されていた1921年(大正10年)発行の『日米住所録』です。

そこには、ひいじいちゃんと相棒・大石さんの名前が並んで刻まれていました。 驚いたのは、その名前の横に添えられていた一文です。

『Stafford Packing Co(スタッフォード・パッキング社)』

伊豆川寅蔵がStafford Packingに所属している!

「スタッフォード・パッキング? どんな会社だったんだろう。ん、パッキングって、パッカー?えええっ!?もしかして!?」

軽い気持ちでその名前を検索した私を待っていたのは、震えるような事実でした。 彼らがいたカリフォルニアのサンペドロやウィルミントン、ターミナル島という場所は、当時、世界で初めて「マグロの缶詰」が量産化された、いわば「世界のツナ缶の首都」だったんです。

「スタッフォード・パッキング」という会社に触れる前に、当時のサンペドロがどんな場所だったのかを語る必要があります。実はここ、今の私たちが当たり前のように食べている「ツナ缶」が世界で初めて誕生した聖地なんです。

1903年、不漁続きだったイワシに代わる新しい商品として、マグロの缶詰が考案されました。けれど、当時のアメリカには、気性の激しいマグロを大量に獲る技術も、効率よく加工するノウハウもありませんでした。

そこで、その産業の屋台骨となったのが、日本から海を渡った移民たち、特に和歌山県を中心とした漁業のプロフェッショナルたちだったのです。

ターミナル島 日系人の足跡
1878年、和歌山県太地町で大背美流れと呼ばれる海難事故が発生し、古来から行われてきたクジラ漁が立ち行かなくなると、19世紀の末頃から漁民の一部が移民としてターミナル島へ定着。漁業と合わせてツナ缶の製造で生計を立てるようになった。最盛期には3000人以上の日系人が暮らしていた

Wikipedia「ターミナル島」より

彼らの功績は、大きく分けて二つあります。

一つは、「漁業」の技術革命。 和歌山から持ち込まれた、一本釣りや延縄といった高度な漁法。これが、広大な太平洋でマグロを安定的に獲るための唯一の解決策でした。当時の記録でも「日本人漁師の技術は圧倒的で、彼らがいなければ産業は成立しなかった」と絶賛されています。

そしてもう一つは、「製造(パッキング)」の現場。 男たちが命がけで獲ってきたマグロを、陸ではその妻たちが缶詰工場で丁寧に捌き、詰め、製品へと仕上げていく。サンペドロの「ターミナル・アイランド」には、巨大な日本人街が形成され、まさに街全体が一つの大きな「ツナ缶工場」のように機能していました。

男性は漁師として、女性は缶詰工場で働きながら、島の缶詰工場が所有する借家に暮らしました。魚を満載した船が帰港すると、女たちは夜中でも工場に駆けつけたといいます。1920年代にカリフォルニアで水揚げされるビンナガマグロのほとんどは、日系人漁師が捕獲したものだと言われるほど、同地の漁業において大きな位置を占めていました。

移民と和歌山 2:アメリカ移民―サンペドロの漁師たち

漁業と製造。その両輪を日本人が回していたからこそ、ツナ缶はアメリカ、そして世界へと広がっていった。寅蔵じいちゃんがいたのは、まさにそんな「日本人の誇り」が世界を動かしていた最前線だったんです。正確な記録は残っていませんでしたが、『湊丸』という漁船を持っていたじいちゃんもきっと、他の日系の漁師さんたちに混じってツナ缶をつくるためのマグロを獲っていたんだと思います。

古いアルバムに残っていた船の写真。もしかしてこれが?

アメリカのツナ缶黄金時代

当時のサンペドロで、まさに「世界のルール」を書き換えていた一人の男がいました。フランク・ヴァンキャンプ。後に全米一のシェアを誇ることになるヴァンキャンプ・シーフード社(Van Camp Sea Food Co.)の創業者です。

彼は、それまで馴染みのなかったマグロを普及させるために、ある天才的なキャッチコピーを考案しました。

「Chicken of the Sea(海の鶏肉)」

「白くてクセがなく、まるで鶏肉のようだ」というこのフレーズは、瞬く間にアメリカ中の家庭を虜にしました。いま私たちが当たり前のように使っている「シーチキン」という言葉の源流は、実は100年以上前のこの場所で生まれたんです。

1922年には、ヴァンキャンプを中心に「ホワイト・スター」や「インターナショナル・パッキング」といった大手工場が次々と合併し、資本金1,000万ドルという当時としては天文学的な巨大企業が誕生します。サンペドロの漁船の8割を支配下に置く、まさに「ツナ缶帝国」の誕生でした。

そんな巨大資本がひしめき、合併の嵐が吹き荒れるバブルの真っ只中で、寅蔵じいちゃんがいた場所。それが、あえて巨大合併の波には乗らず、独自の道を歩んでいた独立系メーカー「スタッフォード・パッキング社」でした。1915年に破産手続き中だったMonarch(モナーク)社の缶詰工場を買収して操業を開始したそうです。創業時の資本金は2万ドル。夏季にはビンナガマグロ(アルバコア)の加工に注力し、 自社で漁を行うだけでなく、多くの独立した漁師から魚を買い取っていました。1922年の記録では、30隻の漁船から魚を買い取っていたとされています。恐らくその中の1隻が寅蔵じいちゃんの湊丸だった可能性は高そうです。

謎の写真。おそらく船上。乗組員?

巨大資本「ヴァンキャンプ」のすぐ隣で、独立独歩の気風を守りながら、自前の船を出し、そこで戦っていたじいちゃんたちの姿は、大手メーカーに頼らず自分たちの足で立つ、いまの私たち伊豆川飼料の精神そのものに見えました。

San Pedro News Pilot, Volume 12, Number 159, 4 April 1925

当時の新聞San Pedro News Pilotでさらに驚きの記事を発見しました。これは1925年4月、ロサンゼルス港のFRED HOSHIYAさんが『カリフォルニア号』という漁船をウィルミントンに住むK.YamasakiとT.Izukawaに売却したという内容です。ヤマサキさんがどなたかは分かりませんが、Tイズカワさんは間違いなく伊豆川寅蔵!!漁船を買い替えたか追加で購入したかは不明ながらも新聞に載せるほどの投資をしたのではないでしょうか・・・

でも、本当の衝撃はそこからでした。 さらに当時の記録を洗っていくと、スタッフォード社の事業内容に、ある言葉を見つけたんです。

寅蔵が見た世界の循環

『日米住所録』で見つけた、ひいじいちゃんの拠り所「スタッフォード・パッキング社(Stafford Packing Co.)」。 ツナ缶バブルに沸くサンペドロで、独立独歩を貫いたその会社の足跡を追っていた私は、ある古い資料を前にして、文字通り言葉を失いました。

そこには、工場の事業内容としてこう記されていました。

『Fish oil and meal(魚油,魚粉)』

「魚粉(フィッシュミール)……?」

その文字を見た瞬間、私の頭の中でバラバラだったピースが一気に繋がり、鼓動が高鳴り始めました。 魚粉。それはいま清水の地で向き合っている、マグロの残渣(残り)を肥料や飼料に変える、まさに「伊豆川飼料」の商売そのものだったからです。

1921年当時の企業名鑑Pacific Fisherman Year Book

現代で言う「サーキュラー・エコノミー(循環型経済)」は既に100年以上前のアメリカでは始まっていたのです。スタッフォードだけでなく、ツナ缶界の巨人ヴァンキャンプ社も当たり前のように手掛けていました。

寅蔵じいちゃんは、この最先端の現場にいました。 港を駆け、自分の船「湊丸」や「カリフォルニア号」で獲ってきたマグロをスタッフォード社の工場へ運び込む。そこでどんどん製造され売れていくツナ缶。そのすぐ横で、缶詰にはならない骨や皮が、力強い肥料へと生まれ変わっていく光景。

彼は、ただマグロを獲っていただけではない。 「マグロを余さず使い切り、次の命へと繋ぐ」という、100年後の私が誇りを持って取り組んでいるこの仕事の「種火」を、サンペドロの潮風のなかで、誰よりも早く目撃していたのです。

父から聞いていた「密航して一財産」という話。 その「財産」の本質は、きっとお金だけではなかったはずです。 世界一のマグロの街で彼が見た「循環」という概念。その驚きと可能性こそが、彼が日本へ持ち帰り、後の伊豆川家の血脈に受け継がせた最大の「遺産」だったのではないでしょうか。

日本でツナ缶産業が産声を上げるずっと前、大正時代の潮風のなかで、伊豆川の「マグロの循環」はすでに始まっていた。

そうなると、自分の中で一つの結論が導き出されます。 「俺は3代目なんかじゃない。100年前にカリフォルニアの海で今のこの仕事の種火を見つけた寅蔵じいちゃんから数えて、4代目なんだ」と。

消えた財産の行方

ここで、もう一つの大切な「家族の風景」に触れなければなりません。 晩年の寅蔵じいちゃんのアルバムをめくると、一人の男性がよく一緒に写っています。寅蔵じいちゃんの弟、延次(のぶじ)さんです。

晩年の寅蔵と延次兄弟

実は、私が今回のリサーチで最も不思議に感じたのは、この二人の関係を想像した時でした。

父から聞いていたのは、「じいちゃんはアメリカで築いた財産を、帰国後にきれいに使い果たしてしまった」という話。けれど、一方で記録を辿ると、弟の延次さんは戦前から戦後にかけて、いくつもの新しい事業に果敢に挑戦しています。

その挑戦の果てに、甥の武雄さんと共に立ち上げたのが、平和缶詰(後の平和食品)でした。ふと、考えました。 昭和初期。まだ何者でもなかった延次さんが事業を立ち上げるための資金は一体どこからきたのか。

寅蔵じいちゃんがアメリカから持ち帰った、莫大な「一財産」。 それは本当に、お酒や遊びだけに消えてしまったのでしょうか。

もしかすると、寅蔵じいちゃんは自分の手で成功を掴むこと以上に、「自分が見てきた世界の景色を、弟たちの手で日本に再現させること」に、そのすべてを投じたのではないか。

ちょっとだけ若い

わざわざ口には出さないけれど、寅蔵じいちゃんが遺した最大の「遺産」は、平和食品という形になり、いま私たちが受け継いでいる「循環の仕事」へと繋がっている。

そう思うと、会社の会議室に飾られた寅蔵じいちゃんの肖像画が、誰よりもおおらかな心で私たちを見守ってくれているように感じられます。

100年後の潮風を清水で

今回のリサーチを終えて、私の中の「伊豆川寅蔵」という男の像は、180度変わりました。

晩年、病床でお酒を隠し飲みしていた不器用なおじいちゃん。 その正体は、100年前のカリフォルニアで、巨大な潮流に乗り、自前の船を走らせ、世界初の「ツナ缶と魚粉の循環」という時代の夜明けを目撃していた、本物のパイオニアでした。

「密航して財産を稼いだけど全部使っちゃった」

家族に伝わっていたその話の、本当の意味がようやく分かった気がします。 彼は、目に見えるお金を使い果たしたかもしれないけれど、「マグロを余さず生かし切る」という、100年経っても色褪せないビジネスの種火を、そのトランクに詰めて清水へ持ち帰ってくれていたんです。

私はこれまで、自分のことを「創業3代目」だと思ってきました。 でも、今日からプロフィールを更新します。

「100年前のカリフォルニアから続く、マグロ循環の4代目」です。

カリフォルニアの潮風に吹かれながら、寅蔵じいちゃんが『港丸』や『カリフォルニア号』のデッキから見ていた、あの命の循環の景色。 それを今、清水の港で新たな意味を持たせようと立ち上がりました。

何度でも伝えたい。マグロの循環

大きな経済から見れば目立たない環かもしれません。でも、私たちが「つなめぐり」と呼ぶこの環を広げることは、この街の命の躍動を消さないこと、そして私たちが「命を丸ごと引き受ける責任」を取り戻すことだと信じています。

そして、この環は私たち家族だけで完結するものではありません。

この記事を読んでくださったあなた。 私たちのルーツに、そして「つなめぐり」の想いに共感してくださったあなた。 ぜひ、この環の一部になっていただけませんか。

静岡の美味しいツナ缶やマグロを食べること、静岡のお茶を愉しむこと、そしてこの物語やその一部を誰かに伝えること。そんな小さな一歩が、100年前から続くこの大きな循環を、次の100年へと繋げる力になります。

100年前、ウィルミントンの波止場でひいじいちゃんが見て持ち帰ったあの景色。 いま、清水の港で同じ景色が消えようとしています。皆さんと一緒に新しい景色を作っていけることを願っています。

一緒に、この環を広げていきましょう。

またもや最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

伊豆川飼料株式会社 4代目・伊豆川剛史

寅蔵じいちゃんが見ていたカリフォルニアの風景

参考にした文献
「在米日本人人名辞典」日米新聞社 (国会図書館デジタルコレクション)
「日米住所録」日米新聞社(国会図書館デジタルコレクション)
「San Pedro News Pilot」(California Digital Newspaper Collection)
「Pacific Fisherman Year Book」
※100年以上前の物なので公開させてもらいました。

いいなと思ったら応援しよう!