クロード・モネ〈ヴェトゥイユのモネの庭〉
青い空の下、ひまわりが咲き乱れる庭で水色の服を着た少年が遊んでいる。その奥では、2人の人物が階段を下り、少年の元へと向かおうとしている。
この〈ヴェトゥイユのモネの庭〉は、穏やかな夏のひとときを切り取った幸福な一場面に見えるだろう。
しかし、この絵の裏には実は複雑な家族のドラマと悲しみが隠されている。
今回は〈ヴェトゥイユのモネの庭〉が誕生するまでの物語をたどってみたい。
①アルジャントゥイユからヴェトゥイユへ
1871年から始まったアルジャントゥイユでの8年間の生活は、モネの人生の中でも最も幸福な時期の一つだった。
アルジャントゥイユには、セーヌ川や橋、ヨットで遊ぶ人々など、モネのインスピレーションを刺激するモチーフが溢れていた。
妻カミーユと4歳の息子ジャンと過ごす日々は、〈アルジャントゥイユのヒナゲシ〉をはじめとする多くの作品が生まれる源となった。

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画商デュラン=リュエルが作品を購入してくれたおかげで、モネの生活は以前よりも安定していた。
1874年には、前々から夢見ていた、自由な作品発表の場、第一回印象派展を仲間たちと共に開催し、〈アルジャントゥイユのヒナゲシ〉もそこに出品した。展覧会は酷評にさらされ、作品もほとんど売れなかった。
同じ頃からデュラン=リュエルも作品の大量購入が難しくなり、モネは再び経済的困窮に陥った。一方で、実業家エルネスト=オシュデなど新たな支援者も少しずつ現れてきた。
しかし、借金は増え続け、経済的苦境からはなかなか抜け出せないままだった。以前から体調を崩していた妻カミーユの病状も、特に次男ミシェルを出産して以来、急速に悪化していた。
八方塞がりになったモネは1878年、住み慣れたアルジャントゥイユを去る。数ヶ月間パリで暮らした後、家賃の安いヴェトゥイユに引っ越したのである。
②奇妙な同居生活の中で……
ヴェトゥイユは、アルジャントゥイユと同じくセーヌ河畔にある、パリの北西約60キロの小さな村である。
その借家に住んでいたのはモネ一家だけではない。1875年頃の景気後退の煽りを受けて破産したエルネスト・オシュデも家族を連れて身を寄せていた。
モネ家4人(モネ、カミーユ、子ども2人)と、オシュデ家8人(夫妻、六人の子どもたち)、という二家族総勢14人が一つ屋根の下に暮らしていたのだ。
ただでさえ病状が悪化していたカミーユにとって、このような大人数での生活は決して楽なものではなかっただろう。
オシュデ氏は仕事を探すという名目でベルギーに行ってしまい、残された妻のアリスが、2家族の子供たちの面倒を見、カミーユの看病もしていた。
もともと家族ぐるみの付き合いではあったが、実はオシュデ夫人アリスとモネは、このヴェトゥイユでの共同生活が始まる前から親しかったとも言われている。
二人の関係をめぐっては、現在もさまざまな説がある。少なくとも重い病に苦しむ中で、このような複雑な共同生活は気楽なものではなかっただろう。
ヴェトゥイユに来た当初は、カミーユは家族と散歩することもできたが、次第に道端のベンチに腰掛け、子どもたちを見ていることが多くなっていったらしい。
しかし、モネの経済状況は依然として改善せず、薬代にも事欠く有様だった。
そんな状況の中、カミーユ・モネの容態は悪化の一途をたどり、1879年9月5日、ついに息を引き取った。32歳だった。
③カミーユの死
ベッドに横たわる妻の亡骸を前にしたモネは、気がつくとある行動に出ていた。

「かつてあれほどいとおしんだ女性の死の床で、(…)私はもはや 動かなくなった彼女の顔に死が 加え続ける色の変化を機械的に写し取っている自分に気づいた」
寒色系でまとめられた画面は、死の冷ややかさに満ちている。
素早い筆致を重ねた中から、灰色のカミーユ の顔が浮かび上がっている。
半ば開いた口はもう息をすることも言葉を発することもない。
描きながら、モネは妻の死という現実を噛み締めていたのかもしれない。
若い頃に出会って以来、カミーユは〈散歩、日傘をさす女性〉など数々の作品でモデルを務めてきた。彼女はモネにとって創作の源泉であり、まさに彼のミューズだった。
彼女を失ったことは モネにとって一つの時代の終わりでもあった。
同時に 彼女の死に顔を描いた一枚を前にして、自身の画家としての業も思い知ったのかもしれない。
この〈死の床のカミーユ〉を、モネは生涯手放さなかった。
④その後のモネ
その年の12月は、厳しかった。大寒波がフランスを襲い、ヴェトゥイユ近郊のセーヌ川も凍ったと言われる。

この 凍結した河面を描くために、翌年にかけてモネは朝早くから 同じ場所へと何度も通った。
心に穿たれた穴を埋めるかのように。
出来上がった作品の一つ〈霜〉は、川面を覆う氷に亀裂が入る様を描いたものだ。画面からは冷気が立ち上り、氷の砕ける大きく硬質な音がこだましてきそうだ。
モネはどんな思いでこの風景と対峙していたのか。描くことで、深い喪失を抱えた自分を支えていたのかもしれない。
共同生活は、相変わらず続いていた。アリスは2つの家族の8人の子供たちの世話をし、モネを助けていた。
日常という時間は機を織るように重なり、季節はめぐり続ける。
そして1880年、カミーユを失って最初の夏、モネは〈ヴェトゥイユのモネの庭〉を描きあげる。

階段手前にいるのはオシュデ家の次男ジャン=ピエール、そして階段を降りてくるのはモネの次男ミシェルと乳母と推測されている。
3人の姿は穏やかな日常の一場面として、この夏の光にあふれる庭に溶け込んでいる。
モネは〈ヴェトゥイユのモネの庭〉の後も半世紀近く生きた。
1892年にオシュデ氏が亡くなると、モネはアリスと再婚した。
またモネの長男のジャンは、後にアリスの娘ブランシュと結婚。ブランシュの妹のシュザンヌは、モネのお気に入りのモデルとなり、〈戸外の人物習作〉などでポーズを取った。

晩年には多くの人との別れを経験したが、義理の娘ブランシュと友人クレマンソーに最期を看取ってもらえた。
モネの死から百年が経った今も、〈ヴェトゥイユのモネの庭〉には、家族の時間が確かなものとして息づいている。
