第10回「習慣としての読書との向き合い方」
読書に集中できない日もある。でも、だからこそ本が日々の糧になる
静かな時間のなかで、自分の呼吸だけに耳を澄ませる。
そんな感覚を味わえる数少ない行為の1つが、いまの僕には「読書」だ。
朝の散歩を終え、椅子に座って本を開く。
そこに誰の声もなく、ただ言葉と、自分自身の心だけがある。
けれど、そんな時間ばかりではない。
本を開いても、数行も読まないうちにページを閉じる日もある。
読み終えた一冊が、心の支えになる
体調が良くない日も多い。
思考がまとまらず、文字が視界に入っても意味が入ってこないこともある。
それでも、「この本を読み終えた」という小さな達成感は、不思議と日常に光を射してくれる。
僕は読書メーターというサービスを2010年頃から使っていて、
これまでに約980冊の読了登録をしてきた。
最近2年は、ほぼすべての読了本に3行以上の感想を残している。
人に読まれるためというよりも、むしろ、自分が「読めた」と確認するために。
そうした記録が積み重なっていくと、何かを保っている感覚が生まれる。
生活が不安定でも、自分の内側に静かに根を張ってくれるもの。
それが、僕にとっての読書だと思う。
集中できない自分を、責めすぎないように
でも、読めない日もある。
むしろ最近は、そちらの方が多いかもしれない。
数ページ進んでも頭に入らず、同じところを何度も読み返しては、そっと本を閉じる。
スマホを手に取ってしまい、そのままショート動画やSNSを見て後悔することもある。
「こんなにも集中できない自分は、ダメなんじゃないか」
そんなふうに感じてしまう瞬間も、正直に言えば多い。
でも今は少しずつ、「読めない日も含めて、読書とともにある」と思えるようになってきた。
読書は「成果」ではなく「習慣」なのだ。
読むことも、読めないことも、そのまま記録されていく。
だからこそ、読了できた一冊は、自分の弱さを否定するのではなく、静かに認めてくれる存在なのかもしれない。
本とともにある日々が、自分を保つ
最近では、読み返したいと思える本もいくつか出てきた。
好きな作家の文章を読むと、自分の内側が整う感じがする。
たとえば村上春樹の作品は、無理なく流れるように読める。
どこか孤独を抱えた登場人物たちに、自分を重ねることもある。
「他人と比べる必要はない」
「一行でも読めたなら、それで十分」
そんなふうに思えるようになってから、読書は義務ではなく、日常の居場所になってくれた。
おわりに:読めなくても、本はそこにある
人生には波がある。
無職になり、統合失調症を診断され、障害年金で暮らす日々。
そのなかで、本を読むという営みだけは、ずっと続けてこられた。
読む日も、読めない日もある。
でも、だからこそ、本の存在は尊い。
ページの向こうにある世界が、今日という1日を少しだけ違うものにしてくれる。
そんな読書とともに、これからも生きていきたい。
もし同じような思いを抱えている方がいれば、ぜひスキやフォローをお願いします。
