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第4回「無職でいることの罪悪感と、それを手放すまで」


こんにちは。結城です。
このnoteを訪れてくださって、ありがとうございます。


「働いていないこと」への視線が、ずっと重かった

僕はいま、障害年金を受給しながら、働かずに暮らしています。
統合失調症の診断を受け、無理を重ねて働いた末に、心身の限界を迎えてしまいました。

でも、どれだけ体調を崩しても、「働いていない自分」への罪悪感は、ずっと消えませんでした。

「他の人は働いているのに、なぜ自分はできないのか」
「努力が足りないのではないか」
「このまま社会から取り残されるのではないか」

こうした思いが、四六時中頭の中をめぐっていました。


働けなかった理由を、少しずつ言葉にしていく

これまでの職歴は、決して短くありません。
けれど、どこに行っても人間関係や体調の壁にぶつかり、長く続けることができませんでした。

気力が湧かず、眠れなくなり、出社ができなくなる。
そうなるまで自分を追い込んでから、ようやく「もう無理だった」と気づくのです。

何度も繰り返した末に、ようやく「これは自分の性格や根性ではなく、病気の影響なのかもしれない」と思えるようになりました。


「罪悪感」と「納得」の間にあったもの

それでも、無職であることへの「後ろめたさ」は消えていませんでした。

社会には、「働くことが当然」「働いてこそ一人前」といった価値観が根強くあります。
どれだけ事情があっても、「働いていない」ことは、時に無価値であるかのように扱われる。

そんな世界で、自分自身に「これでいいんだ」と言い聞かせるのは、簡単なことではありませんでした。


「無理をしないこと」を、自分の仕事にする

ある日、自分にこう言ってみたことがあります。

「いま、自分にできることは“生き延びること”だ」

社会的な生産性がなくてもいい。
人に誇れる経歴がなくてもいい。
まずは、自分を壊さないことを最優先にしよう。

そう思えるようになってから、少しずつ気持ちが楽になっていきました。


無職であることは、逃げではない

いまの生活は、逃げた結果ではありません。
「これ以上、自分を壊さない」という選択を、何度も繰り返した末にたどり着いた場所です。

もちろん、経済的な不安はあります。
家賃や生活費、将来への心配は尽きません。

それでも、無理をして働いて、また倒れて……という繰り返しだけは避けたい。
そう願いながら、僕は今日も、静かな暮らしを整えています。


罪悪感の正体は、「誰かの声」だった

最後に。
この罪悪感の正体って、誰の声だったんだろう?と考えることがあります。

親?社会?過去の自分?
もしかしたら、それら全部が混ざった「内なる他者」だったのかもしれません。

でも、いまの僕には、それにこう返すことができます。

「僕は僕の命を守るために、いまの選択をしている」

それは、誇ってもいいことだと、少しずつ思えるようになってきました。


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それは、働けない僕にとっての「小さな励まし」です。

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