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プロ野球背番号の話10番


「誰も着けたことがない番号」と「一人しか着けたことがない番号」

「NPB12球団で一番多い永久欠番は何番でしょう?」
ここで言及する時点で答えは明白なのですが、正解は「10」です。
中日、阪神、楽天の三球団が永久欠番にしています。ちなみに2位は「3」「15」で、「3」は巨人と広島の二球団、「15」は中日と広島の二球団で永久欠番となっています。「1」もかつては巨人と近鉄の二球団でしたが、近鉄の消滅により巨人だけになりました。

さて、永久欠番と言っても通常は何人かの歴史を経て、球団史に残る選手の引退時(あるいは引退後)に制定されるのがほとんどですが、この「10」に関しては「誰も着けたことがない番号」と「一人しか着けたことがない番号」があります。
「誰も着けたことがない」のが楽天で、球団創設時に「ファンの番号」として永久欠番に制定したため、クラッチなどマスコットのユニフォームに着けられてはいますが、着用した選手はいません。

「一人しか着けたことがない番号」ですが、これも実は唯一無二で、阪神の背番号10は、初代ミスタータイガースこと藤村富美男しかつけたことがありません。1936年の球団創設と同時に入団した藤村は、途中応召によりチームを離れるも復員後球団に復帰、戦後もそのまま在籍、一度引退し監督に就任するも背番号を変えず、1958年に現役復帰→退団すると背番号10は永久欠番に制定されました。藤村応召中に代わりに10番を着けた選手はいなかったため、本当に「阪神の10番は藤村富美男だけ」ということになります。正直三桁を超えると把握しきれませんが、少なくとも二桁(00~99)に限定すれば、これは「阪神の藤村のみ」のケースです(ちなみに三桁同様に現在支配下で認められていない01~09は除外)。
通常より8センチ長い「物干し竿」と呼ばれるバットを愛用し不動の四番を務め、首位打者一回、本塁打王三回、打点王五回を記録。それに加え、戦前から二リーグ草創期までは投手も務める二刀流。名実ともに草創期のタイガースの中心人物だった藤村ですが、人間的には褒められたところばかりではなかったようで、二リーグ分裂時に毎日に阪神から大量に選手が引き抜かれた際、「わしゃタイガースの藤村じゃ」と主力で唯一残留したものの、実際は引き抜かれた側が「藤村のワンマンぶりに嫌気がさしていた」との話もあり、また後年監督時代には「藤村排斥事件」という選手によるクーデターも起きたほどで、結果藤村の退団が早まったとも言われています。

永久欠番の存在意義


「背番号10の永久欠番、もう一人は誰?」

これはなかなかの難問だと思います。ちなみに当該チームの中日ファンでも分かる人はあまり多くないのではないでしょうか。
正解は「服部受弘」。「はっとりつぐひろ」と読みます。戦前の1939年に捕手として中日の前身である名古屋軍に入団。1941年に本塁打王(といっても8本)になるも翌年に応召。戦後は一時阪急に籍を置くも、結局中部日本に復帰。引き続き捕手としてプレイしていましたが、当時の竹内愛一監督の意向で投手転向、初登板初勝利を挙げるとそのままシーズン14勝をマークしました。以降、5年連続10勝以上、打者としてもコンスタントに二割七分前後の打率を挙げ、戦前から一リーグ時代における中日の中心選手となりました。当時は「二刀流」が現在ほど珍しくはなかったのですが、それでもかなりの成功例と言えます。
しかし、二リーグ分裂後、初年度こそ21勝を上げたものの翌年にはサードに転向。以降、投手としては隔年での活躍に留まり、コーチを兼任した1955年に1試合登板したのを最後に投手を廃業、打者に専念するようになりました。しかし世代交代の波を受け、コーチ専任→現役復帰→助監督兼任とチーム事情に振り回されたあげく、1958年に同じくチームの功労者「西沢道夫」(「背番号15の話」で言及予定)とともに「永久欠番」+「ホームでの引退試合開催」をダシに引退勧告を受け、引退→退団しました。なお、同じく引退勧告を受けた杉下茂は兼任監督だったため永久欠番を固辞。結果として20番は「チームのエースナンバー」として継承されることになった次第です。
さて、ここで問題なのが「永久欠番」(+「ホームでの引退試合開催」)が引退のダシに使われたこと。確かにチーム創成期の功労者ではありますが、通算成績としては特筆すべきものはなく、服部は野球殿堂入りすらしていません(西沢は殿堂入り)。二刀流とはいえ通算打率二割三分九厘、通算本塁打33本。打者としての通算成績だけ見れば、現在の「1軍半」の選手レベルです。投手としての通算勝利数も112勝と、同じドラゴンズで永久欠番になっていない山本昌の219勝、杉下茂の215勝(うち4勝は大毎)はもちろん、星野仙一の146勝にすら及びません。
確かに約束は約束ですが、この成績の永久欠番を後生大事に残しておくくらいなら、高木守道の「1」や立浪和義の「3」、岩瀬仁紀の「13」、上述の杉下、星野、そして小松辰雄の「20」、山本昌の「34」を永久欠番にしたほうがよほど建設的です。
それか、球団身売りによって永久欠番が失効したケースが近年みられたことから、中日新聞が地元の優良企業(トヨタがベストだけどたぶん買ってくれない)に身売りすればこの中途半端な永久欠番が失効し、オーナーと地元財界の顔色ばかり窺って監督やコーチ人事がズタズタになって現在の暗黒時代になってしまった球団の状況も少しは良くな(この項終わり)。

張本勲とそのフォロワー

平成世代以降だといろいろな選択肢があると思いますが、昭和世代で「背番号10」と言えば真っ先に頭に浮かぶのが「NPB唯一の3000本安打達成者」張本勲ではないでしょうか。そのイメージが「東映」か「巨人」か、はたまた「ロッテ」かは人それぞれでしょうが。つい最近まで「もっともおもしろいお笑いバラエティ(立川志らく)」のスポーツコーナーのコメンテーターを務め、老害スレスレ(あるいはそのもの)の発言で何かと物議を醸すという印象がありましたが、現役時代は「安打製造機」との異名を取り、通算安打日本記録3085を持つ偉大なバッターでした。
昭和34(1959)年に入団した東映では、初年度からレギュラーとなり新人王、二年目では初の三割打者、三年目には首位打者と順調にキャリアを進め、長きにわたりチームの中心として活躍しました。しかし、親会社が東映→日拓ホーム→日本ハムと身売りされると「東映色の一掃」が進められ、張本もその例外ではなく巨人にトレードされました。
昭和50(1975)年オフ、長嶋引退後、王一人にマークが集中するのが球団史上初の最下位の原因の一つと考えた巨人は、「王の前を打つ大砲」として張本を獲得、かつてのON砲ならぬOH砲は期待通りの活躍を見せ、翌昭和51(1976)年、昭和52(1977)年のリーグ連覇に大いに貢献しました。しかし、2年後の昭和54(1979)年に左目疾患で77試合の出場にとどまると、その年限りで戦力構想から外されました。わずか一年の成績不振に対する戦力外の理由としては、もともと守備が得意ではなかったところに年齢的な衰えも加わり、他の選手の守備負担が大きくなっていたのが原因ともいわれています。
昭和55(1980)年より、ロッテに移籍。これは同胞である重光オーナーの強い意向と、まだ未達成だった3000本安打を達成して引退したい張本の強い意向が合致したものです。当時40歳と全盛期には程遠い状態ではあったもののDH制のあるパリーグという環境もあって何とか3000本安打を達成。翌年在籍二年間で現役引退しました。現役生活23年3球団を渡り歩き一貫して背番号10を着用した「背番号10の代名詞」のような存在です。

張本と同じ「背番号10の天才バットマン」といえば、阪急時代の加藤秀司
(英司)も忘れてはいけません。阪急伝説の「1968年ドラフト」において山田久志(1位)、福本豊(7位)の同期として2位指名され、以降70年代ブレーブス黄金期の中心打者として活躍しました。張本とは「長打力を備えた安打製造機」「左投左打」「守備が不得手」「巨人でも背番号10」という共通点があります。張本と違うのは、移籍先で10を着けたのは巨人だけで他球団では「空き番号の一桁を付けた」という点ですね。

加藤とは逆に「移籍先でも背番号10にこだわった」のが駒田徳広です。投手として巨人に入団した時の背番号は「50」でしたが、打者転向後背番号「54」の槙原寛己、「55」の吉村禎章と共に「50番トリオ」として大ブレイク。主力になった槙原が「54→17」、吉村が「55→7」と背番号変更するのにならい背番号を「10」に変更しました。
190センチを超える大柄な体格ながら、コンスタントに三割前後の打率を残し本塁打20本越えはわずか一回という典型的な中距離打者でしたが、その一方で歴代5位となる満塁本塁打13本を記録し「満塁男」の異名がありました。また張本や加藤と違い、一塁守備には定評があり、ゴールデングラブ賞を通算10回受賞しています。
ただ上との折り合いに苦労する性格だったためか、球団上層部と軋轢を繰り返し、結局平成5(1993)年に同じ一塁手である落合博満がFAで巨人に入団する可能性が濃厚になる(結局入団)とFA宣言して横浜に移籍しました。これは「巨人生え抜きで国内他球団へFA移籍した唯一のケース」です。
移籍先の横浜では、前年オフに主力6人が解雇されたことで、その年俸が駒田の移籍金に充てられたとの報道(横浜球団は否定)があったことから、内外から批判され、本人も「OBとして一歩引いている」と発言しています。横浜には7年の在籍で平成12(2000)年オフに引退しました。

余談ですが、張本移籍後の日本ハムでは、永淵洋三→井上弘昭と移籍組の大物が背番号10を引き継いだものの、その後迷走。現在清水優心が12年の長期で着用していますが今オフの去就が気になる状態です。
また、令和3(2021)年シーズン中に日本ハムから巨人に移籍した中田翔は、「広島出身」「荒くれとして有名」「高校は大阪」「ファイターズ→ジャイアンツへの移籍」「巨人では背番号10」「巨人から戦力外後、他球団に移籍」という意外な共通点があります。

捕手の系譜

調べているうちに、意外と「背番号10の捕手」の流れがあることに気付いて、該当球団ごとにまとめてみます。
まずはライオンズ。実は昭和27(1952)年から昭和55(1980)年の長期に渡り、「捕手と短期契約の外国人」だけで繋いでいるのです。しかもそのあと着用したのが外国人のスティーブ(詳細は後述)ですので、それも加えれば34年間捕手と外国人だけで繋いだことになります。
久喜勲、永利勇吉と二人の捕手が短期間着用し、その後を継いで昭和31(1956)年に入団したのが田辺義三です。高校時代に甲子園で名前を売って大争奪戦の末に西鉄に入団した田辺ですが、正捕手和田博実の牙城を崩せず捕手そして外野の控えとして現役生活を終えました。
その後外国人選手を挟み、西鉄末期の正捕手となった村上公康が着けましたが、村上自身が西鉄球団崩壊の原因となった「黒い霧事件」への関与を疑われ、ロッテにトレードされました。一年おいて球団が太平洋クラブになったタイミングで捕手の中村正義が一年だけ着用、翌年超大物外国人との触れ込みだったフランク・ハワードに奪われるも、これが「とんだ一杯食わせもの」で一年限りで解雇。翌年広島から移籍してきた捕手、西沢正次が太平洋→クラウンライター→西武と三球団にわたって着用、昭和55(1980)年シーズン途中に入団したスティーブに譲り、その年限りで引退します。
スティーブ退団と並行して本格的に訪れた「ライオンズ黄金時代」に背番号10を背負ったのが、「ケタ外れの強肩」として名を馳せた羽生田忠克(忠之)強肩と言っても外野手だったのでここで一度流れが止まるのですが、その後流れを呼び戻したのが、慶應義塾大学から平成7(1995)年に逆指名で西武に入団した髙木大成です。「ポスト伊東勤」の期待をかけられた髙木ですが、2年でキャッチャーを断念しファーストにコンバート。まもなくレギュラーを獲得し二年連続でゴールデングラブも受賞しましたが、転向3年目の平成11(1999)年に大怪我をしてその後低迷。それ以降、各ポジションを転々とするもレギュラー奪取はかなわず平成17(2005)年に現役引退しました。
その後を継いだのが、慶應義塾大学の後輩でもある佐藤友亮です。入団時は背番号30でしたが、髙木の引退を受けて引き継ぎました。外野手登録でしたが、内野手もこなせる器用さがありユーティリティとして重宝されたものの、レギュラー定着した年はありませんでした。
佐藤引退後、ここで再び捕手の流れに戻ります。「高卒ドラ1」の森友哉が着けてレギュラーとなりました。ただし森の売りはキャッチングでも肩でもリードでもなく、後に首位打者を獲得することにもなるその強打でした。そのため、入団当初は当時正捕手だった炭谷銀二朗の控え、あるいは打力を活かして、指名打者、外野手、一塁手などを務めました。入団五年目の平成30(2018)年より本格的に捕手のレギュラーに定着、正捕手だった炭谷をFA移籍させるほどの成績を上げ、翌年には上述の通り首位打者に輝きました。しかし、国内FA移籍の資格を取った令和4(2022)年オフにオリックスにFA移籍しました。
現在は六大学野球のスター選手だった捕手の小島大河が着け、「ライオンズの背番号10は捕手」という伝統を森同様の「打てる捕手」として引き継ごうとしています。

ライオンズほどではないものの、捕手の流れがあって現在も受け継がれているのがDeNAと巨人の二球団。といっても、DeNAは実質、大洋→横浜大洋時代の正捕手福嶋久晃(福島久)と現役の戸柱恭孝の二人が長期着用して川崎~横浜のホームを守ってきました。福島はどちらかというと「プロゴルファー福嶋晃子の父」としてのほうが有名でしょうか?
大洋~横浜の捕手本流はむしろ「背番号8」のような気がしますしね。

そういう意味では、巨人の捕手本流も「背番号9」かもしれません。
V9末期にちょうど空いた背番号10に昇格した捕手の阿野鉱二ですが、森昌彦、森の引退後は吉田孝司の牙城を崩せず、控えのまま移籍した張本勲に背番号を譲りました。引退後は「トレーニングコーチ」になりました。
その後、外国人や張本フォロワーの「強打者」番号になっていたのを一人で塗り替えたのが、「前監督」こと阿部慎之助です。ちょうど21世紀になった平成13(2001)年に入団し、通算20年東京ドームのホームを守り続けただけでなく、平成24(2012)年には首位打者と打点王の二冠を達成、通算2132安打、406本塁打と「打てる捕手」のお手本のような選手でした。引退後二軍監督→そして原監督の後を継いで一軍監督と順調にキャリアを積んできたところ、家庭内のトラブルですべてを失ってしまったのは残念でした。
その阿部が監督時代に肝いりでFA入団させたのが甲斐拓也です。移籍一年目はともかく、二年目の今年はホークス時代の実績とは程遠い状況になっていますが、シーズン途中の監督交代が影響しているのかいないのか。

背番号10の外国人選手

これまでの連載で「外国人選手は背番号の流れを壊す」という意味合いで話を進めてきたので、特に今回は流れを追うのをサブに回し、印象に残っている選手の紹介をメインにします。
まず巨人ではロイ・ホワイト。1980~82年まで在籍。これまで巨人で背番号10を着けた外国人選手はゼロだったところ、それまで10番を着けていた張本勲がロッテにトレードされたため与えられました。巨人に入団するまではMLBのヤンキース一筋15年。通算18年間のプロ野球生活で日米1球団ずつしか在籍しなかった珍しい選手です。巨人在籍時の3年間すべて打率二割後半をキープ。本塁打も三年連続二桁を達成しましたが、当時39歳と高齢だったため(当時の野球選手寿命は現在より短かったのです)1982年限りで引退しました。人間的にも品格を兼ね備えた紳士だったため、さぞ読売のフロントには気に入られていたであろうと思われます。

二人目は1987~88年、近鉄に在籍したベン・オグリビー。ホワイト同様16年MLBの一線で活躍していたバリバリのメジャーリーガー。年齢的な峠を超えての来日でした。オグリビーは期待に応え、2年連続三割20本塁打を達成したものの、これもホワイト同様39歳で引退しました。同僚の外国人選手からは尊敬され、日本人選手からは信頼される人間性だったそうです。

三人目は「踊るホームラン王」ことマット・ウインタース。1990~94年の長期にわたり日本ハムに在籍。打率こそ平均二割七分前後だったものの、入団から四年連続本塁打30本以上、最終年も22本と長打力を発揮。しかしデストラーデ(西武)やブライアント(近鉄)に阻まれ、一度も本塁打王になることはできませんでした。ファンサービス精神にあふれ、チアガールと一緒に踊ったり、雨天中止のグランドで雨中スライディングのパフォーマンスをするなど、そちらの印象が強い当時のファンも多いと思います。34歳と若くして惜しまれながら現役を引退しました。

以降は順不同で手短に。西武ライオンズ草創期を支えたスティーブ・オンティベロス。在籍6年で5度の打率三割。同僚のテリー・ウィットフィールドとともに1982年の初優勝に貢献しました。ちなみに二人とも「姓が長いので登録名が名前」という共通点が。この二人がいなければ、後の「西武黄金時代」もありませんでした。
ヤクルトのドゥエイン・ホージーは明るいキャラクターで話題になりましたが、それだけでなく1年目は打率二割八分九厘、本塁打38本の好成績。2年目大幅に成績を落とし、その年限りで解雇も大きな印象を残しました。
ちなみにボクが「NPB史上一番嫌いな外国人選手」と認定しているユリエスキ・グリエルは、キューバ時代からMLBを通じて背番号10を着け続けており(近年は衰えもあって希望の番号を付けられていない模様)、2014年DeNA所属時も10番でした。

背番号10の投手

投手の守備番号である「1」よりも、多くの先人たちの活躍もあってかNPBの投手たちから人気と羨望を集めているのが「10番台(11~19)」です。本来なら「10」もここに加えるべきでしょうが、上述の通り野手のイメージが強く、着けている投手は多くありません。数に比例して、名球会クラスの選手は皆無です。
上述の永久欠番組(藤村、服部)を含むいわゆる草創期の二刀流を除外すると、堀内庄(巨人)、大脇照夫(国鉄)、谷良二(阪急)、上野重雄、江藤晴康(共に東映)、山原和敏(日本ハム)がピンポイント的に10番を着けた投手です。特に巨人の堀内庄は10年(うち9年が背番号10)の現役生活で62勝(44敗)を挙げるなど、昭和30年代を通して主戦として活躍しました。

そんな中、投手の10番という流れを持っていたのが三球団。ロッテ(毎日→大毎→東京)と大洋、そしてソフトバンク(南海→ダイエー)です。
まずロッテですが、二リーグ制初年度に毎日球団が創設以降15年間、一年を除いてずーっと投手でつないでいます(浅井守→清水宏員→三浦方義→一人挟んで菅原紀元)。菅原が引退すると一時的に野手の番号になりますが、1972年に入団した宮脇敏が着けると、宮脇移籍後に水谷則博が昇格しました。水谷は中日入団5年目のシーズン中にロッテに移籍して大ブレイク。それまで通算9試合しか登板していなかった投手が、ロッテでは引退年度を除いて15年連続で二桁登板を達成しています。背番号10を着けていたのはそのうち6年間でしたが、これは巨人から移籍してきた大物・張本勲に背番号を譲ったからです(自身は11に変更)。張本が2年で引退すると、その後に外国人投手のバート・シャーリーが着けましたが同じく2年で退団。結局それ以降チームの「背番号10の投手」という流れは途絶えて現在に至ります。

1953年に松竹球団と大洋球団が合併して洋松ロビンスになったときに松竹から移籍してきたのが小林恒夫(常夫、経旺)です。1949年に大映の前身である金星スターズに入団して以降、入団時と引退時(近鉄)の二年を除いてすべて背番号10を着け続けた小林は、通算負け越し記録「64」(46勝110敗)のNPBワースト保持者として知られています。なお、100敗以上した投手で50勝未満なのも小林のみです。でも逆に言えば、「それだけ投げさせてもらえた」ということなのでワーストではあるものの、一つの勲章と言えますね。小林が1958年に近鉄に移籍(その年限りで引退)した以降は流れが途絶えますが、約30年後、横浜大洋時代に唐突に甦ります。日本ハムから元新人王&MVPにして左腕エースだった木田勇が移籍してきたのです。当時、日本ハムで着けていた「16」は主戦だった欠端光則が着けており、「18」が空いていたものの結局「10」を着けることになります。本人の希望かどうかはわかりませんが、結局新入団初年度のみの好成績で二年目以降は特筆事項なしという結果の移籍ですから、「18」を与えるほどのことではないと球団が判断したのかもしれません(その翌年に外国人野手のレスカーノが「18」を着けるのはまた別の話)。木田は移籍初年度こそ規定投球回数に載ったものの(8勝13敗)それ以降は期待に応えられず4年後に中日に移籍。交換相手の加茂川重治が「投手の10番」を引き継ぎます。加茂川が二年で引退すると、新入団の有働克也が引き継いで「投手の10番」がつながりました。しかし有働二年目のオフに巨人からFA移籍した大物・駒田徳広に背番号を譲り(デジャブ?)以降、外国人投手が細切れに着けるものの現在のDeNAでは完全に流れが途絶えました。

戦前こそ野手が着けていたものの、戦後の1949年に南海に入団した江藤正(晴康)がチーム最初の「投手の10番」でした。5年で高橋ユニオンズに移籍、その後一年で東映に移籍しましたが上述の通り東映でも10番を着けています。その後は期待されたものの活躍できなかった東実が「18」から変更して二年だけ着け、その後「アジア人初のメジャーリーガー」マッシー村上こと村上雅則が渡米前に2年間着けています。マッシー渡米中は空き番だったのですが、帰国後は「15」に変更。15を着けていた内野手の田坂正明が10に変更します。そこから一時的に流れが途絶えます。しかし南海末期の1986年、新人投手の中村弘道に突然10番が与えられ、ダイエー初年度のシーズン中に中日にトレードされると、交換相手の西村英嗣がそのまま「投手の10番」になりました。西村はそのオフ限りで背番号を変更したものの、二年後に新人投手の作山和英に与えられ、流れが甦ったかに見えました。しかしドラフト2位入団の作山はまさかの2年で戦力外(といっても、現在はフロントでスカウト部門の要職として活躍中です)。野手の本間満が長く着用するなどで流れが途絶えたかに見えました。ところがソフトバンクになって久しい2018年、唐突に育成上がりの左腕、大竹耕太郎に背番号10が与えられました。しかし、スピード全盛のパリーグでも特にスピード勝負のホークス投手陣の中では、貴重な左腕とはいえ制球と緩急勝負の大竹は重用されることなく現役ドラフトで阪神に移籍しました。その後の活躍は皆さんもご存じの通りです。そして大竹移籍後も背番号10は安住の地とならず、2025年からその移籍が大いに物議をかもした上沢直之の背中にあります。移籍の是非はさておき(個人的には「ルールが悪いので改正しろ」派)、「封印されている背番号15解禁のチャンス」だったのに残念という思いがあります。

まとめ

一年半ぶりのご無沙汰です。
前回よりだいぶ期間が空いてしまい、年度も変わってしまいました。
更新が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
理由としては、思うように時間が取れなかったこともありますが、「当初の構想がまったく見当違いでうまく書けなかった」というのが大きいですね。
一応、テキストの再利用はしているので全部無駄になったわけではないですが、「こんなはずじゃなかった」という思いはあります。

紙幅の都合ならぬ「流れの都合」で駆け足でも触れられなかった選手については、本当に申し訳なく思っております。特に藤井康雄、谷佳知(ともにオリックス)、古川慎一(ロッテ)、荒井幸雄(ヤクルト)、本間満(ダイエー、ソフトバンク)あたりについては、かなり心残りです。

これで一応当初の目的であった「10番」までは何とか終わりましたが、やはり続きを書きたいので、またお付き合いいただければ幸甚です。
ここからはしばらく「投手無双」になると思うので、一桁よりは楽だと思うんですけどね……。
それではまた次回。

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