「学校に行かない」という選択だけではない―共育塾が考える、第三の学び方


前回の記事で、

「共育塾をフリースクールにする?」

という問いを書きました。

まだ、答えは出ていません。

そもそも「フリースクール」という名前をつけることが、本当に大切なのかも分かりません。

ただ、考えていく中で、少しずつ見えてきたことがあります。

それは、

「学校に行くか、行かないか」という二択そのものをなくしてみてはどうだろう。

ということです。


学校に行くか、行かないか

今の社会では、子どもの学びを考えるとき、

「学校に行っている」

「学校に行っていない」

という二つの状態で語られることが多いように思います。

学校に行っていれば「普通」。

行っていなければ「不登校」。

そして、

「どうしたら学校に戻れるだろう」

「学校に行けるようにするにはどうしたらいいだろう」

ということが、支援の大きなテーマになります。

もちろん、学校に行きたいのに行けない子どもにとって、学校へ戻るための支援は大切です。

学校に戻ることで、その子が生き生きと過ごせるようになることもあるでしょう。

でも、ふと考えます。

本当に、選択肢は「学校に行く」か「学校に行かない」かだけなのでしょうか。


「学校に行っている子」も「行っていない子」も

私が考えている共育塾の姿は、

「学校に行けない子どものための場所」

だけではありません。

学校に毎日通っている子も、

学校に行ったり行かなかったりする子も、

学校とは違う場所で学んでいる子も、

それぞれが、

「自分には、どんな学び方が合っているのだろう?」

と考えられる場所です。

例えば、

学校には毎日通う。

でも、学校とは別の時間に共育塾で、自分の興味のあることを深く学ぶ。

あるいは、

学校に毎日通うことが今の自分には合わない。

だから、学校と共育塾と家庭、それぞれを組み合わせながら学ぶ。

あるいは、

しばらく学校から離れて、自分のペースで学んでみる。

そんな選択肢があってもいいのではないでしょうか。

つまり、

「学校か、共育塾か」ではない。

「学校に行くか、行かないか」でもない。

もっと柔らかく、

「自分は、どう学びたいのか」

から考えてみる。

私は、そこに「第三の学び方」の可能性があるのではないかと思っています。


学校を否定したいわけではありません

ここは、はっきり書いておきたいと思います。

私は、学校を否定したいわけではありません。

学校には、学校にしかできないことがあります。

同じ年代の子どもたちが集まり、集団の中で生活すること。

友達と関わること。

行事に参加すること。

自分とは違う考えを持つ人と出会うこと。

先生から体系的に学ぶこと。

社会の中で役割を経験すること。

こうしたことには、学校という場だからこそ生まれる価値があります。

だから、

「学校は古い」

「学校なんて必要ない」

という話をしたいわけではありません。

むしろ、

学校には学校の役割がある。

だからこそ、

一つの場所ですべての子どもの学びを担おうとしなくてもいいのではないか。

そう考えています。


「なぜ?」から始める

では、共育塾では何を大切にするのか。

その一つが、

「なぜ?」という問いです。

なぜ、そうなるのだろう。

なぜ、そう思ったのだろう。

本当にそうなのだろう。

自分はどう感じているのだろう。

授業で知識を覚えるだけではなく、

「なぜ?」

という小さな疑問を大切にする。

そして、その問いを自分で考えてみる。

誰かが用意した「正解」にたどり着くことだけが、学びではありません。

問いを持つこと。

考えること。

誰かと話すこと。

そして、

「自分はどう思うのか」

に気づいていくこと。

それも、大切な学びだと思っています。


「自分の本音」に気づく

そして、もう一つ大切にしたいことがあります。

それは、

自分の本音に気づくことです。

「本当はどうしたい?」

そう自分に問いかけてみる。

でも、これは簡単なことではありません。

私たちは、いつの間にか、

「こうするべき」

「みんながそうしているから」

「親に言われたから」

「先生がそう言ったから」

「これが普通だから」

というものに囲まれて生きています。

その中で、

「自分は本当はどうしたいのか」

を感じ取るのは、意外と難しいものです。

だから、共育塾では、

「本音に気づく練習」

も学びの一つになるのではないかと思っています。


自分で決めてみる

本音に気づいたら、

今度は、それに従ってみる。

もちろん、いつも上手くいくとは限りません。

「やってみたけれど、思っていたのと違った」

ということもあるでしょう。

「失敗した」

と思うこともあるでしょう。

でも、それでいい。

大切なのは、

自分で考えて、自分で決めて、やってみること。

そして、

うまくいっても、いかなくても、自分で決めたことを振り返ること。

なぜ上手くいったのだろう。

なぜ上手くいかなかったのだろう。

次はどうしてみよう。

そうやって、次につなげていく。

私は、

「自由」と「責任」はセットなのだと思っています。

自由に選べる。

でも、選んだことは自分の学びになる。

失敗してもいい。

途中で考えが変わってもいい。

やってみて、

「やっぱり違った」

と思ったら、そこからまた考えればいい。

それも含めて学びなのではないでしょうか。


「自由」は「放任」ではない

だから、

「自由に学べる場所」

という言葉を、

「何をしてもいい場所」

という意味では考えていません。

大人がすべてを決めるのでもない。

反対に、子どもにすべてを丸投げするのでもない。

大人は、

「選べる環境」をつくる。

子どもは、

「自分で選んでみる」。

そして、その選択を振り返る。

必要なら、大人も一緒に考える。

その繰り返しの中で、

「自分で考える力」

「自分で決める力」

「自分の決めたことを引き受ける力」

を育てていく。

そんな学びの場を、私はつくってみたいと思っています。


第三の学び方とは何なのか

そう考えると、

「第三の学び方」は、

学校の代わりになるものではないのかもしれません。

学校と対立するものでもありません。

学校に行っている子も、

学校に行っていない子も、

学校に行くことに迷っている子も、

みんなが、

「自分に合った学び方」を考えられる。

そんな場所です。

学校に行くことも、一つの選択。

学校以外で学ぶことも、一つの選択。

学校と別の場所を組み合わせることも、一つの選択。

大切なのは、

「どれが正しいか」

ではなく、

「自分にとって、今はどれが合っているのか」

を考えられることなのではないでしょうか。


まだ、答えはありません

ここまで書いてきましたが、

「では、共育塾を具体的にどうするのか?」

については、まだ答えがありません。

どんな子どもが利用するのか。

一日の過ごし方はどうするのか。

学校との関係をどうするのか。

保護者とはどう関わるのか。

学習をどう保障するのか。

受験との関係はどうするのか。

費用はどうするのか。

安全面はどうするのか。

考えなければならないことは、たくさんあります。

だから私は、

「共育塾をフリースクールにします」

と宣言するところから始めるつもりはありません。

まずは、

考えてみる。

そして、

小さく試してみる。

やってみて、

うまくいかなければ変えてみる。

その過程そのものを、発信していきたいと思っています。


「学校に行く」ことから、「どう学ぶか」へ

もしかすると、

私が考えていることは、

「フリースクールをつくる」

ということよりも、

もっと根本的な問いなのかもしれません。

子どもは、なぜ学校に行かなければならないのだろう?

ではなく、

子どもは、どう学びたいのだろう?

という問いです。

学校に行くことを前提にして、

「どうすれば学校に行けるようになるか」

を考えるのではなく、

その子自身に、

「あなたは、どうしたい?」

と尋ねてみる。

その答えを一緒に探してみる。

そして、

その子が選んだ道を、

大人も一緒に考えながら支えていく。

そんな学びの場があってもいいのではないでしょうか。


共育塾の「これから」

私は、共育塾を完成された教育の場だとは思っていません。

むしろ、

これから一緒につくっていく場所

だと思っています。

だから、

「共育塾をフリースクールにする?」

という問いも、

まだ問いのままです。

ただ、その問いを考えているうちに、

一つの方向は少しずつ見えてきました。

それは、

子どもたちから「学校に行く/行かない」という二択を取り上げるのではなく、もっと多様な学び方を選べるようにすること。

そして、

自分の「なぜ?」を大切にし、自分の本音に気づき、自分で選び、やってみて、振り返り、また次を選ぶこと。

そんな学びを、

子どもたちと一緒につくってみたい。

それが、今の私の考えている「共育塾」です。

まだ、始まったばかりです。

だからこそ、

これから何が見えてくるのか。

私自身も楽しみにしています。