「覚える」って、記録することなのだろうか
今日、小学生の授業をしていて、ふと思った。
「覚える」というのは、脳の中に情報を記録することなのだろうか。
もちろん、普通に考えればそうなのだろう。
新しいことを知る。
それを記憶する。
必要なときに思い出す。
これが「覚える」ということだと思ってきた。
でも、ふと違うイメージが浮かんだ。
覚えるということは、どこかにあるソースとつながることなのではないか。
そんな妄想である。
私は、何かを覚えたとき、その一つだけが頭の中に残るというより、その周辺にあることまで一緒に見えてくるような感覚を持つことがある。
一つのことが分かる。
すると、
「あれは、こういうことだったのか」
「だったら、これも同じように考えられるんじゃないか」
と、別のことが浮かんでくる。
一本の線がつながると、そこから別の線が伸びていく。
そして、ときどき「ひらめく」。
何もないところから突然答えが生まれたというより、
どこかにあったものと、自分の中の何かがつながった。
そんな感じがする。
だから、「覚える」という行為も、
「脳の中にデータをしまう」
というより、
「取り出せるようにする」
ということなのではないか。
覚えることは、ソースから取り出す練習なのではないか。
そんなことを考えた。
もちろん、これは今のところ私の妄想である。
科学的に「どこかにソースがある」と確認されたわけではない。
脳の中には、これまでの経験や知識が蓄積され、それらが複雑につながっているのだろう。
一つの知識を手がかりに、別の知識を思い出したり、組み合わせたりする。
それによって、ひらめきが生まれる。
まずは、それで十分説明できるのかもしれない。
それでも、私の中にはもう一つの直感がある。
人間は、自分一人で突然ここに現れたわけではない。
自分には親がいる。
その親にも親がいる。
そのまた親にも親がいる。
途方もない数の先祖がいて、その生命の連鎖の先端に、今の自分がいる。
そして、そのさらに前には、何億年、何十億年という生命の歴史がある。
私の身体をつくっている遺伝子も、その長い生命の歴史の中で受け継がれてきたものだ。
では、その中には何があるのだろう。
もちろん、祖先一人ひとりの具体的な「記憶」が、そのまま遺伝子に保存されているという意味ではない。
そこまでのことは、私は知らない。
ただ、
「自分の中には、自分一人だけでは説明できない何かがあるのではないか」
という直感がある。
何十億という生命の連鎖の先に、今の自分がいる。
そう考えると、自分の中にある「ひらめき」や「直感」も、少し違って見えてくる。
もしかすると、
学ぶということは、知識を頭の中に詰め込むことではなく、
自分と世界との間に、つながりを増やしていくこと
なのかもしれない。
一つ覚える。
すると、その周辺が見えてくる。
さらに一つ覚える。
また別のところとつながる。
そして、ある瞬間に、
「あっ」
となる。
それが「ひらめき」なのかもしれない。
今日の授業中に、そんなことをふと思った。
まだ答えはない。
だから、今日は答えを出さない。
ただ、この感覚を忘れないように、ここに残しておく。
「覚える」とは、記録することなのか。
それとも、どこかにあるものとつながることなのか。
今の私は、後者のような気がしている。
