朝焼けの街に若さは燃える
第2話:冷えた味噌汁と、壊さぬための嘘
ガラス張りのカフェ。
エアコンが静かに効いている。
テーブルの上には、水滴のついたアイスコーヒーのグラスが二つ。
歩(あゆむ)と美咲(みさき)は、向かい合って座っていた。
「ねえ、これ見て。超ウケるんだけど」
美咲がスマートフォンの画面を歩に向ける。
画面の中では、かわいい猫が奇妙なステップを踏んでいた。
歩はふっと笑い、自分のスマホの画面から目を上げた。
「本当だ。てか、この猫、タイパ良すぎでしょ」
当たり障りのない笑い声が、二人の間に流れる。
心地よくて、何の摩擦もない、いつもの空気だった。
「あ、そういえばさ」
美咲がストローを指先でいじりながら、ふと呟いた。
「昨日の合同説明会、どうだった?」
その瞬間、テーブルの上の空気が、ほんの少しだけ冷たくなったような気がした。
歩はアイスコーヒーのグラスを手に取った。
冷たいガラスの表面を、指先が滑る。水滴だけが指に付着した。
「んー、まあ普通かな。安定してそうなインフラ系を何社か見たけど、なんかピンとこなくてさ」
「そっか。まあ、お互い焦らずボチボチいけばいいよね」
美咲はいつもの柔らかい笑みを浮かべ、スマートフォンの画面をスワイプした。
「そうそう。まだ時間はあるしね」
そこから先には、お互いに踏み込まない。
それ以上深く話せば、未来の不安や、生活の厳しさといった「重い現実」に触れてしまうから。
美咲を傷つけたくない。自分もダサい姿を見せたくない。
だから、お互いにスマートで、めんどくさくない恋人を演じ合っている。
ストローをいじる美咲の指先は、白くて、とても綺麗だった。
指先一つ触れ合わない、ノーリスクで安全な距離感。
けれど歩の胸の奥には、冷めた味噌汁のように、じんわりと冷たい寂しさが溜まっていった。
(俺たち、本当に繋がっているのかな)
画面の向こうの眩しい世界を見つめる美咲の横顔は、とても遠くに見えた。
1952年の冬の夜。
アパートの六畳一間は、凍りつくような静けさに包まれていた。
薄い木造の壁越しに、風がヒューヒューと音を立てて吹き込んでくる。
部屋の真ん中には、小さなちゃぶ台がひとつ。
由美は、寒さで白くなった息を吐きながら、内職の足踏みミシンをカタカタと踏み鳴らしていた。
その指先は、冬の冷たい井戸水での洗濯によって、赤く腫れ上がり、痛々しいあかぎれができていた。
由美は、その傷だらけの手をエプロンの下に隠し、帰宅したばかりの誠一に冷めた味噌汁を差し出した。
「遅くなってごめんね、誠一さん。今、お鍋温め直すね」
「いや、いいよ。ガス代ももったいないし、そのままでいい」
誠一は冷たいお椀を手に取り、箸を動かした。
お椀の中の味噌汁には、冷えた油が薄い膜を張っていた。
それは、過酷な軍需工場での労働と、不条理な戦争特需で得た、後ろめたい生活の象徴のようだった。
誠一は無言で汁を啜り、由美も黙ってミシンを見つめた。
二人の間には、重苦しい、冷たい沈黙だけが横たわっていた。
「誠一さん、仕事……つらい?」
由美がぽつりと、掠れた声で尋ねた。
「別に。普通だよ」
誠一は由美の顔を見ずに答えた。
本当は、昼夜を問わず飛び散る火花と、誰かを傷つけるための鉄を叩き続ける日々に、心が削り取られていた。
「もし自分がケガをしたら、この生活は一瞬で崩壊する」という生存の恐怖を、毎日骨の髄まで感じていた。
けれど、その弱音を吐けば、ただでさえ内職でボロボロになっている由美を押し潰してしまう。
だから、誠一は嘘をついた。「普通だ」と。
由美もまた、自分の手のあかぎれの痛みを、誠一に言えずに笑っていた。
相手を傷つけまいとする「優しさ」が、かえって二人の間に冷たい壁を作っていた。
お椀を持つ誠一の手は、煤で黒ずみ、鉄粉が皮膚の隙間に食い込んでいた。
由美の手は、冷水で感覚を失い、赤く強張っていた。
お互いに手を伸ばせば届く距離なのに、二人は触れ合うことすらできなかった。
(俺たちは、なんのために生きているんだろう)
冷めきった味噌汁を見つめる誠一の目の前で、由美が踏むミシンの金属音だけが、不気味に響き続けていた。
📖第3話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n8eb96238344c
📖第1話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nd5c0eb73c627
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/nf135d46991d0
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