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Thaw ― ロンドンの霧にほどけて

第三話:ピカデリーの休息

一九三〇年二月。終わりの見えない会議の応酬に、奇跡のような空白が訪れた。それは日曜日、ロンドンを覆っていた重い雲が珍しく晴れ渡り、柔らかな冬の陽光が石畳を照らした午後のことだった。

和也は軍服を脱ぎ、私服の仕立ての良いコートに着替えてピカデリー周辺からボンド・ストリートを歩いていた。連日の激論と、本国からの電報の嵐に磨り減った精神を、ほんの少しでも休ませるための散策だった。

高級店や劇場が並ぶ通りは、休日を楽しむ大勢の市民で行き交っている。

「——あ、柊少佐?」

人混みの中で、聞き覚えのある澄んだ声が和也の足を止めた。

振り向くと、そこには私服のケープを羽織り、小さな手提げ袋を持った静子が立っていた。大使館でのきっちりとした服装とは違い、柔らかな色合いのウールの帽子をかぶっている。

「雪村君……いや、驚いたな。偶然だ」

「はい。まさかこんな場所でお会いするなんて」

そう言って笑う静子の顔には、深夜の随員室で見せていたような悲壮感は微塵もなかった。陽光を浴びて、年相応の瑞々しい笑顔が眩しいほどに輝いている。和也は一瞬、言葉を失うほどに胸が高鳴るのを覚えた。

「……大使館の外で会う君は、まるで別人のようだ。その……とても、綺麗だ」

「少佐こそ」

静子はふっと頬を染め、恥ずかしそうに目を伏せた。

「軍服を脱いだお姿は、普通の……いえ、とても優しい青年に見えますわ。ここでは、対米七割の数字も、電報もありませんから」

二人は自然と並んで歩き出した。露店から漂う、冬のロンドンの風物詩である「ロースト・チェスナッツ(焼き栗)」の香ばしい匂いに誘われ、ひとつの袋から温かい栗を分け合って食べた。指先が触れ合うたび、甘い緊張が走る。

通り沿いの格式高いアンティークショップに立ち寄ったとき、ショーケースの中に並んだ、古い銀色の万年筆が和也の目に留まった。英国の名筆「オノト(Onoto)」の、精緻な銀細工(シルバー・オーバーレイ)が施された贅沢な彫刻モデルだった。かつて日本の文豪たちも憧れたというその名筆の輝きに、和也は魅了される。

「この街の人々の笑顔を見ていると」

和也は万年筆を見つめたまま、静かに言った。

「私の守るべきものが何なのか、はっきりと分かる気がするんだ。会議室で争っている数字でも、軍の面子でもない。こういう、ありふれた日常だ。日本にいる私の家族や、君のような人々が、穏やかに暮らせる日々を守るために、私は戦うべきなんだ」

それは、重圧に押し潰されそうになっていた和也が、ようやく見つけた自分自身の答えだった。

静子は和也の横顔をじっと見つめていた。彼女は小さく一歩、和也の方へ踏み込んだ。

「和也さん……」

初めて、階級ではなく名前で呼ばれた。和也が驚いて静子を見ると、彼女は真っ直ぐに彼の目を捉えていた。

「その日常を、一緒に守りたいです。あなたが東京の荒波に立ち向かうときも、私はずっと、お隣にいますわ」

和也の胸の奥の最後の壁が崩れ去った。二人の距離は、「同じ任務を背負う戦友」から、「かけがえのない一人の男女」へと決定的に変わった。和也はある強い決意を胸に、そのオノトの万年筆を買い求めた。この会議を、そしてこの恋を、決して諦めずに最後まで書き抜くという誓いを込めて。


📖第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n2c5a43094f8f
📖第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n03f3674fc2e4
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/ncd5ff420eaa5

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