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静かなる一歩

【第5話:砂利を踏みしめる音、嘘のない空へ】

富士山五合目の朝は、肌を刺すような冷気と、驚くほど透明な静寂に包まれていた。

登山口に立つ立己の背中には、あの重く、無骨な昭和の登山用ザック――キスリングザック――が載っていた。かつて祖母・千代の自立の誇りと敗北の傷跡であり、母・綾が愛憎の果てに見守り続けた、100年の歴史の塊。

肩に食い込む幅広のキャンバス地のストラップ。それは、ゲームの「心地いい空間」には決して存在しなかった、ずっしりとした泥まみれの「生身の重み」そのものだった。立己はその重さに、確かな命の「手ざわり」を感じていた。

「本当に行くのね、立己」

隣に立つ母・綾の声は、かつてドア越しに響いた冷たい否定の響きを、もう完全に失っていた。そこにあるのは、息子の決意を見つめる、静かで、震えるほどの深い慈しみだった。

「うん。お母さんとおばあちゃんが、ずっとここに置いていかざるを得なかったもの。それを、僕がこの足で頂上まで運んでいく。呪いなんて、もうここにはないよ。これは、僕たちが生き抜いてきた証なんだから」

立己は微笑み、ザックの錆びついた冷たい鉄のバックルを、温かい手で強く締め直した。

「ほら……お母さんの、言うとおりになったでしょ」

綾はかすかに笑い、その目から一筋の涙をこぼした。けれど、その言葉はもう、立己を縛り付けるためのものではなかった。自分の歪んだ怯えを認め、呪縛から自らを解き放ち、息子の旅立ちを祝福するための、本当の優しさに満ちた「お母さんの言うとおり」だった。

「行ってらっしゃい、立己。あなた自身の足で、しっかりと進んでおいで」

「行ってきます、母さん」

立己は深く頷き、ゲートを越えて、最初の力強い一歩を踏み出した。

ザリッ、と、彼の厚いソールが火山灰の砂利を踏みしめる音が、静かな山肌に響いた。

それは、おばあちゃん(千代)がかつて夢見た、あるいは足元をすくわれた、現実世界が突きつけてくる確かな「抵抗」の音だった。しかし、今の立己の足は、そのざらついた抵抗を不快に思うどころか、たまらなく愛おしく感じていた。

登るにつれて、傾斜は険しさを増し、冷たい風が立己の頬を叩いた。肺に入る空気は薄く、冷たく、一呼吸ごとに胸が痛む。

テレビゲームの世界では、指先を滑らせるだけで、何の摩擦も苦痛もなくキャラクターが走り続けてくれた。しかし、この本物の山では、自らの意志で筋肉を動かし、肺を震わせなければ、一センチも前に進むことはできない。

だが、その息苦しさこそが、彼が長い間求めていた「生きている喜び」だった。失敗の痛み、擦り切れた翼の傷跡、それらすべてが、彼が今ここに生身の人間として立っている証拠として、全身の血を熱く巡らせていた。

何時間も砂利を踏みしめ、岩肌を這い登り、ついに立己は八合目の岩場へと到達した。

1956年の夏、20歳の千代が「私に登れない山などない」と自惚れ、一瞬の「油断」によって滑落した、あの因縁の場所。

立己は足を止め、ゴツゴツとした岩壁に片手を当てた。そこは、千代の歩みを止め、母・綾の夢を奪い去った、この家族の「呪いの分岐点」だった。

しかし、立己の胸の奥にある、あの冷え切っていたストーブは、もう凍えてなどいなかった。母との対話によって、赤々と灯された不屈の「炭」が、彼の全身に絶え間ない熱を送り続けていた。

「おばあちゃん、お母さん。僕はもう、一歩を踏み出すことを恐れないよ」

立己は深く息を吸い込み、千代の足を砕いたあの不条理な斜面に、自分の健康な右足をしっかりと踏み下ろした。岩肌が彼のソールの下で軋み、確かな摩擦(抵抗)が彼の足をその場に踏み留まらせた。

滑落はしない。油断ではなく、一歩一歩に全身の神経を集中させ、大地のざらつきを愛するように、彼は自分の足でしっかりと現実を掴み、立ち上がって、一歩を踏み出し続けた。

呪いの分岐点は、彼の足の下で、静かに乗り越えられていった。

そして。

夜明けの光が、雲海の彼方から溢れ出した。

立己が最後の岩場を登りきり、頂上の平坦な地面に両足を下ろした瞬間、世界は圧倒的な光によって満たされた。

背中のキスリングザックが、黄金色の光を浴びて、神々しく輝いている。かつて自責と敗北の記念碑として暗闇に封印されていたそのザックは、今、100年の愛と不屈の歴史を完遂した「祝福の器」へと完全に昇華されていた。

立己はゆっくりと空を見上げた。

そこには、雲の破片すらなく、どこまでも深く、澄み渡った、青い天球が広がっていた。

スマートフォンのなめらかな画面が映し出していた、AIの「失敗のない就職プラン」という、便利なノイズ。ゲームの中の、無風で平坦な、傷つくことのない「心地いい空間」。

それらはすべて消え去り、今、彼の頭上には、彼自身の足で、泥まみれの「生身の重み」を背負って登り切った者だけが仰ぎ見ることのできる、圧倒的な、嘘偽りのない「真実の空」が広がっていた。

立己(たつみ)――己を立たせる。

100年の手ざわりを背に引き受け、嘘のない空の下に一人、凛として立ち上がった青年の頬を、冷たく、しかしこの上なく心地いい本物の風が、優しく吹き抜けていった。


📖第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n0b746391da3a
📖第1話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n0baa8d47422c
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/na7e8035b76b3

最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗

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