静かなる一歩
【第4話:冷たい鉄のストーブ、呪いを燃やす炭】
立己は、部屋の隅に置かれた古びたキャンバス地を見つめていた。
ずっしりと重いキスリングザック。それは祖母・千代が一瞬の「油断」で夢を絶たれた悔恨の碑であり、母・綾が母を愛するがゆえに捨てられず、同時にその支配に苦しみ続けた「呪いの器」だった。
「これからは、僕が背負う」
立己は静かに呟くと、ベッドから這い出し、その重いザックに両腕を通した。
キャンバス地が彼の肩に深度深く食い込み、ずっしりとした重力が全身を支配する。痛かった。だがその痛みこそが、ゲームの「心地いい空間」には決してなかった、彼がずっと求めていた泥まみれの「生身の重み」だった。
カチャリ、と静かにドアを開け、立己は暗い部屋の境界線を越えた。
リビングの片隅には、何年も使われていない、冷たい鉄のストーブが置かれていた。その傍らで、母・綾が小さく膝を抱えてうずくまっている。
その背中に向けて、立己はザックを踏みしめる重い足音を響かせた。
綾がゆっくりと振り返り、息を呑んだ。彼女の瞳が、立己の肩にある「それ」を捉えた瞬間、言葉にならない戦慄と哀しみがその顔に走った。
「立己……。どうして、それを背負っているの……? 早く下ろしなさい。あなたには重すぎる。また、ケガをしてしまうわ」
「下ろさないよ、母さん」
立己は母の前に歩み寄り、その場に静かに跪いた。ザックの重みが、ずっしりと床を通じて足裏に伝わってくる。
「母さんは、おばあちゃんが大好きだったんだね。大好きだから、このザックを捨てられなかった。おばあちゃんの生きた証を、ゴミにするなんてできなかったんだ」
綾の肩が、びくりと震えた。
「僕は、母さんが大好きだった。だから、何かに挑戦するたびに母さんから『諦めなさい』って否定されるのが、ただ、悲しかった。でも、母さんは僕を憎んでいたわけじゃない。僕を愛するがゆえに、おばあちゃんのあの事故の恐怖に、頭の中で狂いそうになりながら怯えていただけだったんだね」
「立己……」
「お母さん、僕に『立己』って名前をつけてくれて、ありがとう。自分を立たせる。それは、おばあちゃんが10歳の焦土で誓った『立ち上がって、一歩踏み出す』っていう、本当の誓いと同じ願いなんだよね」
綾の目から、せき止めていた涙が溢れ出し、彼女は顔を覆った。
「そうよ……。あなたには、私のように心を殺して無難に生きてほしくなかった。でも、あなたが傷つくのを見るのが、私は恐ろしかったの。あなたが失敗するたびに、私のなかに植え付けられた『挑戦すれば、取り返しのつかない大ケガをする』というお母さんの恐怖が、私の頭の中で狂ったようにフラッシュバックしたのよ! だから……『ほら、お母さんの言うとおりになったでしょ!』って……お母さんが私にしたことと、まったく同じ呪いをあなたにかけていたのね……」
「もういいんだ、母さん」
立己は、そっと母の震える手を、自分の生身の手ざわりで包み込んだ。
「このザックは、二人の挫折の重みじゃない。僕たちが、お互いを深く愛し合ってきた『愛の質量』なんだ。だから、逃げたり捨てたりしない。僕がこの足で、これを背負って、おばあちゃんが諦めてしまったあの八合目の岩場まで登る。そして、僕たちの呪いを、祝福に変えてみせる」
綾は立己の顔を見上げた。そこには、かつて部屋に引きこもり、ゲームの光に逃げていた、頼りない少年の面影はなかった。
自分の足で、しっかりと現実の上に立とうとしている、一人の強い男の瞳があった。
「立己……。本当に、行くのね」
「うん。お母さんの流せなかった涙も、全部僕が背負っていくよ」
立己の力強い言葉が、冷え切っていたリビングの空気を優しく溶かしていく。
二人の傍らで、何年も凍りついていた鉄のストーブの奥に、かつてないほど赤々と、静かに熱い炭(sumi)が灯された。それは、呪いを燃やし尽くし、二人を未来へと温める、不屈の熱源(立己:たつみ)の誕生だった。
📖第5話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n4b1246ff5022
📖第3話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n7b52f99406af
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n9db10b93760c
最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗
