消えない嘘と、20ワットの裸電球
第1話:橙色の遺言
静岡の夜は、どこか重い。
大学生の和也が、数日間の帰省のために祖母・シズの古い平屋を訪れたのは、八月の中旬のことだった。
築七十余年という木造の家は、畳も柱もすっかり日焼けして、独特の古い匂いを漂わせている。
その古い家の、十畳ほどの居間の天井から、それはぽつんとぶら下がっていた。
二十ワットの、裸電球。
昼も、夜も、シズが庭の手入れをしているときも、寝床に入っているときも、その小さな橙色の電球だけは、一度も消されることなく灯り続けていた。
今の時代には不釣り合いなほど弱々しく、しかし、妙に無視できない存在感を放つ光。
「ばあちゃん」
夜、畳の上に寝転びながら、和也はスマートフォンに目を落としたまま声をかけた。
画面の冷たいブルーライトが、和也の顔を青白く照らし出している。
SNSのタイムラインは、今日も誰かの過去の不始末や、真偽不明の疑惑を糾弾する無数の言葉で溢れ返っていた。
匿名の悪意が、形のない「空気」となって、一人の人間をあっという間に奈落へ引きずり下ろしていく。
「なんでその電気、ずっと消さないの? もったいないし、二十ワットじゃ暗くて何も見えないでしょ。昼間なんて、点けてる意味すら分からないよ」
シズは座布団の上で静かに背を丸め、使い古された湯呑みを両手で包み込んでいた。
天井からの橙色の光が、シズの深く、幾重にも刻まれた顔のシワに深い影を作っている。
「消えないんだよ、和也」
シズの声は、おだやかだが、どこか遠い場所から響いているようだった。
「これはね、私が『ここにいて、ちゃんと見ている』っていう、ただ一つの証拠だからさ」
「見ている? 何を?」
和也はスマホを握ったまま、顔を上げた。
シズは天井の電球を、愛おしむように、しかし峻烈な光を宿した瞳で見つめた。
「『嘘』だよ」
シズは静かに語り始めた。彼女がまだ十代の少女だった、昭和二十五年の記憶を。
「あの頃ね、近くの町で一家が殺される痛ましい事件があったんだ。警察は焦って、証拠もないのに、ただ近くに住んでいるっていうだけで、十八歳の男の子を逮捕した」
「その子はね、テルちゃんと言って、本当に物静かで、手先が器用な優しい子だった。木工所の見習いをしていてね」
「でも警察は、早く犯人を捕まえて手柄を立てたかった。だから、テルちゃんが仕事で左手を怪我して包帯を巻いていたのを『被害者が暴れたときについた傷だ』って決めつけたの」
「それに、あの夜、映画館に行くのに遅れそうになって、テルちゃんが少し小走りで走ったのを近所の人に見られていてね。それを警察は『現場から逃げる不審者だ』って言ったんだ」
「何よりあの子、気が小さくて口下手だから。刑事たちに囲まれて怒鳴られたら、頭が真っ白になって、何も言えなくなっちゃった」
「最後には、酷い暴力と過酷な拷問に耐えかねて、ただその地獄から逃れたい一心で、震える手で『僕がやりました』という嘘の自白を書かされた」
「のちに『二俣事件』と呼ばれる、本当に恐ろしい冤罪事件だよ」
和也は言葉を失った。
十八歳。今の自分よりも若い少年が、国家権力という巨大な暴力にさらされていたのだ。
「そのときね、お前のひいじいちゃん……私の父親が、警察に言いに行ったんだ。『テルちゃんは事件の夜、映画館にいた。私の娘のシズと一緒にいたんだ。犯人なわけがない』ってね」
「シズの父親は、確かなアリバイを証明しようとしたんだ」
「でも、警察は自分たちの作った筋書きを守るために、ひいじいちゃんを怒鳴りつけ、力ずくで追い返そうとした」
「ひいじいちゃんはそれでも食い下がった。『無実の人間を罪人にする気か!』って、署内で大声を上げてね」
「そしたら複数の警察官たちがお父さんを取り囲んで、怒号を浴びせながら、玄関の外の硬いコンクリートの道路に力任せに放り出したんだよ」
「お父さんは警察のすさまじい威圧と、あまりの理不尽な仕打ちに対する激しい憤りで、その場で胸を押さえて倒れてしまって……。」
「そのまま、帰らぬ人となってしまったの。警察署の玄関のすぐ前でね」
シズの瞳が、橙色の光の中で激しく揺れた。
「え……? 警察署の前で、そのまま亡くなったの?」
「直接手を下されたわけじゃない。でも、警察のあの冷酷な目と暴力的な言葉が、お父さんの心臓を止めたんだよ」
「私たちは悔しくて、悲しくて、引き取ったお父さんの遺体の前で泣き崩れるしかなかった」
「けれどね、お父さんは警察署に行く前、私にこう言っていたんだ」
シズの脳裏に、かつての父親の頑固で、しかしどこまでも真っ直ぐな眼差しが蘇っていた。
『たとえ国や世間という大きな力が「黒」だと言っても、自分の目で見て「白」だと知っているなら、絶対に目をつぶってはいけない。頼りない光でもいい、俺たちが本当のことを見届けるんだ』
「お父さんは、その強い言葉を遺して逝ってしまった」
「その生き方、その燃えるような眼差しこそが、私が父から受け継いだ、たった一つの人生観なんだよ」
「どんなに激しい風が吹いても、自分の目だけは、本当のことをただ真っ直ぐに見つめ続ける」
「お父さんが死んだ夜、私は居間にこの二十ワットの電球を灯した。これが、お父さんの命であり、私の闘いの始まりだったんだ」
和也は、シズの言葉の一つ一つが、胃の奥にずしりと沈んでいくのを感じた。
自分の持っているスマートフォンの画面を見る。
青白い光。
そこには、現代の、形を変えた「拷問」が繰り広げられていた。
誰かが投げ捨てた不確かな一言が、一瞬にして膨大な「空気」となり、顔の見えない群衆が寄ってたかって誰かを断罪する。
真実が何であるかなど誰も気にしていない。ただ、その暴力的な同調の光に背を向ければ、次は自分が標的になる。
だからみんな、スマホに照らされながら、怯えて口を閉ざす。
昭和二十五年の警察署を包んでいた空気と、今、自分の手を青く染めているブルーライトの向こうにある空気は、同じものではないか。
「ばあちゃん」
和也はスマホの電源を切り、それを畳の上に置いた。
青い光が消え、和也の顔には、二十ワットの温かい橙色の光だけが残った。
和也は立ち上がり、シズの隣に座ると、そのしわくちゃの手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「その電球……熱いね」
「そうだねえ。ずっと消さずに、点いているからね。熱を出しながらね」
「ばあちゃん。俺、もっと聴きたい。
ひいじいちゃんが命を懸けて守ろうとしたこと。そのテルちゃんって少年のこと。
……この電球がずっと照らし続けてきたもの、もっと教えてよ」
和也の瞳には、冷たいブルーライトではなく、目の前のばあちゃんと、二十ワットの電球の放つ熱い橙色の光が、真っ直ぐに映り込んでいた。
シズは和也の手の温もりを感じながら、ゆっくりと、愛おしそうに頷いた。
天井の二十ワットの電球は、熱いフィラメントを細かく震わせながら、二人の重なる影を、畳の上に静かに、しかし力強く伸ばし続けていた。
📖第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nf5d23309faed
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/ncaedf92b6566?app_launch=false
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