見出し画像

消えない嘘と、20ワットの裸電球

第2話:泥を払う少女

そして、秋の日の夕暮れ。

シズは道端で、逮捕された18歳の少年の母親が群衆に取り囲まれ、泥だらけにされながら石を投げられているのを目撃する。

少女だったシズがその背中を庇って飛び込んだ瞬間、激しい冷笑とともに、理不尽の泥水へと突き落とされる。

自分の無力さにただ声を上げて泣いた夜、居間で灯された20ワットの電球。その光がシズに語りかけたこと。

「世間は私の体を泥だらけにすることはできても、私の心まで泥で染めることはできない」

現代のネットの「空気」の中で、安全な暗闇から誰かの失脚を眺めていた和也の心を激しく揺さぶる、魂の不屈の物語。


「ばあちゃん。お父さんが亡くなった後……ひいじいちゃんがいなくなってから、どうしたの?」

現代、二〇二六年。

居間に灯る二十ワットの裸電球の下、和也は息を詰めてシズに尋ねた。

シズはしわだらけの手でゆっくりと膝をさすり、静かに目を閉じた。かつて自分が歩んできた、最も暗く、最も孤独だった昭和二十五年の日々へと、記憶をたどるように。

「お父さんが急死してね、我が家は一瞬にしてどん底に突き落とされたんだよ。大黒柱を失って、葬儀を出すのすらやっとだった。でもね、和也。何より辛かったのは、貧しさじゃなかった」

シズはゆっくりと目を開けた。その瞳には、少女だった頃に浴びた「冷たい世間の視線」が、ありありと映り込んでいるようだった。

「『あの家は、恐ろしい一家殺しをかばって、警察の邪魔をした非国民の家だ』。お父さんが亡くなった翌日から、近所の人たちは私たちをそう呼んで指をさした。警察が『あいつが犯人だ』

と決めた少年のアリバイを証明しようとしただけなのに、世間にとっては、警察に刃向かうこと自体が、恐ろしい裏切り行為に映ったんだね」

町全体が、シズの一家を無視し、排除し始めた。

井戸端にシズが近づくと、それまで親しげに話していた近所の主婦たちが一斉に口を閉ざし、蜘蛛の子を散らすように去っていく。

八百屋に行っても「あんたの家には売るものはない」と塩を撒かれ、平屋の木壁には、いつの間にか泥や生ゴミが投げつけられ、「人殺しの味方」「非国民」と汚い文字で落書きされた。

「毎日、学校や買い物の帰り道に、後ろから石を投げられたよ。

近所の子供たちだけじゃない、大人たちまでが、陰から冷たい、蔑むような目で私を睨みつけていた。

『お前のおやじは嘘つきだ。警察を騙そうとしたから、バチが当たって死んだんだ』って言われたこともあったね。悔しくて、悲しくて、お父さんの遺影の前で何度も畳に額を押し付けて泣いたよ」

「そんな……ひどすぎる。ひいじいちゃんは、ただ本当のことを言っただけなのに」

和也は、怒りで拳を握りしめた。現代のネットで繰り広げられる「リンチ」と、全く同じ構図が、かつての日本の静かな田舎町でも吹き荒れていたのだ。

「誰もが、警察という巨大な権力が作った『空気』に流されていた。真実がどうかなんて、誰も興味はなかったのさ。ただ、警察に従って、容疑者を叩き、それを庇う者を叩く。そうしていれば、自分たちは安全な『正義の側』にいられたからね」

シズはフッと寂しげに笑った。

「だけど、テルちゃんが逮捕されたのには、警察のでっち上げた酷い『誤解』と『こじつけ』があったんだよ」

「誤解? テルちゃんって、あの、十八歳の……」

「そう。本当に物静かでね、手先が器用な、優しい子だったんだ。地元の小さな木工所で、黙々と見習いとして働いていて、仕事道具のノミを大切そうに研ぐのが、あの子の日常のすべてだった。でもね、その職人気質が全部、警察に都合よく利用されてしまったのさ」

シズは、湯呑みを持つ手の指先を見つめた。

「テルちゃんはね、事件の数日前、木工所で作業中に刃が滑って、左手の甲を深く切る怪我をしていたんだよ。

包帯を巻いていた。

それを警察は、『被害者が暴れて抵抗したときに、掴み合ってできた傷(抵抗傷)だ』って決めつけた。さらに、見習いとして大切に手入れしていた私物のノミや道具を、『計画的に凶器を準備していた証拠だ』ってね」

和也は息を呑んだ。ただ仕事に励んでいただけの傷と道具が、一瞬にして殺人犯の証拠に仕立て上げられたのだ。

「それに、事件の夜、テルちゃんは上映時間に遅れそうになって、映画館へ急いで裏道を走っていた。それを近所の人が見ていたの。警察はね、現場付近から逃げ去る不審者の影を見たという曖昧な証言と、テルちゃんを無理やり結びつけたんだよ」

「でも、動機は? 動機(理由)がなければ、そんな事件、起こすわけがないじゃないか。おとなしいテルちゃんなら、なおさらだ」

「本当の犯人にはね、被害者の家との間に、ドロドロとした金銭トラブルや、どうしても奪いたい大金という『本物の動機』があったはずなんだ。でも、警察は早く事件を解決したかったから、テルちゃんに『偽の動機』を押し付けた」

シズは、天井の電球をじっと見据えた。

「『木工所の安い給料に不満があり、遊ぶ金欲しさに、裕福な被害者宅にノミを持って強盗に押し入った』。……そう紙に書かれた。

あの子は大きな声を出されるだけで怯えて、震えてしまうような子だったからね。何日も眠らされず、刑事たちに囲まれて怒鳴り散らされ、机を叩かれて……最後には、その地獄から逃れたい一心で、震える声で言わされたんだ。

『……はい、僕がお金欲しさに、計画してやりました』ってね。 あの子が必死に絞り出した『僕がやりました』という言葉はね、罪の告白なんかじゃない。

ただ家に帰りたい、この暗闇から逃がしてほしいという、十八歳の少年の悲鳴だったんだよ」

和也は、唇を強く噛みしめた。 自分のスマートフォンに目を向ける。そこにある「空気」もまた、誰かの日常のささやかな失敗や傷を、悪魔の証拠のようにこじつけ、都合のいい犯人像を仕立て上げて叩き続けている。

「……やりきれないよ、ばあちゃん。そんなの、あんまりだ」

「本当にそうだね。そして、事件から一ヶ月が経った秋の日の夕暮れだったよ。私はね、町外れの道端で、テルちゃんのお母さんが、町の人々に取り囲まれているのを目撃したんだ」

シズの言葉が、少しだけ熱を帯びた。

「『人殺しの親め!』『町から出ていけ!』って、容赦のない罵声を浴びせて、大人も子供も笑いながら、地面にへたり込むお母さんに小石や泥水を投げつけていた。

誰も止めない。

誰もが冷ややかに見ているか、あるいは一緒になって石を投げている。その光景を見た瞬間、私の体は勝手に動いていたんだよ。気がつけば、私はお母さんの上に覆いかぶさって、その細い背中を体全体で庇っていたのさ」

「ばあちゃんが……一人で?」

「そう。背中や肩に、硬い小石がボトボトとぶつかって痛かった。泥水が顔にかかって、視界が真っ茶色になったよ。

私は髪を振り乱して、周りの大人たちに叫んだんだ。

『やめてください! 私たちのお父さんは、事件の夜、テルちゃんが映画館にいたのを見たんです! お父さんは絶対に嘘をつかない! 警察が拷問して、嘘の自白をさせたんです! 本当の犯人は、他にいる!』

ってね」

「……みんな、分かってくれたの?」

「まさか」

シズは首を振った。

「一瞬静まり返ったけれど、すぐにそれを上回る冷笑と怒号が私を襲ったよ。

『うるさい、警察が犯人だって言ってるんだ!』

『非国民の娘が生意気言うな!』ってね。

男たちに腕を掴まれて、私は冷たい泥水の中に乱暴に突き飛ばされた。庇おうとしたお母さんも、怯えきった目で私をちらりと見たけれど、周囲の視線に耐えかねて、私の手を振り払うようにして、這うようにして逃げていってしまった。

助けようとしたお母さんにさえ拒絶されて、私は一人、冷たい泥の中に座り込んでいたんだよ」

大人たちは、泥だらけになった少女を見て、満足そうに笑いながら去っていった。

「誰も味方をしてくれなかった。自分の無力さが身に染みて、私は冷たい地面の上で、ただ声を上げて泣いたよ。……お父さん、私には、お父さんみたいな強さはないよ、って心の中で何度も謝りながらね」

和也は、シズの手を握る力を強めた。

「だけどね、和也。私は、負けなかったよ」

シズは顔を上げ、天井の二十ワットの電球を見上げた。

「泣くだけ泣いたあと、私は立ち上がって、服についた泥を自分の手で何度も払ったんだ。顔を拭いて、髪を整えて、真っ直ぐに前を向いて家に帰った。そして、居間の天井からぶら下がる、

お父さんが遺したこの二十ワットの電球に火を灯したんだ。

薄暗くて、頼りなくて、外の激しい嵐の音にかき消されそうな小さな光。 でもね、その橙色の光は、泥だらけで傷だらけの私を、本当に温かく包み込んでくれた。

『お前は間違っていない。よく目を開けて、そこに立っていたな』って、お父さんが頭を撫でてくれているような気がしたんだよ。

世間の空気は、私の体を泥だらけにすることはできても、私の心まで泥で染めることはできなかった。

私は、お父さんの娘だからね。どれだけ理不尽にいじめられ、笑われようとも、絶対に目をつぶらない。この電球を灯し続ける限り、私の魂はあの不条理に一度も負けていないんだって、そう確信できたのさ」

和也は、自分の胸の奥が熱く、痛く震えるのを感じていた。

自分の手を見る。 スマホの滑らかなガラスの板を滑らせるだけの、一度も汚れたことのない綺麗な指先。 その指先で、安全な暗闇の中から、他人の引きずり下ろされる姿を無感動に眺めていた自分。

「ばあちゃん……」

和也は、スマートフォンの画面が完全に消えていることを確かめた。

「俺、ばあちゃんたちのことを、もっと知りたい。この二十ワットの電球が、どんな嵐の中で、何を見つめ続けてきたのか……全部、聴かせてよ」

天井の二十ワットの裸電球は、じわりと熱を放ちながら、橙色の光で二人の顔を等しく照らしていた。


第3話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n9e8b601dd944
第1話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n67ef5774fb16
英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n451619753994

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。💗

いいなと思ったら応援しよう!