消えない嘘と、20ワットの裸電球
第5話:受け継がれるLED
「ばあちゃん。俺ね……ずっと、逃げることばかり考えていたんだ」
現代、二〇二六年。
和也は、畳の上に置いていたスマートフォンを、再びゆっくりと手に取った。
液晶画面が、冷たく、静かに青い光を放ち始める。 そこには、今この瞬間も、誰かの不始末や、真偽の分からない噂話に対して、無数の「正義の言葉」が投げつけられ、炎上し続けるネットの嵐が渦巻いていた。
「スマホの画面を消して、裏返して、見ないようにすれば、それで自分は綺麗なままでいられるって思っていた。 端から見れば安全かもしれない。でも、それは違うよね」
和也は、スマホをきゅっと強く握りしめた。
「それじゃあ、昭和二十五年のあの日、テルちゃんのお母さんが石を投げられているのを、ただ遠くから息を殺して見ていた大人たちと、何も変わらないじゃないか」
シズは座布団の上で、和也の横顔をじっと見つめていた。 天井の二十ワットの裸電球が、二人の横顔を橙色に染めている。
「ばあちゃん。今の時代の警察はね、おぞましい制服を着ていないんだ。 ネットの向こう側にいる、顔も見えない、名前も知らない、何万人、何百万人もの普通の人たちなんだよ。 そしてね、一番恐ろしいのは……彼らはみんな、自分が正しいことをしていると信じ込んでいることなんだ」
「……善意、なんだね」
シズが、かすれた声で呟いた。
「そうだよ。 『困っている人を助けよう』『悪い奴をみんなで懲らしめよう』って。
そういう、純粋でまっすぐな善意や正義感が、フェイクニュースや切り取られた嘘の情報に、簡単にハッキングされちゃっているんだ。
みんな、自分が誰かの人生を完膚なきまでに破壊する石を投げているなんて、一ミリも気づかないまま、嬉々としてスマホを叩いている。
昭和二十五年に、テルちゃんのお母さんに『非国民』って言って石を投げた人たちと、本当に、何一つ変わらないんだよ」
和也は、画面に映る冷たいブルーライトを見つめ、そして、ばあちゃんの深く透き通った瞳を見つめ返した。
「だから、俺はスマホを握りしめたまま、この嵐のただ中に立つ。 画面を消して、自分だけ傷つかない安全な場所に逃げたりはしないよ。
今のこのスマホの画面はね、昭和二十五年のあの、泥だらけの道端と同じなんだ、 俺は、スマホを持ったまま、この嵐のただ中に立って、嘘を睨み続ける」
「和也……」
「もちろん、怖いよ。 『お前は間違っている』『人殺しの味方だ』って、俺自身がネットの泥水を浴びて、傷だらけになるかもしれない。 だけど、ただ真っ直ぐに立ち向かうためにね、俺はまず、自分を疑うよ。 『悪い奴を叩きたい』って燃え上がる俺の中の『正義感』が、誰かの作った巧妙な嘘にハッキングされていないかって。
誰もが簡単に、他人の人生を奪う側の人間になれてしまう時代だからこそ。 自分の正しさを盲信する前に、まずは自分の心を、じっと睨みつけるんだ。 世間がどれだけ『あいつが悪い』と騒いでも、俺が自分の目で確かめて、納得していないことには、絶対に同調しない。 泥だらけになっても、ばあちゃんみたいに、自分の手で何度でも泥を払って立ち上がって、自分の言葉で『違う』って言ってみせるよ」
和也の言葉は、震えていた。 しかし、その声の奥には、お父さんやおじいちゃんが命を懸けて守り抜いてきた、あの不屈の「ともし火」が確かに宿っていた。
シズのしわだらけの目元から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。 シズはそっと手を伸ばし、和也が握りしめるスマートフォンの上に、自らの温かい手を重ねた。
「……強い子だね、和也。 お前は、本当にお父さんや、じいちゃんの孫だよ。 お前なら、この新しい、目に見えない暗闇のなかでも、ちゃんと立っていられるね」
シズは、愛おしそうに天井の電球を見上げた。
「私の役目は、これで終わりさ。 七十六年間、お父さんの遺志を、じいちゃんとの約束を守るために、一度も消さずに灯し続けてきた、この二十ワット。 ……これをね、和也。お前の光に、変えておくれ」
和也は、深く頷いた。
「うん。変えよう、ばあちゃん。 もっと明るくて、絶対に消えない不滅の光に」
和也はゆっくりと立ち上がり、畳の上の座布団を踏みしめ、天井からぶら下がる二十ワットの裸電球に手を伸ばした。
そっと指先を触れる。 驚くほどの、強い熱が、和也の指先に伝わってきた。
それは、お父さんが急死した雨の警察署の門であり、シズが泥の中に突き飛ばされた秋の夕暮れであり、おじいちゃんが会社で嘘をついて畳の上で泣きじゃくった夜の、あの生身の人間たちの、命の熱そのものだった。
じわりと指先に摩擦の痛みを覚えながら、和也はゆっくりと、時間をかけて電球を回し、取り外した。
部屋が、一瞬、暗闇に包まれる。 しかし、それは冷たい闇ではなかった。 すべてを包み込むような、優しく、静かな昭和の闇だった。
和也は、あらかじめ買っておいた、新しく白い小さなLED電球を取り出し、ソケットへと差し込んだ。 ゆっくりと右回りに回していく。
カチリ、と小さな音がして、スイッチを入れた瞬間。
十畳の居間に、目の覚めるような、圧倒的に真っ直ぐで、誤魔化しのきかない白い光が満ち溢れた。
それは、これまでの薄暗く頼りない二十ワットの橙色とは違う。 暗闇のなかの霧を冷徹に引き裂き、スマートフォンの冷たいブルーライトすらも、一瞬にして包み込んでかき消してしまうほどの、不滅の白い光。
シズは、その眩しい光の中で、まぶしそうに、しかし本当に嬉しそうに目を細めた。
「まあ……。明るいねえ、和也」
「うん。明るいね、ばあちゃん」
和也は、ソケットから手を下ろし、自らのスマートフォンの画面を真っ直ぐに見つめた。 LEDの力強く透き通る真っ白な光が、和也の瞳に、二つの小さな「消えない星」のように美しく反射していた。
「この灯りはね、ばあちゃん。 いつかばあちゃんの寿命が尽きても、俺たちの命が終わっても、この家で、絶対に消えることはないよ。 これからは俺が、この影を許さない真っ直ぐな光になって、現代の『偽りの正義』を、ずっと睨み返し続けるから」
シズは何も言わず、和也の服の袖を、細い指でそっと、しかし力強く握りしめた。
十畳の居間の畳の上に、LEDの真っ白な光が、二人の影を、ひとつの太く揺るぎない影として、明日へ向けてしっかりと映し出していた。
二十ワットの、消えない裸電球。 その温かい熱は、今、不滅の灯火となって、確かに新しい時代を照らし始めた。
第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n5b9e53395f98
第1話;https://note.com/juicy_laelia8513/n/n67ef5774fb16
英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n3251f4a29c39
最後までよんでいただき、ありがとうございます💗
