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木漏れ日の約束

【第3話】碧(あお)いガラスと、夏の秘密(夏の盛り〜初秋)

夏の太陽が、アイヌモシリの深く青い海をきらきらと照らし出す季節がやってきた。 木々の緑は濃く、風は潮の香りと、瑞々しい森の吐息を運んでくる。

コタン(集落)での生活にすっかり馴染んだ源次郎(ゲン)は、狩りや丸木舟の扱いを学び、今やコタンの男たちに混ざって汗を流すようになっていた。和人の武士としての鋭い眼光はそのままに、その表情にはかつて本州でまとっていた刺々しい警戒心や傲慢さは消え、穏やかな光が宿っている。

ある日の午後、ゲンとアシリパは、コタンの人々も滅多に近寄らない、切り立った崖の先にある誰もいない「秘密の海岸」にいた。 寄せては返す波の音が、心地よいリズムを刻んでいる。

「ゲン、これ、お前にやる」

砂浜に座り込んで海を見つめていたアシリパが、照れくさそうに、膝の上に置いてあった包みをゲンの前に差し出した。 丁寧に編まれたシナノキの繊維――アトゥシ(樹皮衣)だった。 よく見ると、襟元や袖口、そして背中には、黒と赤の糸で、禍々しい魔物を払うための鋭いトゲを持つアイヌ文様(アイウシ)が、緻密に美しく刺繍されている。

「お前は、いつも不器用で、危なっかしいからな。カムイ(神々)に守ってもらえるように、私が一針ずつ縫ったんだ」

ゲンは差し出された衣を受け取り、その頑丈な手触りと、彼女が長い時間をかけて縫い上げてくれた温もりを感じて、胸が熱くなった。

「俺に……? アシリパ、本当にありがとう。大切にする」

ゲンはすぐに、まとっていた薄汚れた和服を脱ぎ捨て、そのアトゥシを羽織った。 サイズは、まるで計ったようにゲンの逞しい体躯にぴったりだった。

「どうだ? 似合うか?」 ゲンが照れくさそうに笑うと、アシリパは少し顔を赤くして、弾むように微笑んだ。 「うん、よく似合っている。もう、どっちが和人だか分からないな」

「そうか。なら、俺からも、お前に渡したいものがあるんだ」

ゲンは、アトゥシの懐にそっと忍ばせていた、小さな葛布の袋を取り出した。 中から引き出されたのは、一本の紐に通された、一粒の美しい**「碧(あお)いガラス玉」**だった。

それは、本州の最北の交易港・十三湊(とさみなと)を介して、はるか大陸から和人の世界にもたらされた極上の交易品であり、ゲンが自らの出自を証明するものとして、肌身離さず持っていたものだった。 光に透かすと、まるで晴れ渡った北の海をそのまま閉じ込めたかのように、深く、どこまでも澄んだ碧色に輝く。

「これは……」 アシリパが息を呑んだ。

「お前の瞳に、とてもよく似ていると思ってな」 ゲンは優しく微笑み、その碧いガラスの首飾りをアシリパの細い首にかけてやった。 「俺には、お前のその深い瞳が、このアイヌモシリの美しい海や空の青そのものに見えるんだ。このガラスは、俺のいた世界でとても貴重なものだ。だが、これをお前に持っていてほしい。俺の心だと思って」

アシリパは胸元のガラス玉をそっと両手で包み込んだ。その瞳には、ガラスと同じ碧い海の煌めきが反射し、潤んでいる。 「……ゲン。大切にする。死ぬまで、離さない」

二人の間に、心地よい潮風が吹き抜ける。お互いの贈り物を身につけた二人の距離は、もう言葉の壁を完全に越えていた。

「腹が減ったな。ゲン、お前の持っている『シトギ』を食べよう」

アシリパがそう言って笑い、ゲンは持参していた荷物から、米粉を水で練って丸く固めた「白いお団子(シトギ)」を取り出した。和人の神事にも使われる、真っ白で味のない素朴な団子だ。

「これだけだと、少し味気ないが……」 ゲンが苦笑すると、アシリパは「ふふん」と得意げに胸を張った。 「これがあるから大丈夫だ。森で採ってきた『コクワ(サルナシ)』の実で作ったジャムだ。それに、とっておきのシカの脂(セッチェ)も持ってきてある」

アシリパは木箱から、熟したコクワを潰して作った甘酸っぱい、エメラルドグリーンのジャムを取り出した。そして、団子を少し火に炙って柔らかくしたところに、とろりとした濃厚なシカの脂を載せ、その上からコクワのジャムをたっぷりと添えた。

「さあ、食べてみてくれ。私たちの森の恵みと、お前のシトギの組み合わせだ」

ゲンは、一口、そのお団子を口に運んだ。

「――っ!」

目を見張るゲンの様子に、アシリパが楽しそうに覗き込んでくる。

モチモチとした米粉の素朴な甘みの中に、コクワジャムの目の覚めるようなキュンとした酸味と野生の甘みが広がる。それを、シカの脂のまろやかで重厚なコクが優しく包み込み、口の中で完璧な調和(ハーモニー)を奏でていた。 和人の技術で作られた純白の団子と、アイヌモシリの豊かな自然が育んだ森の果実と獣の恵み。 二つの異なる世界が、お互いを拒むことなく交わり、これ以上ない極上の美味しさを生み出している。


「美味い……本当に美味いな、アシリパ。口の中で、溶けていくようだ」 「ヒンナ(美味しい)だろう? 別々に食べても美味しいけれど、こうして合わせると、もっと美味しくなる。……私たちみたいだな」

アシリパが不意に呟いた言葉に、ゲンの胸がドクンと跳ねた。

アシリパは、胸元の碧いガラス玉を握りしめ、ゲンのアトゥシ姿をじっと見つめている。 「和人のお前と、アイヌの私。お互いの良いところを持ち寄れば、こんなに優しくて、温かいものが作れる。誰も、争う必要なんてないのに」

その声には、近づきつつある不穏な時代の足音をどこかで予感しているような、切なさが混じっていた。

ゲンは、団子を置き、アシリパの小さな肩をそっと抱き寄せた。 アシリパは拒むことなく、ゲンの胸にそっと頭を預ける。アトゥシの繊維越しに、ゲンの力強く、温かい鼓動が彼女に伝わっていく。

「アシリパ」 ゲンは、彼女の柔らかな髪に顔を埋め、囁いた。 「俺はもう、本州の戦や、身分のしがらみには戻らない。俺が守りたいのは、家名でも誇りでもない。お前だ。お前と、お前が愛するこの美しい大地だ」

「ゲン……」

アシリパが顔を上げると、二人の視線が至近距離で交わった。 深く青い瞳に、ゲンの真剣な眼差しが映る。 どちらからともなく、二人は唇を重ねた。

寄せては返す波の音だけが、砂浜に響いている。 夏の終わりの、どこか寂しくも甘い潮風の中で、二人は初めて強く、壊れそうなほど優しく抱き合い、お互いの存在を深く心に刻み込んだ。

武士としての命をすべて投げ打ってでも、この少女を、この世界を護り抜く。 激動の嵐が近づいていることを知りながらも、ゲンはそう、己の魂に誓ったのだった。


📖第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n969cf68d9f8d
📖第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n7fd0625991f2
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n0e0e9c0ab466

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