《官能小説》『餡を炊く四時間』第2話|二階に上げた朝、汗も拭かずに畳の上で八つ下の職人に抱かれた
誰もいない店の奥の階段で、女将の千寿は帰ろうとした桜庭の袖をつかんで引き止めた。
「上がって」
「え」
つかんだ袖は、まだ汗で重かった。この時間、店にいるのは二人きりだ。
「桜庭くん」
「はい」
「昨日、洗濯機の話したよね。ちがう?」
「……ちがわないです」
一週間、我慢した
臨時休業の次の日から、わたしたちは前と同じように働いた。
午前三時に火を入れる。四時間炊く。七時に餡を上げる。九時に店を開ける。
作業場では「女将さん」と呼ばれた。わたしは「桜庭くん」と呼んだ。決めたとおりだ。
決めたとおりなのに、四日目でわたしのほうが折れた。
三日目までは保った。
四日目の朝、この人が差し水をするとき、袖をまくった腕が目に入った。それだけで、へらの動きが乱れた。
「藤宮さん」
「なに」
「今、底こすりました」
「こすってない」
「音でわかります」
「……こすった」
「珍しいです」
「珍しくない」
「二年で三回目です」
「数えてるの」
「数えてます」
「やめて」
「やめないです」
この人は、わたしの失敗だけを数えている。責めるためでも褒めるためでもない。ただ覚えている。
それが、四日目のわたしには効きすぎた。
「桜庭くん」
「はい」
「今日、火は落とさない」
「はい」
「でも、七時のあと、二階に来て」
この人がへらを止めた。
「洗濯機ですか」
「洗濯機の話じゃない」
「知ってます」
「知ってるなら聞かないで」
「確認しました」
「なんで」
「間違えたら取り返しがつかないので」
「餡じゃないんだから」
「餡より取り返しがつかないです」
「餡は炊き直せるもんね」
「炊き直せます」
「わたしは炊き直せない」
「炊き直せないです」
七時十分、この人が帰らない
餡を上げて、火を落として、道具を洗った。

いつもならここでこの人は帰る。わたしは店を開ける準備をする。
今日は帰らなかった。
「藤宮さん」
「なに」
「店、どうしますか」
「昼から開ける」
「二日で二回、時間を変えましたね」
「変えた」
「四代目が」
「四代目だからできる」
「二回目です、それも」
「うるさい」
わたしは白衣を脱いで、洗い場のかごに放った。
この人も脱いだ。中は、汗で透けたシャツだった。
肩のあたりが色を変えていて、そこだけ肌の形が出ている。二年、毎朝見ていたはずのものだ。
見ないようにしていただけだと、今日はっきりわかった。
「藤宮さん」
「なに」
「じろじろ見られると、ちょっと」
「見てない」
「見てました」
「見てた」
「早い」
「認めるの、早くしたほうが楽だと気づいた」
「先週からですか」
「先週から」
階段の下で靴を揃える
うちの階段は店の奥にある。
急で、段が高い。手すりは片側だけ。四代ぶん踏まれて、真ん中の色が変わっている。
わたしは先に上がろうとして、途中で止まった。
止まって、振り返って、この人の袖をつかんだ。
「桜庭くん」
「はい」
「この階段、八年誰も上がってない」
「はい」
「父が死んでから、一人で住んでる」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「町内なので」
うちは商店街の中にある。この人の実家は二つ隣の町だ。噂は勝手に届く。
「じゃあ、わかってると思うけど」
「はい」
「上がるって、そういうこと」
「わかってます」
「いい?」
「いいです」
「嫌なら嫌って」
「嫌じゃないです。一週間、そればっかり考えてました」
「一週間ずっと?」
「ずっとです」
「仕事中も?」
「仕事中もです」
「職人失格」
「失格です」
この人は階段の下で靴を脱いだ。

脱いだあと、しゃがんで、つま先を外に向けて揃えた。
わたしはそれを階段の途中から見ていた。
「桜庭くん」
「はい」
「そういうの、いつも?」
「いつもです」
「誰に教わったの」
「祖母です」
「またおばあちゃん」
「またです」
八年ぶりに、うちの玄関に二足の靴が並んだ。
父の靴は死んだ年に処分した。それきり、三和土には自分の靴しかなかった。
黒い革靴と、わたしのつっかけ。大きさが全然ちがう。
その並びを見た瞬間、喉のところが詰まった。
「藤宮さん」
「なに」
「泣きそうな顔してます」
「してない」
「してます」
「靴のせいじゃない」
「じゃあ、なんですか」
「言わない」
二階の四畳半
部屋は六畳と四畳半と、狭い台所しかない。
父が死んでから、六畳は物置になった。わたしは四畳半で寝ている。
「狭いでしょ」
「狭いです」
「正直だね」
「正直です」
「がっかりした?」
「してないです」
「なんで」
「上げてもらえるとは思ってなかったので」
窓を開けた。商店街の朝の音が入ってきた。魚屋のシャッター。パン屋の換気扇。誰かの自転車。
畳の上に、朝の光が細長く落ちていた。九月の終わりの光は、夏より低いところから入ってくる。
わたしはその光の帯の上に座った。畳が温かかった。
「そこ、あったかいですよ」
「知ってる。毎朝ここに座ってる」
「毎朝」
「八年」
「一人でですか」
「一人で」
この人が、同じ帯の上に座った。肩が触れた。汗で湿った腕が、そのまま貼りついた。
「暑い」
「離れますか」
「離れないで」
「はい」
洗濯機を回す
台所の横に、二十年もののやつが据えてある。

「これ」
「動きますか」
「動く。音がすごいけど」
わたしは白衣を二枚まとめて入れた。
「一緒でいいんですか」
「白衣だから同じ」
「そうじゃなくて」
「わかってる」
回し始めると、本当にすごい音がした。四畳半まで震動が伝わってくる。
「うるさい」
「うるさいです」
「これ、四十分かかる」
「四十分」
「あんたが四時間炊くあいだ、わたしは四十分待つ」
「意味わかんないです」
「わたしも今わかんなくなった」
この人が笑った。作業場では見たことのない笑い方だった。
作業場のこの人は、笑うときも半分は釜を見ている。ここではこっちしか見ていない。
「桜庭くん」
「はい」
「顔がちがう」
「ちがいますか」
「作業場より四つくらい若く見える」
「じゃあ、二十七ですね」
「十二違うことになる」
「増えました」
「増えた」
「気にしますか」
「気にする」
「僕は気にしないです」
「あんたが気にしなくても、まわりが気にする」
「まわりは、たぶんもう気づいてます」
「え」
「二年、同じ釜の前にいたので」
わたしはその一言でしばらく黙った。
気づかれていないと思っていたのは、こっちだけかもしれない。
汗のまま、畳の上で
「桜庭くん」
「はい」
「風呂、先に入って」
「藤宮さんが先でいいです」
「わたしが先だと、あんたが待つ」
「待ちます。二年待ちました」
「その言い方、ずるい」
「ずるいです」
わたしはこの人の手首を掴んだ。
一週間で、掴む位置が決まってしまった。左の、時計の少し上。
「じゃあ、あとで入る」

「二人ともですか」
「順番に」
「はい」
「今は、そういう話じゃない」
「わかってます」
「わたし、こういうの八年ぶり」
「八年」
「だから、たぶん下手」
「下手でいいです」
「よくない」
「よくないですか」
「三十九が下手だと、みっともない」
この人が、わたしの手首を取った。今日はじめて、向こうから掴んだ。
「千寿さん」
「なに」
「僕、二年ぶんの下手さがあります」
「二年?」
「二年、誰とも会ってないので」
「嘘」
「本当です」
「なんで」
「毎朝三時に起きる人間と、誰も付き合わないです」
わたしは笑って、それから笑うのをやめた。
八年と二年。足すと十年になる。
背中が畳についた。い草の匂いがした。八年、この匂いを一人で嗅いできた。
「汗、まだ」
「知ってます」
「風呂先って言ったのに」
「言われました」
「守らないんだ」
「守れないです」
シャツを脱がされた。汗で貼りついていて、途中で引っかかった。
二人でひっぱって、やっと抜けた。
「破けるかと思った」
「破けても洗います」
「洗う話ばっかり」
「職人なので」
畳の目が背中に当たった。汗ばんだ肌に、細い線がついていく。
この人の手のひらが、その線をなぞるみたいに動いた。
「跡、ついてます」
「畳」
「知ってます」
「消える?」
「消えます。三十分くらいで」
「詳しいね」
「祖母の家が畳だったので」
窓を閉めさせる
首筋に唇が触れて、鎖骨まで下りた。皮膚が順番に立ち上がった。
窓が開いているので、自分の声が外に出そうで、手の甲を口に当てた。

「隠さないでください」
「外、人いる」
「三時から働いてる町です」
「今は八時」
「八時でも、みんな働いてます」
「聞かれる」
「聞かれても、僕は困らないです」
「わたしが困る」
「じゃあ、こうします」
この人が窓を閉めに立って、すぐ戻ってきた。
「閉めました」
「早い」
「急ぎました」
閉めた部屋は、すぐ蒸した。
わたしは下着を自分で外した。この人が手を出す前にやった。
「自分でやるんですか」
「あんたが手間取るから」
「手間取ります」
「昨日も手間取ってた」
「覚えててください」
胸を口に含まれた。吸われて、腰が浮いた。
閉めた窓の内側で、自分の声がよく響いた。畳の部屋は、思っていたより声を返す。
「千寿さん」
「なに」
「声、我慢しないでください」
「窓、閉めてるから?」
「閉めてます」
「じゃあ、しない」
我慢するのをやめたら、自分でも知らない声が出た。
八年、この部屋で出したことのない音だった。
「千寿さん」
「なに」
「息、速いです」
「言わないで」
「僕もです」
「知ってる。胸に当たってる」
「すみません」
「謝らないで」
この人の体温は、釜の前にいるときと変わらなかった。ずっと熱い。
手のひらが肩から腕をたどって、指のあいだに指を入れてきた。爪の短い指だった。
握られたまま、片方の胸を舐められた。舌が温かくて、離れたところだけ冷えた。
冷えたところに息を吹かれた。背中が跳ねた。
「桜庭くん」
「はい」
「それ、ずるい」
「ずるいですか」
「体が勝手に動く」
「動いてください」
「言い方」
「本気です」
汗が首を伝って、畳に落ちた。落ちた音が聞こえるくらい、部屋は静かだった。

外の音は、閉めた窓の向こうで遠くなっていた。魚屋のシャッターも、自転車の音も、全部薄い。
聞こえるのは、自分の呼吸と、この人の呼吸だけだった。
白衣の跡
「跡」
「白衣です」
「知ってる」
「千寿さんにもあります」
「あるの?」
「首のうしろに」
わたしは自分の首に手をやった。触ってもわからなかった。
「見えないよ」
「見えます」
「見てたんだ」
「見てました」
指でその場所をなぞられて、そこから背中まで震えが走った。
「そこ」
「痛いですか」
「痛くない」
「じゃあ」
「じゃあ、続けて」
指がうなじから背骨をたどって、腰の窪みで止まった。そこで手のひら全体が当たって、熱が広がった。
釜の前で二年見てきた手だった。三十キロの餡を動かす手が、いま背中にある。
「その手」
「なんですか」
「毎日見てた」
「知ってます」
「見てるの、ばれてた?」
「去年の夏に気づきました」
「一年も前」
「一年前です」
「なんで言わなかったの」
「言ったら、見てもらえなくなるので」
わたしはこの人の頭を両手で挟んで、額をつけた。汗で髪が貼りついていた。
「あんた、けっこう計算する人だね」
「します」
「認めるんだ」
「二年ぶんの計算です」
そのまま、下も脱がされた。
畳の上で脚を開かされて、指が入ってきた。
「濡れてます」
「言わないでって、昨日も言った」
「言います」
「なんで」
「言うと、もっと濡れるので」
本当だった。言われたところで、体が勝手に締まった。
「桜庭くん」
「はい」
「早く」
「まだです」
「早く」
「もう少しだけ」
じらされた。三十九にもなって、待たされて、腰を自分から動かした。

「動いてます」
「言わないで」
「言います」
「意地悪」
「意地悪です」
そのあと来られて、わたしは一度目でいった。
畳を掴んだ指に、い草が食い込んだ。
昼までもたない
一度終わっても、この人は畳の上から動かなかった。
「桜庭くん」
「はい」
「重い」
「どきます」
「どかないで」
「どっちですか」
「重いままがいい」
汗が二人分混ざって、どちらのものかわからなくなった。
閉めた窓の内側は、もう風呂と同じだった。
「暑い」
「開けますか」
「開けないで」
「さっき閉めろって言いました」
「今は開けないで」
「難しい人です」
「三十九だから」
「関係ないです」
「それも三回目」
「四回目です」
わたしはこの人を仰向けにして、上に乗った。
「千寿さん」
「動かないで」
「動かないです」
跨って、自分で腰を落とした。落とした瞬間、声が出た。
上から見ると、この人の顔がよく見えた。眉が寄って、口が半分開いていた。
「その顔」
「見ないでください」
「見る」
「ずるいです」
「昨日、あんたが見たでしょ」
「見ました」
「じゃあ、おあいこ」
胸を下から掴まれて、動きに合わせて揉まれた。
畳が擦れる音と、自分の喘ぎ声だけがしていた。
二回目は、二人ともほとんど声が出なかった。息だけが上がった。
終わったあと、この人がわたしの髪を耳にかけた。それだけの動きが、やけに効いた。
布団を敷く
畳の上は硬かった。背中が痛くなった。
「布団、敷く」
「敷きます」
「押し入れの下」
この人が押し入れを開けた。八年、わたし一人ぶんしか敷いたことのない布団だった。

敷かれた布団に、二人で倒れ込んだ。
「い草の匂いがしなくなった」
「布団の匂いです」
「あんたの匂いもする」
「すみません」
「謝らないで。嗅いでるのはこっち」
わたしはこの人の首筋に鼻を寄せた。汗と、砂糖と、炭の匂いがした。
二年、この匂いの隣で働いてきた。毎日嗅いでいたはずのものが、今日は違うものに感じられた。
「桜庭くん」
「はい」
「わたし、汗くさいと思う」
「くさくないです」
「即答しないで。嘘っぽい」
「……少しします」
「正直すぎ」
「どっちなんですか」
「どっちも嫌」
「難しいです」
「四時間釜の前にいたんだから、当たり前でしょ」
「僕もです」
「知ってる。さっきから匂ってる」
「嫌ですか」
「嫌じゃないから困ってる」
胸に耳を当てた。心臓の音が、まだ速かった。
指先が、この人の腹を上から下へなぞった。腹の筋が固くなった。
「くすぐったいです」
「我慢して」
「我慢します」
「息、止めないで」
「止めてないです」
止めていた。わたしが手を下げたら、大きく吐いた。
三度目は、こっちが先に音を上げた。
腰から力が抜けて、指先まで痺れた。目を開けたら、畳の光の帯が動いていた。
八時から九時になったのだと、それでわかった。
「桜庭くん」
「はい」
「店、忘れてた」
「僕もです」
「二人とも職人失格」
「今日だけです」
洗濯機が止まる
四十分後、洗濯機が止まった音がした。
音が止まると、二階が急に静かになった。商店街の音だけが残った。
「止まりました」
「聞こえてる」
「干しますか」
「あとで」
「乾かないです」
「乾かなくていい」
「明日、着るものがなくなります」
わたしはこの人の胸を軽く叩いた。汗で滑った。

「今それ言う?」
「言います。職人なので」
「職人は関係ない」
「あります。段取りが命なので」
「最悪」
「はい」
でも、この人が段取りを口にするたび、わたしは少し安心する。
八年、段取りだけで店を持たせてきた。それを分けられる人が、いま同じ布団の上にいる。
「桜庭くん」
「はい」
「うち、来年で創業百年」
「知ってます」
「なにかやったほうがいい?」
「やったほうがいいです」
「めんどくさい」
「僕がやります」
「あんたが?」
「百年の菓子を作ります。設計から」
「洋菓子の人が?」
「和菓子の人です。二年経ったので」
わたしはこの人の顔を見た。汗が引いて、いつもの職人の顔に戻りかけていた。
「今、いちばんいい顔してた」
「そうですか」
「仕事の話するときの顔がいちばんいい」
「複雑です」
「なんで」
「今の状況で言われると、複雑です」
「そう?」
「今は別の顔を褒めてほしいです」
わたしは笑って、この人の頬をつまんだ。汗で滑った。
十時、白衣を干す
結局、二人で風呂に入って、二人で白衣を干した。
物干しは二階のベランダにある。商店街に面していて、下から見えるかもしれない場所だ。
「見えますよ、これ」
「見える」
「いいんですか」
「白衣が二枚あるだけでしょ」
「二枚あるのが問題です」
「じゃあ、どうすればいい」
「……そのままでいいです」
「言い直した」
「言い直しました」
わたしは洗濯ばさみを二つ渡した。この人が受け取って、二枚を並べて留めた。
同じ白衣が同じ向きに揺れた。生地は同じなのに、この人のほうが少し大きい。

「大きさ、違うね」
「僕のほうが大きいです」
「わたしが小さくなったのかも」
「なってないです」
「三十九だし」
「関係ないです」
「あんたは三十一」
「関係ないです」
「二回言った」
「三回言います」
「千寿さん」
「なに」
「洗濯ばさみ、うちにもあります」
「知らないよ、そんなこと」
「二個買い足しました」
「いつ」
「先週です」
「先週って、まだ二階に上がる話も出てないころでしょ」
「出てないです」
「なんで買ったの」
「……いつか要ると思ったので」
わたしはベランダの手すりを掴んだ。塗装が剥げていて、指に錆がついた。
「あんた、こわい」
「こわいですか」
「こわい。でも、嫌じゃない」
「よかったです」
昼、店を開ける
十二時に店を開けた。
朝の練り切りがないので、並べられるのは餡子ものだけだった。それでも常連は来た。
「千寿ちゃん、今日ゆっくりだね」
「すみません、寝坊しました」
「四代目が寝坊するかね」
「します」
商店街の人は、それ以上聞かなかった。この町は、聞かないことで成り立っている。
夕方に、隣の魚屋の奥さんが来た。
「千寿ちゃん」
「はい」
「白衣、二枚干してたね」
心臓が跳ねた。
「……見えました?」
「見えたよ。うちの二階から」
「そうですか」
奥さんは大福をひとつ買って、それから言った。
「あんた、八年ずっと一人だったからね」
「はい」
「たまにはいいんじゃないの」
それだけ言って帰っていった。
わたしは店の外に出て、奥さんの背中を見送った。
「奥さん」
振り返った。

「なに」
「言いふらしますか」
「言いふらすもなにも、みんな知ってるよ」
「みんな」
「あの子、二年もあんたの店に通ってるんだよ。朝三時に。誰が見てもわかる」
わたしは店の前で少し笑ってしまった。
「じゃあ、隠さなくていいですね」
「隠さなくていいよ。ただし」
「ただし?」
「あの子、大事にしなさい。あんたより八つも下なんだから」
「知ってます」
「知ってるなら、いい」
「奥さん」
「まだあるの」
「うちの父、なんて言うと思いますか」
奥さんが少し考えた。
「あんたのお父さんはね」
「はい」
「職人の腕しか見ない人だったよ」
「知ってます」
「だから、あの子の腕がよけりゃ何も言わないさ」
「腕は、いいです」
「顔は」
「顔も、悪くないです」
「言うようになったね、あんたも」
「言わせたのは奥さんです」
「じゃあ、決まりだ」
奥さんが手を振って、今度こそ帰っていった。
夜、電話が鳴る
閉店後、片づけをしていたらスマホが震えた。
桜庭一之
「明日も三時です」
「知ってる」
「白衣、乾きましたか」
「乾いた」
「よかったです」
「桜庭くん」
「はい」
「魚屋の奥さんに見られてた」
既読がついて、しばらく間があった。
「怒られましたか」
「たまにはいいんじゃないの、って言われた」
「いい町ですね」
「いい町」
「僕、この町に住みたいです」
「今、二つ隣でしょ」
「引っ越します」
「気が早い」
「早くないです」
「……早くない」
わたしはシャッターを半分下ろして、その隙間から商店街を見た。

四代、この町でやってきた。八年、一人でやってきた。
明日から、二人になる。
店の中は、餡の匂いがまだ残っていた。
釜はもう冷えている。明日の三時にまた火が入る。四代、それを繰り返してきた。
明日は、その火の前に二人で立つ。たったそれが、思ったよりずっと大きかった。
「桜庭くん」
「はい」
「明日、また二階に上がる?」
返事は五秒で来た。
「上がります」
「靴、揃えないで来て」
「揃えます」
「揃えなくていい」
「揃えます。祖母に怒られるので」
わたしはその頑固さに笑って、シャッターを下ろした。
二階に上がって電気を点けた。
四畳半の畳に、まだ跡が残っていた。二人ぶんの、寝ていた形の跡だった。
三十分で消えると言われたのに、半日経っても消えていない。
わたしはその上に座った。
スマホが震えた。
桜庭一之
「畳の跡、消えましたか」
「消えてない」
「三十分って言いました」
「嘘つき」
「嘘です」
「なんで嘘ついたの」
「消えないほうが嬉しいと思ったので」
「わたしが?」
「僕がです」
わたしはその一行を、たぶん十回読んだ。
「桜庭くん」
「はい」
「明日、三時ね」
「三時です」
「遅刻しないで」
「二年、一度もしてないです」
「知ってる」
「数えてました?」
「数えてた」
「うつりましたね」
「うつった」
「千寿さん」
「なに」
「今、なに着てますか」
「聞いてどうするの」
「明日まで持たせます」
「変態」
「変態です」
「認めるんだ」
「認めます」
わたしはその返事にしばらく笑って、それから、ちゃんと答えてやった。

既読がついたまま、返事は来なかった。
三分してから、一行だけ来た。
「明日、三時に行きます」
窓を開けると、商店街はもう静かだった。
明日の三時、また火が入る。今度は、二人で。
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※20歳以上の登場人物によるフィクションです。文章と画像は生成AIで作成しています。
