横断歩道(全3話・第2話)|創作小説
記憶を書くことが多い私ですが、
「もしこんなことがあったら」
という物語を書いてみたくなります。
これは、そんなふうに書いた物語です。
大輔が信号を待っていると、背後から靴音が近づいてきた。
コツコツコツ
規則正しい音だった。
振り返る必要はなかった。
靴音だけで、その人物が急いでいることは分かった。
黒いパンプスが大輔の横を通り過ぎる。
グレーのスーツ。
三十代半ばくらいだろうか。
肩までの髪を後ろでまとめ、ノートパソコンが入っていそうな薄いバッグを提げていた。
仕事ができそうな雰囲気だった。
彼女は信号を見た。
赤だった。
見えていないはずはない。
それでも歩調は変わらなかった。
横断歩道へ踏み出す。
一歩。
二歩。
まるで信号そのものが存在しない世界を歩いているようだった。
大輔の喉の奥で、何かが引っ掛かった。
「危ないぞ。」
その一言は、声にならなかった。
その瞬間、信号が変わるのを待っていた白い軽自動車が右から発進してきた。
運転手は女性に気付いて急ブレーキを踏み、車体が前のめりになった。
「キャーッ!」
悲鳴が道路に響き渡った。
女性は立ったまま、反射的にボンネットへ片手を伸ばした。
その手が触れたところで、車は止まった。
まるで彼女が押し返したように見えた。
フロントガラスに朝日が反射し、運転席にいる人の顔はよく見えなかった。
ほんの少しの間、女性は周囲を見回した。
誰に見られていたのか。
今の悲鳴は、どこまで聞こえていたのか。
誰が自分の味方なのか。
そんなことを確かめているように、大輔には見えた。
そして、他に車が来ないのを確かめるようにして、女性は何も言わず、何事もなかったように再び歩き始めた。
その瞬間、大輔の頭の中に言葉が落ちてきた。
『轢かれてしまえばよかったのに。』
大輔の頭蓋骨の内側へ、小石が放り込まれたかのように。
大輔は息を止めた。
そんな言葉は自分のものではないはずだった。
そう思いたかった。
暑さや疲れのせいにしたかった。
昨日の夜、自宅へ戻ったのは十時を過ぎていた。
疲れているだけだ。
彼は少し目を閉じた。
産院の白い病室が浮かぶ。
麻衣の疲れ切った顔。
透明なベッド。
その中で眠る紗奈。
小さな手。
人差し指へ触れた、小さな温かさ。
あのとき、大輔は誓った。
この子に恥じない父親になろう、と。
しかし、たった今、自分の中には、自分でも知らない何かがあることを知ったのだ。
