横断歩道(全3話・第1話)|創作小説
記憶を書くことが多い私ですが、
「もしこんなことがあったら」
という物語を書いてみたくなります。
これは、そんなふうに書いた物語です。
─── 八月の金曜日。
大輔は産院で初めての子を抱いた。
その小さな指先が自分の人差し指に触れた時、そっと握り返してくれたように思えた。
その瞬間、自分のためだけの人生は、もう終わったのだと思った。
終わったというより、別の人間にならなければいけないのだと思った。
妻の麻衣とは、休日に二人で買い物へ出かけることもあれば、それぞれ好きなことをして過ごす日もあった。
大輔はその毎日を、どこへ向かうとも考えずに過ごしていた。
娘が生まれ、大輔は向かうべきものを得た。
娘の名前は紗奈にした。
麻衣と二人で、何度も候補を書き出して決めた名前だ。
結婚してからしばらく、子どもはできなかった。
だから紗奈が生まれたことは、思っていた以上に大きな出来事だった。
紗奈が生まれた日、世界は何一つ変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
そう思った。
少なくとも、その日は。
─── 日曜日。
夜に妻の実家をひとりで発ち、都内の自宅の最寄り駅に降りると、空気が違っていた。
暑い、という言葉では足りなかった。
誰かが巨大なドライヤーを街全体へ吹き付けているようだった。
妻の実家を発つ前に見た夕方のニュースでは、この週末の都内は観測史上に残る猛暑だったと伝えていた。
その熱気は、今、息を吸うたびに大輔の胸の奥へ入ってきた。
─── 月曜日。
まだ朝の七時半だというのに、日差しは容赦なく照りつけ、街はもう真昼のようだった。
アスファルトは昨日の熱を抱えたままで、その上を漂う湿った空気を吸い込むたび、肺の奥が重くなった。
シャツは駅に着く前から背中に張りつき、額から流れた汗は何度拭いても追いつかなかった。
横断歩道の少し手前から青信号が点滅し始めた。
大輔は無理に渡らず止まった。
以前なら渡る途中で赤にかわってしまうとしても渡っていただろう。
車が来なければ、それで済む話だった。
しかし今は違う。
ほんの数日前、あの小さな指先が自分の人差し指に触れた。
あの子がいつか信号を渡る日、「赤は止まるんだ」と言える父親になりたかった。
だから止まった。
たったそれだけのことだった。
その朝、大輔は、自分が正しい側の人間になれたような気がしていた。
それが、あと三十秒ほどしか続かないことを、まだ知らなかった。
この作品の第2話です。
