横断歩道(全3話・最終話)|創作小説
記憶を書くことが多い私ですが、
「もしこんなことがあったら」
という物語を書いてみたくなります。
これは、そんなふうに書いた物語です。
大輔が待っていた信号は青に変わった。
しかし、誰もすぐには動かなかった。
まるでさっきの出来事が、本当に終わったのか確かめているようだった。
最初に歩き出したのは、向こう側で待っていた男子高校生だった。
大輔も足を踏み出した。
横断歩道の白い線が、朝日に焼かれていた。
一本。また一本。
その上を歩くだけなのに、自分が少し違う人間になってしまったような気がしていた。
あの軽自動車は、まだその場に止まったままだった。
怒鳴り声は聞こえなかった。
クラクションも鳴らなかった。
歩行者が渡り終え、再び信号が変わるのをただ静かに待ち続けていた。
女性の姿はもう五十メートルほど先にあった。
歩く速さは変わらない。
さっきまであれほど気になっていた暑さを、いつの間にか忘れていた。
代わりに、頭の中では、先ほどの声だけが残っていた。
『轢かれてしまえばよかったのに。』
その言葉は、もう誰の声なのか分からなくなっていた。
自分が考えたのか。
それとも、自分の中にずっと住んでいた誰かが囁いたのか。
そんな「誰か」はいないと知っていた。
けれど、人は「誰か」のせいにしたくなる。
そのことも知っていた。
駅へ向かう人の流れに混じりながら、彼は右手の人差し指を見た。
紗奈が握った指だった。
あの温もりを思い出そうとした。
しかし思い浮かぶのは温もりではなかった。
黒いパンプス。
グレーのスーツ。
朝の悲鳴。
そして、頭の中へ落ちてきた、あの言葉だった。
大輔は小さく息を吐いた。
その息さえ、自分のものなのかどうか、大輔にはもう分からなかった。
─── 十月の日曜日。
あれほど街を覆っていた暑さは、いつの間にか遠ざかっていた。
ただ、昼間の空気にはまだ夏の名残が残っていた。
九月に入ってすぐ、里帰りしていた麻衣が、紗奈を連れて戻ってきた。
それからは、麻衣と二人、どたばたの毎日だった。
ミルクを作り、おむつを替え、泣けば抱き上げた。
紗奈が生まれた日に思い描いていた人間になれたのかどうかは、まだ分からない。
大輔はソファに座り、紗奈を胸元に抱いていた。
小さな身体から、かすかな寝息が聞こえた。
ふと、八月の横断歩道のことを思い出した。
だが、目の前には紗奈がいる。
紗奈が目を離させてくれない。
紗奈は腕の中で身をよじって、薄目を開けた。
大輔は背中を優しく叩いた。
紗奈は小さな寝息をたてて、また眠った。
大輔は少し笑った。
