SeeDという制度は正常か|彼らは本当に、自分の意志で戦っていたのか
前回の記事 GFは何者なのか|ずっと内側にいた、名前のない存在
はじめに|SeeDは、正しい制度だと思っていた
SeeDは、正しい制度だと思っていた。
世界を守るための組織。魔女に対抗するための戦力。子供たちを鍛え、使命を与え、世界の平和に貢献させる。
崇高な目的がある。厳しいが、意味のある訓練がある。SeeDになることは——選ばれることだ。
そう思っていた。
……プレイ中は。
正直に言うと、バラム・ガーデンに入った瞬間、多くのプレイヤーは制度の倫理より別のことを考えていたはずだ。「SeeD試験どうやって突破するんだ」「ガルバディア軍強すぎない?」「スコールのリボルバーかっこよすぎる」。あとたぶん、GFをどのキャラにジャンクションするか10分くらい悩んで、結局めんどくさくなって全員に適当に配分した。
GFの副作用が「記憶の喪失」だと説明されたとき——正直なところ、気にしなかった人も多いと思う。「ふーん、そういう設定ね」くらいの感覚で、そのままトンベリを召喚してた。あるいはアルティミシアを倒すことに必死で、制度の構造を疑う余裕がなかった。
というか当時のプレイヤー、GFの記憶干渉より「ドロー何回すれば魔法100個になるんだ」の方が100倍頭を占めていたと思う。ドロー。ひたすらドロー。エンカウントするたびにドロー。雑魚から魔法を吸い続ける作業に没頭しすぎて、物語の深層に気を向ける余裕がなかった。それはもう、SeeDの訓練より過酷な反復作業だった。
でも——
ここまで読んできた読者には、もう見えているはずだ。
GFは記憶に干渉する。感情の最下層を守るために、記憶という上の層を管理する。そしてその存在を——SeeDは子供に使わせる。
これは本当に「教育」なのか。
どこかがおかしい。その感覚の正体を、今回は追う。
第1章|なぜ"子供"にGFを使わせるのか
SeeD訓練生は若い。
バラム・ガーデンに集められる子供たちは、人格が形成される途中の段階にいる。価値観が固まる前。世界の見え方が決まる前。自分が何者かを、まだ模索している段階だ。
そういえば——孤児院のシーンを覚えているだろうか。
スコール、ゼル、セルフィ、アーヴァイン、キスティス。彼らが全員エデアの孤児院の出身だと判明する、あの衝撃の場面。「え、全員知り合いだったの?」と思いながら、でも誰も覚えていない。スコールも、ゼルも、セルフィも——同じ場所で育ったことを、記憶していない。
しかもアーヴァインだけ覚えてるやつ。「俺だけ覚えてた」ってやつ。あいつだけ記憶があって、ずっと黙ってて、「言い出せなかった」って言うやつ。あのシーン、初見のときは「え、なんで言わなかったの」って思ったけど、今考えると「言っても信じてもらえない」という判断は正しかったかもしれない。全員が忘れているなかで、一人だけ「俺たち昔の友達だよ」と言っても、証明する手段がない。記憶がない側には、確認する術がないのだから。
それだけじゃない。一番やばいのは——スコールがエルオーネを覚えていないことだ。
エルオーネはスコールにとって、孤児院時代の「お姉ちゃん」だ。大切にしていた。離れるとき泣いた。なのに——ゲームの冒頭では、彼女の名前すら出てこない。スコールの中に、エルオーネという存在がほとんど残っていない。あれほど大切だった記憶が、きれいに薄れている。
最初にプレイしたとき、「ああ、GFのせいで忘れてるんだ」と理解はした。でもそれがどれほど異常なことか、あのとき本当にわかっていたかというと——正直、怪しい。
仲間と過ごした時間を忘れている。子供時代の大切な記憶が、きれいに消えている。それがゲームの設定として提示されたとき、プレイヤーは「なるほど切ない話だ」と受け取った。
でも——制度として見たとき、これは「切ない」では済まない話だ。
その状態で——GFをジャンクションさせる。
ここに、最初の違和感がある。
なぜ、完成した人間ではなく、未完成の状態で使わせるのか。
GFは記憶に干渉する。前回の記事で論じた通り、長期間ジャンクションするほど、記憶への影響は蓄積していく。成人してから使い始めれば、すでに形成された人格や記憶への影響は限定的だ。でも子供の頃から使い始めれば——人格が形成される過程そのものに、GFが関与する。
完成してからでは、遅い。
この一文が、すべてを変える。
ここで少し、立ち止まって考えてほしい。
人間の人格は、どのように形成されるのか。生まれた瞬間から、経験が積み重なる。嬉しかったこと、悲しかったこと、怖かったこと、愛されたこと——それらの記憶が積み重なり、やがて「自分」という輪郭を作っていく。
記憶が人格を作る。そして人格が、世界の見え方を決める。
だとすれば——人格が形成される前にGFを入れることは、人格の形成そのものにGFが関与することを意味する。「自分」という輪郭が作られる過程で、GFが内側にいる。
「自分」の中にGFがいることが、「普通」として組み込まれる。
ゲームを思い出してほしい。スコールはGFをジャンクションすることに、何の抵抗も示さない。疑問を持たない。それが当たり前の訓練として、すでに彼の中に定着している。ゼルも、セルフィも同じだ。GFを使うことは——彼らにとって「そういうもの」なのだ。
成長段階でGFを使わせることは、副作用ではない。設計だ。
人格が固まる前にGFを内側に入れることで——GFが「当たり前」として組み込まれた人間が育つ。GFなしの自分を知らない人間が育つ。違和感を感じる基準を持たない人間が育つ。
子供である必要があったのは、そのためだ。
完成した人間に後からGFを入れても、「以前の自分」との差に気づく可能性がある。でも子供の頃から入れれば——比較する基準が存在しない。これが当たり前の自分しか、知らない。
第2章|これは教育ではなく"上書き"ではないか
教育とは何か。
知識を与える。技術を教える。経験を積ませる。これらはすべて——人間の外側から働きかける行為だ。
教室で学ぶ。先生に習う。失敗して覚える。これらは外側からの刺激が、内側に積み重なっていく過程だ。人間の構造は変わらない。その上に、新しい知識や経験が乗っていく。
教育は、外側から積み上げる。
でもGFは違う。
GFは内側に入る。記憶という層に直接触れる。その層を書き換え、整理し、管理する。これは外側からの働きかけではない。
内側からの書き換えだ。
SeeDの訓練は、表面上は教育に見える。戦闘技術を学ぶ。魔法を習得する。チームワークを身につける。これらは確かに、学習だ。
でも——その学習の前提として、GFが内側にいる。
学習した内容は、GFが管理する記憶の層に蓄積される。感情という最下層には届かないように、GFがフィルターとして機能している。
試験官であるキスティスを思い出してほしい。彼女はSeeD試験の評価をする立場にいながら、自分自身もGFをジャンクションし、自分の記憶の一部を失っている。教える側も、教わる側も——同じ仕組みの中にいる。制度の外から制度を見ている人間が、バラム・ガーデンの中には誰もいない。
しかもキスティスは、自分がスコールたちと孤児院で育ったことを忘れている。かつての「仲間」を「教え子」として評価する立場に立ちながら、その事実を知らない。先生と生徒の関係に見えて、実は同じ出発点にいた人間同士だ。その関係性自体が、GFによって書き換えられている。
つまりSeeD訓練とは——
知識と技術を外側から与えながら、同時に内側の仕組みをGFによって整えていく、二重の過程だ。
表から見れば教育。内側から見れば、仕組みの書き換えだ。
そしてその書き換えは——子供の頃から始まっている。人格が形成される前から。自分が何者かを決める前から。
気づいたときには、もう終わっている。
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ここまで読んで、もう見えているはずだ。
SeeDは教育機関ではない。GFを内側に組み込んだ人間を、制度として量産する装置だ。
では——その制度は何を、作ろうとしていたのか。
この先では、その問いに答える。
そしてその答えが見えたとき——スコールが、セルフィが、ゼルが「なぜああいう人間になったのか」が、初めて仕組みとして理解できる。
彼らは育ったのではない。設計されたのかもしれない。
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