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短編小説『冥土で続くよいつまでも』 夏の特別作品

「なぁおいあんた、死んじまってよかったなぁ。ほんとによかったよぉ。」

おじいさんはお天道様によってついさっき天上界へ迎え入れられた人々へ飲み物を振る舞って歩いていた。肩に担いだ大きな袋から小さなグラスをさっと取り出し、労いの言葉をかけながら、真心込めて丁寧に手渡していく。それぞれが受け取った透明なグラスからは、個人の記憶や趣向に応じて、様々な飲み物が泉のように湧き上がってくるのだった。ラムネ、麦茶、麦酒、冷酒、出てくるものはなんでもござれ、氷のようにキンキンに冷えた、魔法のようなそのグラスを目の当たりした者ならば、誰もが生唾をごくりと飲み込み、ごくごくと喉を鳴らしながら、極上の液体を空きっ腹の胃の中へ、するりするりと流し込んでいく。そんな彼らが浮かべる嬉しそうな表情を見て、おじいさんはにっこりと微笑み、懐から空のおちょこを取り出して、示し合わせたかのように底から湧いてきていた温かい日本酒を、ぐっと一気に呷ったのだった。かぁーっ、こんりゃうんめぇなぁ。思わず口から飛び出したおじいさんの言葉は、幸せに満ちた明るい熱気を帯びていた。

「あんたもくたばっちまってよう、よかった、ほんとによかったのう。おらもな、死んでよかったと心から思うとるよ。ここにいりゃあ、もうなぁんにも苦しいことなんかありゃせんのだからな。横っ腹がおっそろしく痛くなることもねぇ、目ん玉ぐるぐるまわることもねぇ、横んなって腹がぶくぶく膨れてくのを見ることもねぇ、酒でもなんでも好きな時に飲み放題、食い放題って有様でよ。そんりゃまわりにお屋敷も三途の川もねぇし、おらだけのあまっこがおるわけでもねぇ。だどもよ、もうつれぇ思いをしなくってもいい、食っちゃ寝飲んじゃ寝してもなぁんも言わりゃしねぇってぇのは、こりゃあもう極楽浄土っつうもんだでな。あんたもそう思うだろう、ん?」

おじいさんは若い男の肩へ手をかけ、なま温かい息をふきかけながらそう言った。そのとろんとした甘い香り、手に持ったグラスから立ち昇ってくるホップの香り、全てを浄化せしめんとする二つの誘惑、優しく抱き止められ、滝のような涙を流し、麦酒をぐぐっと呷る男。ボロボロの軍服を引き裂いて、洗練された逞しい肉体を露わにし、無色透明の空を仰ぎながら、歓喜の、雄叫びを、あげてみせる。おじいさんは現世で辛い時を過ごしてきた彼の魂が今ようやく解放されたことをあたかも自分のことのように喜び、肩を叩いて祝福してやった。それから二度ほど盃を酌み交わしたあとでおじいさんは、さぁ楽しい楽しい仕事へもどらんとなぁ、と独り言のように呟き、恍惚とした表情を浮かべる男を尻目にその場を後にした。ほろ酔い気分のおじいさんが向かう先、あの世とこの世をつなぐふすまの前は、今しがたここへやってきた人々で溢れかえっていたのだった。

「おう姉ちゃんよぅ、あんたも今までごくろうさんだったねぇ。ほれ、まぁとりあえず一杯やって落ち着いてけれや。」

おじいさんは若い女に声をかけ、いつものようにグラスを差し出した。彼女はそれを受け取るでもなく、顔を上げるでもなく、茫然自失の状態でその場に立ち尽くしていた。淀んだ目はただ一点を見据えているが、その先には完全な無の空間が果てしなく広がっているのみ。よくよく見れば足も手も微かに震えており、穴だらけの着物からは、いくつもの生々しい傷跡が透けて見えている。彼女が現世で体験してきたであろう苦しみの深さをすぐに推し量ったおじいさんは、震える女の肩へ手を回し、諭すような優しい口ぶりでこう言った。

「なぁ、あんた色々あったんだろう?あっちでよ。そいつぁもうひどくつれぇことだったに違いねぇ。あんたの様子をみてりゃよぉーくわかるよ。おらぁ、これでもウンビャクニンってぇやつらの受け入れを手伝ってきたかんな、えれぇ目にあったんだってのはすぐにわかったで。けんどよ、色々考えんのはもうやめときや。ここにきたからにゃ同じようなこたぁ二度と起こんねぇんだからさ。安心していいんだ。腰を落ち着けてよ、食いてぇもんくってりゃいいんだ。みぃんな丸くおさまってよ、こりゃあほんまもんの極楽だぜぇ?なあ、あんた?ほれ、とりあえずこいつを持ちな。持って、出てきたもんを一気に飲み干してよ、全部忘れちまえばいい。そんで今度こそ、幸せになろうや。」

おじいさんは小刻みに震える女の手を取ってグラスを持たせてやり、彼女がそれを落としてしまわないように下から両手で支えてあげた。そして、透き通ったグラスの底から天上の液体が溢れ出てくるのを待った。

無色透明の液体が少しずつ湧き出してくる。
ぐるぐると渦を巻きながら迫り上がってくる。
それは、少しずつ赤みを帯びてくる。
赤く、さらに赤く、もっと赤く、もっともっと、そう、どす黒く赤く、液体はグラスの中を満たしていく。

驚いたおじいさんは支えていた手を離してしまった。同時にグラスは灰色の地面に落ちてぐしゃりと割れ、排泄物の臭いがする赤い液体を女の足元に飛び散らせた。

漂う腐臭、ジュクジュクと溶けていくガラス片、液体は地面を穿ち、永遠に続く漆黒の穴へと滝のように流れ落ちていく。震えていた女の小さな手はすでに爛れ落ち、黒く粘ついた液体を垂れ流しているだけ。焼け焦げた胴体、顔から垂れ下がった皮膚、ところどころ千切れ黄色い膿を吹き出している剥き出しの血管、呆気なく崩れ、赤黒い排泄物と共に、少しずつ虚無の穴へと引き摺り込まれていく、細きその体。おじいさんは茫然と立ち尽くし、困惑の表情を浮かべ、ついさっきグラスを渡してやった女が目の前でドロドロの物体と化していくのを黙って見つめていた。鼻が溶け、目が溶け、露わになった骨すらも溶けて、見る間に腐敗し変色し、ブクブクと沸騰しながら自壊していくのを、どうすることもできずに眺めているだけの、おじいさん。目の前の光景のために力の抜けてしまっていた彼は、この時肩に担いでいた袋を意図せず落としてしまい、ガシャーンという大きな衝撃音をあたりに響かせてしまった。はっと我に返ったおじいさんは地面に落ちた袋へあたふたと手を伸ばしつつ、ふすまの方へと目を向けた。


もうずいぶん昔のことになるが、おじいさんは死ぬ直前、地獄というものをひどく恐れながらまぶたを閉じたのだった。小さい頃にお坊さんから教えてもらった地獄の有様をつぶさに思い起こし、さんざ悪いことはしてきたし酒も肉も喰らってきた身ではあるものの、どうかあんな恐ろしいところへは送らないで欲しいと一心に仏様へ念じながら息を引き取ったのだ。結果的に彼は天上界に送られてきて何ひとつ不自由のない幸せな毎日を過ごせるようになったものの、幼い頃脳みそに叩き込まれた地獄という場所のイメージを完全に記憶から拭い去ることはできなかった。

あれから数十年経った今、彼は頭の片隅に残っていた地獄の有様を思い浮かべながら眼前の恐るべき光景を見ていた。きのこの如く歪な形をした煙の中で黒い影と化した人々が自らの肉体を求めて彷徨い歩いているのを、腕や足を失った人々がうめき声をあげながら這い回っているのを、腹をぷくりと膨らませた人々が仰向けに寝転び、時に破裂音と共に強烈な臭気を撒き散らしてみせるのを、腐り切った死体から湧いてきた蛆虫がぐじゅりぐじゅりとその肉体を食い尽くしていくのを、食い入るように見つめていた。それだけでなく、この想像を絶する光景を一言も発することなく半開きの呆けた目で眺めている人々をも、片時も目を離すことなく見続け、もう、自制心を、失い、込み上げてきて、止められず、ついに、は、吐、吐く、そう、何度も、何度も、何度でも、吐いた。ビクビクと、体を震わせながら、吐きまくった。病を患っていた頃でさえ、食事を戻してしまうことはほとんどなかったというのに、吐き続けた。頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱され、全ての価値観が根底から覆っていくようだった。心は、メタクソにぶちのめされて今にも破裂しそうになっていた。ふと、上へ下へとこねくり回され頭蓋骨の壁に何度も何度も叩きつけられていた脳みそが四方八方全神経に対して鋭く言葉を投げつけたのを、彼は聞いた。おい、なんなんだよこりゃあ。地獄なんてもんじゃねぇぞこいつは。地獄のがまだましじゃあねぇか。ああ、いったいどうなっていやがるんだ、一体下で何が起きやがったってんだ、畜生、畜生、くそ、畜生め!

これまで一度たりとも見たことのなかった衝撃の光景がおじいさんの精神の軸をぐらぐらと揺さぶり、蹴りつけ、倒してしまおうとする。天上界に来て以来彼の心の中で一度として揺らぐことのなかった死への観念を、打ち壊してしまおうとする。死ねば辛いことなんか二度と起こらない、天上の物体を腹ん中に納めちまえばなんも心配することはない、おじいさんが抱いていたこの楽観的な考えに、目の前の惨状が大きな疑問を投げかける。本当に終わりか?二度と考えなくてすむのか?そんな簡単に終わってくれるものなのか?何も起こらずに?きれいさっぱり忘れて?幸せな毎日を?本当か?本当なのか?本当に、本当に、本当に、私たちはこの場所で何も考えることなくのほほんと生きていくことができるっていうのか?なぁ、答えてよ、答えろよ、答えてくれよ!さあ、あんた、あんた、あんた!!!



死をもってすら逃げきることのできない記憶がある、片時も目を背けることのできない光景というものがある、未来永劫人々の中に居座り猛威を奮う、神威すら超えた絶望的な痛みというものがある、その存在に気づいてしまったおじいさんは、懐に入れていたおちょこを捨て、がっくりと肩を落とし、下界の何者かが楽園に齎した尋常ならざる暴力の結果を、何十年、何百年、何千年と、その場所で眺め続けたのであった。


⭐︎ここから先はあとがきになりますので、興味がある方だけ読んでもらえれば結構です。最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。



◯あとがき

本日は連作エッセイを投稿する予定でしたが、以下の作品を読ませて頂いて急遽予定を変更し、本作を執筆させて頂きました。

彼女のように詩的な文体で綴ることは私にはできません。しかし世の中について思う心や、語り継いでいかなければいけないという使命感は同じように持ち合わせています。だからこそ私なりの言葉で、この度原爆について語らせて頂きました。
私は当時あの場所にいたわけではないし、現地で生まれ育った人間でもないし、多くの本を読んだわけではありません。しかし、だからといってあの事件を語り継がないでいる気はありません。広島と長崎で行われたことは、どれほど正当化しようとしても、間違いなく悪であることに変わりないからです。あれは、強烈な暴力です。どちらのせいだとかそういう問題じゃなく、極悪の所業なのです。

これからも私は文学という形を通して、原爆に限らず暴力というものの恐ろしさについて言及していくつもりです。誰か一人にでも、この思いが届くのであれば幸いです。


⭐︎主要参考文献

・大江健三郎『ヒロシマ・ノート』 岩波新書
・中澤正夫『ヒバクシャの心の傷を追って』 岩波現代文庫
・中沢啓治『はだしのゲン』 中公文庫

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