Katsurao AIR アーティストインタビュー vol.9 丹治りえさん(前編)
アーティストが葛尾村に滞在してリサーチや制作を行うアーティスト・イン・レジデンス・プログラム「Katsurao AIR(カツラオエアー)」。2025年6~7月の2か月間、3名のアーティストが葛尾村で暮らし、それぞれの視点から制作に取り組んでいます。7月24日(木)から27日(日)の4日間は、葛尾村内にて、制作過程を公開するオープンスタジオ形式での活動報告会を実施いたします。
本稿では、滞在アーティスト 丹治りえさんのインタビューをお届けします。(聞き手:Katsurao Collective 阪本健吾)
TANJI Rie
丹治 りえ
福島県生まれ、沖縄を拠点に活動。2009年 沖縄県立芸術大学大学院 彫刻専攻修了。建造物の中の日常空間をモチーフに、建築資材や日用品など身近にある素材を用い、仮設的な構造物を制作。同時に社会的な力学によって生まれる構造とともにその影で見過ごされてしまう個人的な出来事に関心を寄せ、モノや場に対する人間の感覚を揺さぶる作品を展開している。
主な展示・活動
2024年 アーカスプロジェクト2024いばらき アーティスト・イン・レジデンスプログラム
2023年 個展「みおぼえのある風景」 RENEMIA/Luft shop(沖縄)
2022年 個展「仮設|部分」 gallery rougheryet(沖縄)
2024年 「パビリオン構想展」今帰仁村中央公民館(沖縄)
2023年 「森林限界を越えて」Gotemba Apartment Store(静岡)
2022年 「REDRAW TRAGEDY」Kunstlerforum Bonn(ドイツ ボン)
2021年 「SICF22」スパイラルホール(東京)
2018年 「黄金町バザール2018」黄金町エリアマネジメントセンター(神奈川)
コミッションワークとして、YAWN YARD(2024年/設計:Schemata Architect)

——丹治さんは、福島県福島市のご出身で、現在は沖縄県那覇市を拠点に活動を続けていらっしゃいます。幼少期の福島での思い出からお伺いしたいのですが、どんな子どもだったのでしょうか。
祖父母と一緒に住んでいて、畑仕事のようすをよく見ていた記憶があります。じいちゃんやばあちゃんの手の仕草、たとえば苗を切ってくっつけたりとか、苗が入っているポットの土をキュッキュッて押したりとか、そういったこまごまとした何気ない仕草が好きでしたね。
——渋い子どもですね(笑)
そうかもしれません(笑) 土をいじったり、虫を観察したり、そういう一人あそびも好きでした。
——習い事とか、クラブ活動とかはどうでしたか?
小学6年生の頃に、バスケットボールを1年間やっていたことがあります。
——やっぱり!先日村の若い人たちと集まって一緒にバスケをしたとき、お上手だなと思いました。
やりましたね(笑)

それから、幼稚園から小学校低学年くらいまで預けられていた造形教室に行くのが好きでした。お絵描きだけではなくて、小さい頃からカッターやノコギリを使わせてもらっていたような記憶があります。それがきっかけで、小学校の図工の時間も大好きになりましたね。
——つくり手としての原体験なのかもしれませんね。その後の進路選択の際も、それが影響したのでしょうか。
そうですね。ただ、小学校5年生くらいの頃に、兄がやっていた流れでマーチングバンドをはじめて、なんだかんだで大学1年生くらいまで続けていたんです。高校生の頃には、そういったマーチングのインストラクター(指導者)になりたいという思いもありました。土日はマーチングに打ち込んでいたので、あまり他の遊びはしていなかったような気がします。
——マーチングですか!演奏のスキルも体力も求められますし、ハードな印象があります。
ドラムライン(打楽器)をやっていました。インストラクターの方々は別の仕事をやりながら指導をしてくれていたので、今思えば、その道で食べていくのはかなり難しかっただろうなと思います。
結果的に、美術をやりたいと思って進路を検討するようになりました。当時はあまり何も分かっていなくて、「なんでもできそうだな」というざっくりとした印象から、美大のデザイン系の学科を志望しました。当時、まだ福島市内に美大受験のための画塾があって、そこに通うのも楽しかったですね。
今もそうだと思いますが、美大や芸大に進学しようと思ったら、基本的には東京へ出るというのが自然な流れでした。
——大学進学のタイミングで福島を離れるわけですね。それまで育った地元福島の印象や、東京で暮らしてみての感覚はどういったものでしたか?
福島はコミュニティが狭いので、高校生ながらに外に出たいなと思っていました。なので進学後は、ホームシック的な感情もなく、東京での暮らしを楽しんでいましたね。
——大学での学業はいかがでしたか?
デザイン専攻ではあったのですが、その頃はじめて現代美術の領域にも触れるようになって、どんどん興味がそちらのほうに移っていきました。在学中に専攻を彫刻に変えて、その後の修士課程でも彫刻学科を修了しました。
——在学中から現在まで、さまざまな教育や刺激を受けながらアーティストとしての丹治さんが形成されてきたと思います。中でも大きかった経験を上げるとしたらどんなものですか?
沖縄に住んだことは大きかったですね。元々すごく沖縄に関心があったというわけではなくて、修士課程に進むときにいろいろな条件を検討して、たまたま沖縄に進学することにしたんです。
そのときは、沖縄の歴史について、もちろん認識はしていましたけど、自分にとって直接的に重要だという感覚はありませんでした。私が関わるべきことなのかどうかわからなかったんです。
修士課程を終えて、再び東京に戻ってきた時期があったのですが、一度沖縄に住んだ後の東京の暮らしに、どこか馴染めないと感じたんですよね。前は楽しく東京で暮らしていたのに、何か自分の中で感覚が変わってしまって。
やっぱり沖縄で仕事をしよう、と沖縄への再移住の準備をしていた2011年の春に、東日本大震災が起こりました。
——沖縄に戻る少し前に、東京で震災を経験されたのですね。
はい。そのときから、沖縄の歴史的背景とか、今置かれている現状とか……そういったものが、福島のことも含めて、自分の中でリアルに立ち上がったような感じがしたんです。学生時代に沖縄に住んでいた頃とは、もう全く違う見え方に変わってきましたね。
自身の制作に関しても、その頃から、多くの人が思い浮かべるような「彫刻」の作品だけではなくて、さまざまな素材や表現方法を取り入れるようになっていきました。学生時代に体得した制作論は、そのタイミングでリセットされましたね。
——それほどまでに大きな影響だったのですね。

撮影:Kato Hajime
後編へつづく
アーティストインレジデンスプログラム「Katsurao AIR」
本インタビューの完全版を、各種リスニングサービス および note音声投稿にて配信中です。
