見出し画像

日光道中・奥州道中 その15「この春も カンカンケロケロ 松は聴く(千住宿)」

 千住宿をさらに進みます。

まずは、みかんの彩りから

 少し前の記事でも取り上げた場所、日光道中と水戸街道の追分に戻ります。

春の盛り、花々を眺めるのも楽しい季節です♪
梅の花かな?
明るい色合いの花が賑やかに咲いています♪
この先の水戸街道、水戸は梅の名所ですね


 梅の花を眺めつつ、追分での一休み♪
 花の匂いでお腹が満ちたら、再び散歩に戻りましょう。

 街道から少しだけ西側に入ったところにある「安養院」の門が見えてきました。

 「長福寺」の名を持つ真言宗のお寺です。
 門前には、さるさる(猿)の姿も刻まれた、さるさる塔と呼びたくなりそうな(私だけ?)庚申塔などの石造物もあります。

石仏の前に、花が開きました!
ポンッ!
(狸の幻術手妻ではありませんよ~
単なる、季節違いの画像を貼り付けただけですよ~)
さるさる塔 拡大その1
(庚申塔・・・)
さるさる塔 拡大その2
(庚申塔です)


 さるさる庚申塔の側面。
 庚申塔をつくる前提となる信仰行事「庚申講」にまつわる「三し(戸の横棒のないような字)之毒」といった文字が記されています。

(なお、さるさる庚申塔について、私なりの理解は、この「西日暮里」記事の後半に載せています:自分用備忘録 どこの記事に書いたか忘れるので)

 安養院の境内に入ります(この山門は開けられなかったはずなので、どこかの抜け道か通用口から立ち入っているはず)。

 安養院の山門、内側から。
 散歩のネタ本によると、文政十一年(1828年)の建立とのことです。

 この安養院(長福寺)の由来、創建年度などは判然としませんが、散歩本によっては、鎌倉時代まで由緒を遡るものもあります。
 確実なところでは、慶長三年(1598年)、火災による被害後に現在地に移転したという話があるようです。
 慶長三年は、徳川家康が関東に移り、徳川の配下により江戸や関東が開発されつつある年代、江戸と千住を結ぶ「千住大橋」がつくられた数年後です。
 当時は、「日光街道・千住宿」の整備よりは古い年代ですが、この頃から、寺がつくられるような村落がこの地にあったのかな??

(なお、サイトによっては、慶長三年に兵火で焼失と書いてあるものもありますが、この年代に家康の膝元近くに敵が攻め込むような合戦は思いつかず、野盗の類による不審火はあったとしても、合戦という意味での「兵火」は考えにくい気もするのですが・・・ひとりごと)

 安養院がこの地につくられた慶長の時代から、400年以上にわたってこの境内を見守り続けていたと伝えられる「くろまつ(黒松)」の木です。
 
 そして、境内には、「黒松」が三百余年にわたって見守ってきたであろうお地蔵様も祀られています。

 仲直し(仲直り、ではなく、なかよし)地蔵尊。
 江戸時代前期の寛文年間、西暦1664年頃と1670年頃にそれぞれ建立された、6歳ほどの年の差の「仲直し」地蔵です。

 元禄時代の西暦1699年頃につくられたという「かんかん地蔵尊」。
 小石で「カンカン」と叩きながら願い事をすると、願いが叶うという言い伝えがあるそうで、参拝された皆さまが「カンカン」するために、顔などがすり減ってしまっています・・・。
 お寺の黒松は、これまでに数えきれないほどに「カンカン」という音を聴いては、願いを祈る人々の姿を見続けてきたのかもしれません。

 そして、「黒松」が、千住の宿場町がつくられるよりも前から、四百年以上にわたる歳月を見守り続けてきた境内の地から、また新たな春の命がうまれていました。

ケロ~~~~♪