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ウィトゲンシュタイン入門書3冊を読んだ感想

ウィトゲンシュタインの入門書を3冊読みました。
端的な感想はXにポストしましたが、ある程度の長めの強度のある文章でアウトプットしないと自身の納得感に到達しないと判断したため、改めてこちらnoteでも感想をまとめたいと思います。


前期『論理哲学論考』

前期の『論理哲学論考』の面白さは、「世界から言葉を説明すること」にあるのではなく、「言語が世界をどのような論理形式によって記述しうるか」という条件を点検する点にあります。  
形式・事態・事実、写像理論、ナンセンスといった区別は、言語が意味をもって世界を描写できる範囲を高い精度で画定するための装置であり、その境界を引くことで、同時に言語の限界も明確になります。  

後期『哲学探究』

後期に提示される「言語ゲーム」や「生活形式」の議論では、意味が文の構造に内在するのではなく、「言語の使用や実践」によって成立することが示されます。  
日常言語を考えると、言語は命題の形式そのものよりも、反復される作法や共有された期待、ズレが生じたときの修正の積み重ねといった実践によって支えられていると感じます。  
この点で「言語ゲーム」や「生活形式」は、意味を最終的に定義する理論というより、「意味が立ち上がる現場を見渡すための見取り図」として機能しているように思えます。  

例えば『二郎のコール』は、『論理哲学論考』の射程では命題としての形式を欠くため、ナンセンスと規定され得るものです。  
しかし実際には、特定の言語ゲームの内部で明確な役割と結果を持っています。  
ここでは意味の有無は、文の論理形式ではなく、ゲームの参加者が何を当然視し、どのように応答し、その結果が成功として受け取られるかという実践の秩序に依存しています。  

同様に、『ASDの症例』として語られるテキスト信仰と、ニュアンスに依存する実践的会話とのズレのようなものも、単なる能力差というより、異なる言語ゲームの階層差として理解できるように思います。  
どちらか一方が本質的に誤っているわけではなく、それぞれが異なる生活形式の内部で成立している。  
ここで重要なのは、意味の基盤が内的な表象にあるのではなく、共有された規則と用法の運用にあるという点です。

まとめ・発展  

こうして見ると、ウィトゲンシュタインの議論は、前期・後期を通じて体系や経験論を確立することを目的としたものではなかったように思えます。  
むしろ、「言語が意味をもつ条件とその限界がどこで露呈するのかを点検し、哲学的な混乱をほどく試み」だったと言ったほうが近い。  

前期では論理形式によって限界線が引かれ、後期では使用の現場に降りることで、その線が実践の中でどのように働き、破綻し、修復されているかが見えてきます。  
両者は断絶というより、同じ関心が別の角度から展開されているように感じました。  

更に私にとって印象的だったのは、「ウィトゲンシュタインの語りそのものが一つの生活形式の一部である」と読める点です。  
彼の概念は、世界の真理を宣言するものというより、「この仕方で語ると何が見えて、何が語れなくなるのか」を、本人が引き受けた制約込みで示す言動の形式として現れています。  

ここでは語りそのものが、理論の提示というより「限界を伴う実践」として成立しているように見えます。  
私はこの点を「納得感(意識や制限などをすべて踏まえたうえでの言動)が実践を確定させる」という自分なりの立場と重ねて理解しました。  

なので私は「言語ゲーム」や「生活形式」を真理として採用しているわけではありません。  
むしろ、ある見取り図を自分の生活の中でどこまで取り入れ、どこで留保し、どこで拒否するかという選択そのものが理解や学習であり、その選択は各人の納得感によって動かされていると考えます。
ウィトゲンシュタインの議論は、そのような「取り入れる/取り入れない」という実践が、理論的に決着していないにも関わらず、日常の秩序が運用として成立していることを可視化したものだと腑に落ちました。

画像:Ludwig Wittgenstein(1930)
Photo by Moritz Nähr / Public Domain(Wikimedia Commons)

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