【ホラー小説】すべて済んだら、私と踊って①
あるアパートで男女の他殺体が見つかる。亡くなっていたのは、その部屋に住む男子大生と、男子大生の交際相手の女の親友・麗。交際相手である透子は姿を消していた。
時は戻り、中学生のころ、少女だった麗と透子は出会い、共通の趣味で打ち解け合う。それは猟奇殺人や異常心理についての尋常ざる興味だった。ふたりは交換日記をつけはじめ、実際にホームレスを襲うなど闇に共鳴していった。が、大学進学後、ぱたりとやりとりが途切れてしまう。恋人ができた透子が、麗から距離をとったのだ。
親友を奪い返すため、麗は考えた。そうだ、恋人を殺して一緒に解体してみればいいんだ。きっと、また昔のように戻れる、と。しかし、その判断は麗と透子の永遠の決別となってしまう。
『すべて済んだら、私と踊って』本文
とある新聞記事より
アパートに男女2遺体、男性は冷蔵庫内 同居の女を追う、殺人容疑視野 千葉
△△市内のアパートで男女の遺体が見つかり、千葉県警は殺人事件の可能性を視野に捜査を始めた。男性は室内の冷蔵庫の中から、女性はその近くに倒れた状態で発見された。県警は、この部屋に同居していた女性の交際相手の男が事情を知っているとみて、行方を追っている。
県警によると、数日前から女性と連絡がつかないことを不審に思った女性の親族がアパートを訪問。室内を確認したところ、2人の遺体を見つけた。
2人はいずれも死後3〜4日が経過しているとみられる。遺体の状況などから、男性は首を絞められて殺害され、女性は刃物で刺されて死亡した可能性があるという。県警はいなくなった女が事情を知っているとして、捜査を進めている。
上
それは、私にとってとびきり大切な思い出だった。
となりにいる彼女の肩と、自分の肩がぶつかる。とがった骨が刺さるようだったけれど、不快には感じない。むしろ、その距離に入れてもらえたことに感動を覚えていた。
じりじりと強い光を放つ、夏の太陽のした、彼女と並んでいる。
少女たちの頼りない影は、グラウンドのひび割れた土の上にくっきりと落ちていた。つややかな黒髪がまっすぐと垂れ、地面についてしまいそうなのを全く頓着していない。
緑の黒髪、その形容詞はきっと、彼女のためにあるのだ。それくらい、とてもきれいな黒髪をしている。
「たとえばさ」
「うん」
彼女の声は高く、軽やかに響く。いつまでだって聞いていたいと思える声だ。
「ぼくたちが将来、べつべつの進路を選んだとしても、このことはずっと内緒にしておこう」
「うん」
「そうすれば、何もなかったことになる。ぼくたちふたりの、秘密にすればいい」
ブーンと、蠅の低い羽音がする。目の前を通り過ぎた影に、私は思わず首を振った。それをみて、彼女がふっと笑った。
目尻を下げ、口を軽く開けた、無防備であどけない笑み。
いつもまっすぐと黒板を見て、丁寧に板書している横顔にはない、子供らしさ。
私もつられて笑った。
ふたりの足下には、先日ウサギ小屋から脱走したウサギが倒れていた。 見つけた瞬間、すぐにわかった。
もう、これは物体だ。肉体ではなくなった。黒々とした目は濁り、無様に前歯が出ていた。腹が破られ、あたりには血と、内臓や肉のなれの果てが散っていた。
「イタチかな」
「たぶんね」
ふたりの前で、ウサギが死んでいる。
遠くから、屍肉を狙うカラスが様子を窺っていた。私たちが立ち去れば、このウサギを食うのだろう。
学校のグラウンドの角、昨年度末で廃部になったソフトテニス部の物置の影。
そこで息絶えたウサギ。
彼女は愛おしそうに、その死骸を見つめていた。
私は思う。
彼女以上に自分を理解し、自分以上に彼女を理解できる人間はいない。 この友情は永遠なのだと。
誰にも見せなかった私の魂の形を、色を、知っているのは、彼女だけだ。
私の幼い頃の記憶のひとつに、道端に落ちているアイスというものがある。
それはおそらく、三つ上の姉が食べている途中でこぼした棒アイスのかけらで、溶けて形をなくしていくところだ。そこに蟻や名前の知らない羽虫が群がっていた。
溺れてしまいそうなほど、アイスはどろどろと溶けていき、虫たちはもがいていた。罠のようだった。
もうひとつは、家から少し離れた公園のそばで、車かなにかに轢かれて死んでいた動物だ。
おそらく狸だと思う。いや、犬か猫かもしれない。きちんと何かは覚えていない、些末なことだ。
ただ、だらんと手足を繋げ出して、裂けた腹の隙間から内臓が出ていた。アスファルトの上で乾いた血の色を見たのははじめてだった。
――麗、そんなもの見ちゃだめ!
母は鋭い声で私を叱り、その手を強く引っ張った。驚いて、火がついたように泣いたことを覚えている。
思えばこれが、すべてのはじまりだったのかもしれない。
私が育ったのは、何の変哲もない地方都市だ。その郊外にある新興住宅地に実家がある。
地方銀行の行員の父、近くの建築界社の事務パートの母、姉、私という四人家族だ。
母はいつも奥様然として、家をきれいにしていくことに執心していた。猫の額ほどの庭もそうだし、インテリアや食器類なども雑誌を見ながら、あれこれやっていた。
季節季節のプランターの寄せ植え、ソファーのカバー、花瓶と呼ぶには気後れしそうなガラスでできた奇妙な形のフラワーベース。どこかの国の少数民族が作った布を使用したランチョンマット。カトラリーは異様にぴかぴかで、皿はずしりと重い磁器。ふたりの子どもを育てていると窺い知れないような、清潔で整頓された家。
分譲住宅の中で、そうやって整えていることを誇りにしていた。道々に並んだ同じ顔をした家のなかで、飛び抜けてきれいだと誰もが言う。それをいつも母は満足そうに聞いていた。
家に執心するだけあって、母は自らにも厳しい美を課していた。努力して努力して、痩せた体を維持し、化粧っけがないように見える丁寧な化粧を追求し続けた。丸顔で愛らしい顔立ちの母。
ただ、残念ながら見栄えがするのは、家だけだった。
夫も ふたりの娘も、それほど美しくはない。母はそれでも、姉妹や父の服を整え、髪型も細かく指定した。見てくれは奇妙なほど揃った一家だった。舞台の書き割りのように。
そんな母は、一度こうと決めると、夜叉のような顔になる。普段はくりくりしたリスのような目をしているのに、急に目じりが吊り上がり、唇を尖らせる。
つついたらはじけてしまいそうだと思うくらい張り詰める。実際、何度か突いてみたが、当然割れることはなかった。うっとうしそうに振り払われるだけだ。
完璧で素敵な家。
それを守りたい母。
その手伝いをすることが私は嫌いではなかった。特に庭いじりはよく手伝った。
庭の土を掘り、何かの虫が出てくるとそれを眺めていた。石の裏でうごめく虫の名前をひとつひとつ思い出す。
両親は、私が虫が好きなのだと思って博物館や動物園、そういったところにたくさん連れていってくれた。
確かに楽しかった。化石や標本、そういったものは何時間でも眺めていられた。姉は早々に飽きてしまい、大体父が連れ出してレストランや近くのゲームセンターで時間を潰していたものだ。
――あんたいるとつまんない。
姉は口角を思いっきり下げ、ぶすくれながら言う。そして、毎回律儀に、母に「お姉ちゃんでしょ」と怒られていた。
言わなきゃいいのに。どうせ、怒られるし、結果はかわらないのだから。出生順序をひっくり返すことなんて不可能だ。
私は地面にうずくまり、体の何倍もの大きさの葉虫の死体を必死で運ぶ蟻から視線をあげて、睨むようにこちらを見下ろしてくる姉に思っていた。 何も私が、両親から溺愛されていたという話ではない。
ほとんどのものは姉からのおさがりで、新しく買ってもらうことはなかった。 時々新品のおもちゃをもらうと、姉はそれを力づくで奪っていった。 私は驚きはしたものの、泣かなかった。姉が引っ張ると私はすぐに手を放してしまうので、大抵の場合、姉の方が勢いよく倒れた。
姉と私は昔から違っていた。友達と遊ぶことが大好きな姉と、家の中でひとり本を読むのが好きな妹。姉が好むものを私はさして欲しいとは思わなかったので、泣いたり怒ったりしなかった。どうでもよかった。
そして、それが本心だと姉には伝わっていたようだ。時々、ものすごく気味の悪いようのを見るような目で私を見ていた。
私は母の実家が好きだった。八王子にある祖父母の家は古い一戸建てで、周囲にはたくさんの草むらがあった。
当時は街灯も少なく、夜には誰も歩かず薄暗い。昔は蛍が出たんだと、祖父は顔を合わせるたび言っていた。蛍はどうして光のだろう、光る部分をしげしげ見てみたかった。
幼稚園ぐらいの頃だった。夜に、祖父母の家のすりガラスに何かがペトリとついている。
――あれは何、たくさんいる?
そう聞くと祖父は笑った。
――カエルだよ。アマガエルこの時期になると、ああやって玄関に張り付くんだ。本当にたくさんいるんだよ。嫌になるぐらい。道なんて、轢かれたり踏まれたりしたものがいっぱい並んでるよ。
祖母はそんな言い方しなくてもと呆れてため息を漏らした。
私は単純にとても不思議に思った。車に轢かれるほどたくさんいるというのが想像できなかったし、カエルが轢かれたらどうなるのか分からなかった。
死んだらどうなるのだろう。
轢かれたら痛いのだろうか。そう思い、こっそり人目を盗んで夜の庭に出た。
磨りガラスに相も変わらず張り付いているアマガエルに、恐る恐る手を伸ばす。
指先が触れたその皮膚はぬめっていて、冷たかった。
手のひらに乗せてみる。先ほどまでは眠ったように動かなかったカエルの頬がプクプクと膨らむ。
不思議な生き物だった。目はギョロキョロしていて、口は尖っている。おたまじゃくしを知っていたので、どうしてこうなるのか理解ができなかった。
まじまじと眺めたあとに、私は静かに両手をパチンと閉じた。まるで本を閉じるように。
その小さな手のひらの間で、カエルは静かに潰れた。悲鳴をあげなかった。
カエルは悲鳴をあげない。
私は淡々と玄関のガラスのカエルを引き剥がして、1 匹 1 匹丁寧に潰した。
*
「ねえ」
中学校の図書室で、澄んだ高音が降って来て、私は手を止めて、顔を上げた。
閲覧室の奥まった場所が、私の定位置だ。
顔を上げると、ぶかぶかの真新しいセーラー服の少女が私を見下ろしていた。
顔の中で、目だけがやけに大きく、口が小さい。特徴的な顔立ちだ。
誰だろうか。クラスメイトにはいないはずだ。中学校に進学したばかりとはいえ、私はクラスメイトの顔を把握していた。
小柄で、まだまだ幼さの残った彼女は、一見して品がいい。スカーフにしっかりアイロンが当たっている。
「君、そういう本が好きなの?」
小声だが、よく通る声だ。
私は本と相手を交互に見て、首をかしげた。
「ちょっとね」
なんとでもとれる返事をする。
相手はゆっくりと瞬きをした。
「何度か君をみてる。ぼくが読みたい本を君が読んでるんだ」
「……へえ?」
「その本は、ぼくが先週読んだよ」
どこか誇らしげな声で告げて、彼女はふっと笑った。
そして、手に持っていたノートを私が読んでいる本の上に置いた。
なんの変哲もないキャンパスノートだ。
「なに……?」
「別に」
それだけ言って、彼女はきびすを返した。そして、そのまま図書室を出て行く。
私は彼女が見えなくなってから、そのノートを開いた。
「……っ」
声を上げそうになって、なんとかこらえた。
そこに描いてあったのは、水死体だ。
鉛筆で丁寧に描かれた、水死体。横には、几帳面そうな文字で特徴をまとめている。
この遺体を、知っている。
インターネットに上がっていた写真に映っていた。発見場所と記載された住所も大体合っている。
口のなかが、カラカラに乾いていく。
……彼女は、私を理解してくれるかもしれない。
その思いに、じわりと涙がこみ上げた。
ああ、自分はずっと孤独だったのだ。
はじめて、私はそう思った。
小学校に上がった頃には、目立つない方がいいということを、私は学習していた。姉は学級崩壊をしたクラスに在籍していて、先生たちが私を警戒していたのだ。
つまり、姉は問題児で、騒ぎを起こす側の子供だった。よく母が先生たちと話し合って、姉を連れてどこかに謝りに行っていた。
私は ひとり、留守番をしている時間が長かった。別段、文句はない。たくさんの本を読み、いろんなテレビを見ながら両親を待っていた。
父の仕事は帰るのが遅く、母や姉はいつ帰ってくるかわからない。
その時間はとても贅沢なものに思えた。真っ先に宿題をし、そのあとはひたすら本を読んだ。本は学校や、近くの市の図書館から借りてくるものだ。 私がおとなしいので、大体の大人は私に注意を払わなくなる。その隙に、私はいろんなことを学んだ。
例えば、カバの顎の力はとても強くて、肉食獣でさえも襲うことはないこと。
死後硬直が起こるのは死んですぐではないこと。
死斑は時間とともに移動すること。
人間が首を絞められた時には、首の骨を骨折するが、その骨折の仕方で他殺か自殺かが分かること。
人間を酸につけて溶かすのには何日必要か、その溶かした遺体は匂いがするのか。
そういったことを、静かに静かに、私は身の内に溜め込んでいった。
目立ってはいけない。
私は知っている。あまり死に関わることを知りたがると、大人は気味悪がるし嫌がる。
あの日カエルをたくさん殺してしまった私を見て、母は一瞬嫌悪感をあらわにしたし、祖父はただ大笑いしていたが、祖母はブツブツ言って掃除していた。
気になっただけ。カエルを潰すことが楽しかっただけなのだ。
母は、時々私を監視しているような気がする。だからこそ、私は慎重に好きなものを学んでいった。それが良いものか悪いものか知らない。
時々、想像するのだ。
クラスのうるさい奴を椅子に縛り付け、その指と指の間に鉛筆を刺したらどうなるのだろう。
いやなことがあると、その相手の目玉に針を刺したり、屋上から突き落としたり、そういう妄想にふけってやり過ごした。
姉が親の目を盗んで私をぶつときは、とびきりひどい妄想をした。姉の上に馬乗りになり、その口に、姉が大事にしているものをどんどん詰め込んでいく。
苦しむ姉を殴って黙らせて、その体が動かなくなるまで、宝物をしまってあげるのだ。
それは、一種の祈りだった。
翌日、私は学校の図書室の、同じ場所に座って彼女を待っていた。
彼女はその日も凜とした姿で現れ、私をみとめると、目を丸めた。そして、静かにこちらに歩いてくる。
ばくんばくんと、大きく心臓が鳴った。なんて話しかけよう、何を言おう。
よく描けていたね?
どうして私にこれを?
あなたの名前は?
いつからこういうものが好きなの?
思い浮かぶのに、舌がもつれて、うまい言葉が浮かばない。
校庭から聞こえる野球部の声が、やけに大きく聞こえる。 彼女は、すぐ横の席に座った。
青白いほどに白い肌だ。
「これ」
私が言えたのは、これだけだった。
テーブルに例のノートを出して、彼女の前に押し出す。
彼女は何も言わずに、その表紙をめくり、瞬きをした。
その目が、私を見る。
白目は青みがかりガラスのようで、その上に黒曜石のような瞳の大きな目。
作り物のようにきれいだった。
この目で水死体を観察し、丁寧にノートに描いたのだ。
私に見せるために。私に知らせるために。
仲間だと。
ノートに、私は『酸素65.0%、炭素18.0%、水素10.0%、窒素3.0%、カルシウム1.5%、リン1.0%、少量元素0.9%、微量元素0.6%』とだけ書いた。
彼女は笑った。
「人間だね。これ」
彼女の名前は、井上透子という。
*
ノートのやりとりは、ひそやかに続いた。私と彼女はとてもよく似ているように思えたが、実際には違うことも多かった。私が彼女のの違いを数えるたびに、彼女はおかしそうに笑うけれど、その声があまりにも可愛らしいので、とても嬉しい気持ちになったものだ。
私は、人の中身を気にしなかったが、中身が気になるようだった。中身というものは言葉通りだ。心や魂ではなく、内臓。血やそのほかのなにか。
彼女はよく死体の絵を描いた。内臓や体の一部の時もあった。
対してわたしは、殺人鬼の話を書いていった。誰かに話すことは憚かれるような内容でもノートになら書けた。
彼女の丸っこいくせ文字は、おとなしそうで誰にも敵意を持ちそうにないのに、彼女はまなざしの強さそのままに、好みはナイフのよう鋭く、誰よりも残酷だった。
そうやって彼女と私はお互いを必要としていたのだと思う。
私たちは犯罪者だったのだろうか。異常者だったのだろうか。
そのことは分からない。
でも、私も彼女も最新の注意を払って行動していた。見つかってしまえば、いいことは起きないことは理解している。
大人は眉をひめ、きっと私たちを引き離す。
昔、ニュージーランドでそういう事件があった。ふたりの少女が同じ想像世界を共有し、最終的に邪魔をしていると感じた片方の母親を殺してしまう。
それが露見して、ふたりは逮捕された。彼女たちは「お互いに二度と会わない」と誓約することで許された。
そんなことになったら、私は呼吸ができなくなる。せっかく彼女に出会えたのに、今更失ってなるものか。
私は他の友人たちに気づかれないように、交換日記を続けた。図書館以外では会わないようにした。
私たちは 1 番の親友だという自負があったが、誰にもそれを言わなかった。
言う必要もない。
私のことは彼女が知っていればいいし、彼女の魂の色も、私が一番知っている。
そんな中、中学 3 年生になった。受験が目の前に迫ってくる。
彼女の進路を聞いたことはなかったし、彼女もノートにそれを書いてきたことはなかった。お互いがお互いの趣味だけで繋がっている。誰よりも純粋な友達だったのだ。
かわされるノートの札数は増えていく。使い切ったノートは、こっそりと ふたりで公園の隅に埋めた。
誰も来ないような古びた児童公園。
教室では興味のない漫画やアニメ、YouTubeの話を友人たちと聞きながら、「マジ次の模試ヤバい」とか「お小遣い足りない~」とか馬鹿げたことで笑いあっている。貼り付けた笑顔はいつか、ぼろぼろと壊れていきそうで、頬が引きつる感覚が消えない。
彼女といるとき、私はそんな仮面をかぶらずにいられた。
時折、彼女を見かけると彼女はいつもひとりだった。クラスメイトから少し離れたところで、何も気にしていないような顔でたたずんでいる。
でも、きっと彼女も苦しかったのだ。
ノートには、あふれんばかりの言葉と、絵が埋め尽くされている。彼女の本質は、そこに顕現していた。
生きるために、お互いが必要だった。バレないように重ねていった嘘も、バレないように慎重にかわした眼差しも、私の思い出にしっかりと残っている。
人生が変わったのは、ある時だ。たった一日だけれど、永遠のように幸せだった。
中3 の夏休み。私は彼女と歩いていた。
ただ、彼女はどこかいらだっているように見えた。
「ねえ、どうしたの?」
「我慢がもうできない」
「え?」
私は不思議に思った。
我慢我慢。我慢。
何も思いつかない。
何か我慢してるの? お手洗いにでも行きたい? いくつか尋ねると彼女は首を振った。
「何か我慢しているの?」
「夢を見るの」
彼女は真顔で、じっと道の向こうに揺らめく逃げ水と眺めていた。
その瞳は、目をランランと輝かせていた。
胸の高鳴りを抑えられないとでもいうような顔で、私を振り向く。
「君なら分かってくれる? ぼくどうしても抑えられそうにない」
私は思わず口をつぐんだ。分からないとは言えないからだ。
でも、今までふたりで守ってきていたラインを、早々に飛び越える話であることも分かっていた。
私たちは守ることを決めていたのだ、お互いの趣味のために。
動物をいじめてはいけないし、小さな子供を殴ってもいけない。
そういうことをしてると途端に目をつけられて、私たちの趣味は見つかってしまう。
そして、興味関心を持つ方向が違うというだけで、私たちは迫害を受けてしまうのだ。
でも、好奇心がどんどん膨らんでいるのは、私だって一緒だった。理解してくれる相手がいる、いろんな話ができて、ノートの上とはいえ、たくさんのことを話し合った。
憧れの殺人鬼。憧れの事件、理解ができない動機。とんでもない死に方をした謎の人たち。
私は楽しかったのだ。自分自身を十字架にくくりつけてて死んだ男の話をノートに書いた時、彼女はその写真をインターネット上から見つけてきて、丁寧にスケッチしてくれた。
どんどん彼女の絵は上手くなり、とてもリアルに描けるようになっていた。
こんなこと美術には使えないのにね、と笑う彼女がとても可愛らしくて。
いつも、ひとりでポツンと過ごしている彼女の本当の姿を知っているということが、私にとってはとても誇らしかった。
しかし、限界だったのかもしれない。お互いに膨れ上がった好奇心は弾けそうになり、その機会を待っていたのだ。
今日がその日だったのかも
私は知らずに息を飲んだ。
私もきっと同じように目をランランとさせて彼女を見ているだろう。彼女は私の手を優しく握った。
「ねえ、いいところを知ってるの」
甘い香りがする。その匂いに私は胸をときめかせる。
頷いてはいけないし、足を踏み出してもいけない。そう思うのに、私は彼女の小さな手をそっと握り返した。
そして頷く。
「いいとこ、ってどこ?」
「こっち!」
彼女は私の手を引いて走り出した。私もそのあとを駆けていく。
とても楽しかった。体育はあんなに嫌いなのに、彼女と走る夏の道はまるで、楽園に向かう唯一の道のようだ。
答え合わせだ。
私たちの答え合わせが、そこにあるのだ。
何に誘われているのか分からないが、きっと楽しいことのはずだ。
彼女の思いつきは、いつだって素晴らしい。もしかして何か見せたいものがあるのだろうか。ワクワクしながら慣れた町を走っていく。
彼女だけが鮮やかで、世界は輝きを失う。
川が近づいてくる。
街の外れを流れる大きな川だ。子供だけでは行ってはいけないと言われている。例年、夏には川遊びをしている人や川釣りをしている人が死んでしまう。そういう大きな川だった。
流れが急で足を取られてしまうのだ。
「ぼく、あの川がすごく好きなんだ。あの川にはね。いろんな思い出がある。君にも、わけてあげるね。ぼくの特別な秘密」
なんと彼女にはまだ秘密があったのか。
私はほとんど彼女に明かしていたのに、彼女はとっておきのものを隠していた。それは何だろうか? 本当に動物を殺してしまったんだろうか? それは、すなわち、私を裏切っていたことになる。
「やらないようにしよう」と決めたのは彼女だったのに。
「大人はわかってくれないから、見つからないようにして、大事にしていこう」と、この絆を守ろうと彼女が言ったのに。そういう絶望のような、怒りのような熱が胸の奥に渦巻いてきた。
そのくせ、私の手は彼女の手をぎゅっと握る。
置いていかれたくなかった、これ以上彼女のことで知らないことが増えるなんて耐えられなかった。
川が近づいてくる、夏の青空を移した水面がきらきらと輝く。穏やかな川の流れ、この川はずっとここを流れている。
大きな橋のたもとに彼女は立った。
「この下にいいものがあるの」
いいもの。
想像がつかなかった。彼女はひょいと欄干から身を乗り出して下を覗く。手招きされたので、私も真似をして覗いた。
そして、あっと声を上げかけた。
そこにはビニールハウスがあった。おそらく、ホームレスの家だろう。昔はこの河川敷の橋の下にはホームレスが何人も住み着いていた。子どもたちを近づけなかった理由も、そうだ。
いいものというのはこれのこと……? と首を傾げると、彼女は満面の笑みで振り返った。おもちゃをもらった子供のような、屈託のない表情。
「ね、いいものでしょ?」
「……どういうこと?」
「ふたりで思い出を作ろうよ。だって、高校生になったら別々の学校に行っちゃうし、きっと今みたいにやり取りできなくなるもの。だからさ、ぼくと君だけのとびっきりの思い出が作りたいの。それに、――もう我慢ができない。見てみたいんだ、本物を」
それは悪魔の誘いだと思った。
彼女の体温が、ほんのすぐそばにある。
人の姿は見えないが、ブルーシート角に、ボロボロの靴がきちんと揃えてあった。
元々は真っ白だったスニーカーは、茶色く汚れて擦り切れている。履いたらきっと親指は出てしまうだろう大きな穴が開いている。
「ねえ、いい考えだと思うんだ」
「思い出、飛び切りの……」
「そう、ぼくと君だけの」
あれを襲うのか?
あれを?
あれが彼女の言ういいもの?
そう思うと体が震えた。
私はたくさんの殺人鬼を知っている。
世界中のいろんな事件を調べた。猟奇殺人と言われるもの、稀代の連続殺人犯、詐欺がエスカレートして相手を殺してしまう事案、さまざまな事件。
私たちは 15 歳になっていた。こういう岐路に誰しもが立つのだ。しばらくじっとそのブルーシートが、風に揺れるのを眺めた。
「ねえ、麗。ぼくは、ひとりでもやるよ」
聞いたこともない冷たい声だった。
私が弾かれたように顔を上げると、彼女はまっすぐとこちらを見ている。
その目には冷徹なまでの決意がみなぎっていた。
星が瞬くようないつもの大きな瞳には、いまは吸い込まれそうな黒い虚無が広がっている。その上、白目がいつもよりも青白く、まるでビー玉のような瞳は、感情を覗かせない。
置いていかないでほしい。
それが私がとっさに感じたことだ。
「私もやる」
きっとこれは友情のための行為だ。お互いの友情を守るために、親愛を示すために行うべきだ。
私の魂を知ってるのは彼女だけだし、彼女がこんな姿を見せてくれるのも私だけだ。
彼女は大きく口を開けて笑った。
そして、軽やかな足取りで河原に降りていく。私は手を引かれるままついて行く。興奮と、恐怖がない交ぜになって私を襲うが、徐々に興奮がその身に迫ってくる。
途中、草むらからビニール袋を取り出す。
「見て。準備は万端」
中には、コンビニで買えるような大きなウィスキーとマッチ箱が入っていた。
はじめは水死体だった。
人気のない河川敷、ビニールハウスを根城するホームレス。酒と、マッチ。
簡単なクイズだ。
彼女は、焼死体を作ろうとしている。
私たちは、あまりにも大きな秘密を抱えようとしている。ノートに書くほの暗いスケッチやメモとは比べものにならない。
「ねえ、臭いかな。人が来ると困るんだけど」
「……わかんない。私、死んだ人を見たことないんだ。お葬式とかも行ったことないし」
「へ-、そうか。ぼくは去年おじいさんが亡くなったんだけど、ものすごく苦しそうな顔をしていたよ」
歌うように言いながら、彼女はウィスキーのボトルを開けた。
強いアルコールの匂いに顔を潜める。
「気づかれないというよね。せっかくのチャンスだもん」
そして、彼女はブルーシートにウィスキーを駆けていく。ぐるりと歩きながら、たっぷりと。
私は緊張した。心臓は恐ろしいほど早く打っている。
この城の主は、高いびきをあげて寝ている。
畳 1 畳より少し狭いくらいの家の周囲すべてに、彼女は酒をかけ終えた。
「この人ね、リストラされて、アルコール依存症になっちゃったんだって。家からも追い出されて、ここにたどり着いたの。もう疲れちゃったんだって」
「話したことあるの?」
「うん。たまに家にあるビールとか持ってきてあげてたの」
彼女の長い髪が風に揺れる。
「こっちが風上だ。ここから火をつけた方が、きっと綺麗に燃えると思う。ずっと待ってたんだ。ここ最近、1度も雨が降らなかったでしょ?」
そう言われて思えば確かにしばらく雨が降っていない。
土手はすっかり乾ききり、川も穏やかそのものだ。
雲ひとつない、美しい夏空が橋の上には広がっていた。
ホームレスが見逃される唯一の場所で、彼女は最大の実験をしようとしている。
「麗。一緒にする?」
とても可愛らしい声で彼女が聞く。
私は何も言わずにうなずいて、彼女が手にしているマッチ箱に手を伸ばそうとした。
その手は驚くほどに震えていて、自分でも動揺した。私の手が。
ふたりでなら、きっとできる。
私たちのとびきりの秘密を持てる。
マッチをつけ、ぼっと立ち上がる火を見つめる。
「いくよ」
マッチを地面に置いた。アルコールで濡れたブルーシートは、簡単に火がついた。
けれど、高いびきは続いている。
「今日はウォッカをあげたの。それに、ママの睡眠剤を混ぜたから、起きないと思う」
「そうなんだ」
メラメラとビニールシートが燃えていく。
火の粉は乾いた風に巻き上げられて、畏怖さえ感じる美しさだ。
ビニールシートが焼け落ちて、男の姿が見えた。彼は大の字になって、ぴくりとも動かない。
彼の多くはない私物はあっという間に焼け、ついに服に火がついた。
一瞬で、表面を舐めるように火が広がり、炎と呼ぶにふさわしい大きさに育つ。
彼女が、ぎゅっと私の手を強く握る。
痛かったが、それと同時に胸が苦しくなる。
彼女は美しかった、今までみたどんな彼女よりも。炎が彼女の横顔を照らし、黒曜石の瞳に不穏な影を与えている。
とても幸せだった。
人の肉の焼ける何とも言えない嫌な匂いを感じながら、わたしたちはそこにいた。
私は訳もなく泣きたくなった。人が幸せすぎると泣きたくなるということを初めて知った。
そして、この男が亡くなったことは誰にも知られることはなかった。ニュースにはなったが、身元も不明の男の捜査は進まなかった。酒に酔った男のタバコの不始末として決着した。
というよりも河原に燃え広がってしまった。その火が、近隣の家を焼いたという方が私には胸が痛かった。
つづく
総文字数 21036字
