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幸せの予感⑨ 第八章「雨上がりの夜」〜大人の恋愛小説

前の話 第七章「遠回りした人たち」

第八章 雨上がりの夜

病院の待合室は、
どこの街でも同じ匂いがする。

消毒液。
静かな絶望。

夜十時を過ぎていた。

結衣はソファに座り、
スマホを握ったまま動かなかった。

晋太郎は少し離れた場所から、
その横顔を見ていた。

こういう時、
人は何を言えばいいのだろう。

頑張って。

大丈夫。

そんな言葉は、
たいてい軽い。

結局、
隣にいることしかできない。

結衣の父は、
軽い脳梗塞だった。

命に別状はない。

ただ、
しばらく入院になるらしい。

医師の説明を聞き終えたあと、
結衣はようやく小さく息を吐いた。

「よかった……」

その声は、
今にも泣きそうだった。

晋太郎は缶コーヒーを買って戻る。
「冷たいやつでよかった?」

結衣は少し笑った。
「ありがとうございます」

二人で並んで座る。

夜の病院は静かだった。
遠くでナースコールが鳴る。
誰かの足音。
自販機の光。

結衣は缶を両手で包みながら言った。
「父って、昔すごく怖かったんです」

晋太郎は黙って聞く。

「昭和の父親って感じで」
「分かる気します」
「全然喋らないし、厳しいし」

結衣は少し笑った。
「でもね、最近急に小さく見えるんです」

その言葉が、
晋太郎の胸に残った。

親は、
ずっと親のままだと思ってしまう。

でも違う。
年を取る。
弱る。
いつかいなくなる。

当たり前なのに、
人はなかなか受け入れられない。

「この前実家帰った時」
結衣は続ける。
「父がスーパーで、
重い水持ってフラフラしてて」

晋太郎は黙る。

「なんかショックだった」

結衣は笑った。

でも、
少し涙が混じっていた。

「昔は絶対的に強かったのに」

その瞬間、
晋太郎は自分の父を思い出していた。

無口で。
酒飲みで。
仕事ばかりしていた父。

子どもの頃は、
怖かった。

でも、
実家へ帰るたび、
背中が小さくなっていく。

いつからだろう。
親を守る側になったのは。

「結衣さん」
「はい?」
「親って、いなくなるの怖いですよね」

結衣は静かに頷いた。

待合室のテレビでは、
音もなくニュースが流れていた。

猛暑。
株価。
政治。

世界はいつも通り回っている。

でも、
誰か一人が倒れただけで、
その人の世界は止まる。

人生って、
案外そういうものだ。

午前零時近く。

結衣の母が病院へ来た。
少し疲れた顔。

だが、
晋太郎を見ると驚いた。

「あら……」

結衣が説明する。

「友達」

その“友達”という言葉に、
晋太郎は少しだけ苦笑した。

四十代になると、
恋愛の説明が難しい。

若い頃みたいに、
彼氏彼女です、
と言い切れない。

関係には、
いつも曖昧さが残る。

「今日はもう帰りなさい」
母が言う。
「お父さん寝たし」

結衣は少し迷った。
でも頷いた。

病院を出る。
深夜の街。
空気が少し涼しくなっていた。
二人は駅まで歩く。

沈黙。

だが、
不思議と気まずくない。

「今日はありがとうございました」

結衣が言う。

「いや」

「一人だったら多分しんどかった」

晋太郎は少し照れた。

「俺、何もしてないです」

「いてくれた」

その一言が、
静かに沁みた。

人は、
何かを解決してくれる人より、
隣にいてくれる人を求める時がある。

四十代になると、
それがよく分かる。

駅前。
終電間際。
人影も少ない。

結衣がぽつりと言った。
「私、多分ずっと怖かったんです」

「何が?」

「結婚」

晋太郎は黙る。

結衣は続けた。
「若い頃って、
“幸せにならなきゃ”
って思ってたんですよ」

「うん」

「でも、
結婚した友達が苦しんでたり、
離婚したり、
旦那の愚痴言ったりしてるの見て」

風が吹く。

結衣の髪が揺れる。

「だったら一人の方が楽かなって」

晋太郎は静かに聞いていた。

「でも今日、
病院で思ったんです」

結衣は少し笑う。

「やっぱり、
一人って怖い」

その言葉は、
本音だった。

強がりも。
理屈も。

全部外れた、
本当の声だった。

晋太郎は、
ゆっくり言った。

「俺も怖いですよ」

結衣が見る。

「四十一になって、
最近やっと分かった」
晋太郎は苦笑した。

「自由って、
楽しいだけじゃないですね」

結衣は小さく頷いた。

終電のアナウンスが流れる。

だが、
二人とも少し動かなかった。

別れたくなかった。

その空気が、
確かにあった。

結衣は突然言った。

「今度、実家来ます?」
「え?」
「父、多分晋太郎さん気に入ると思う」
「なんでですか」
「ちゃんと玉ねぎ炒めるから」

晋太郎は吹き出した。

笑いながら、
胸が熱くなっていた。

それは、
恋愛の次の扉が少し開いた瞬間だった。

恋は、
二人だけの世界だ。

でも、
愛は違う。

家族。
生活。
老い。
病気。
孤独。

全部を含めて、
それでも一緒にいたいと思えるか。

四十代の恋愛は、
そこへ向かっていく。

ホームへ電車が入ってくる。
風が吹く。

結衣が小さく言った。

「晋太郎さん」

「はい?」

「会えてよかった」

晋太郎は、
少しだけ泣きそうになった。

人生は、
遠回りする。

若い頃には、
間に合わなかった人たち。

失敗した人たち。
孤独だった人たち。

でも、
遠回りしたからこそ、
見える景色もある。

電車のドアが開く。
二人は並んで乗り込んだ。

窓の外には、
眠らない東京の灯りが流れていた。

次の話
第九章「未来の扉」


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viva la vida いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。