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幸せの予感⑩ 第九章「未来の扉」〜大人の恋愛小説

前の話 第八章「雨上がりの夜」

第九章 未来の扉

結衣の父親が入院してから一ヶ月が経ち、
季節は秋になっていた。
今夜ようやく退院する。

東京の空気から、
ようやく湿気が抜け始める。

コンビニのおでん。
金木犀。
タートルネック。

人は季節が変わると、
少しだけ人生をやり直せる気がする。

晋太郎は最近、
朝起きるのが少し楽しみだった。

スマホを見る。

結衣からメッセージが来ている。

それだけで、
一日が違った。

《ようやく一冊、校了終わった!死ぬ!》

《お疲れ様です》

《褒めてください》

《えらい》

《雑》

そんなやり取りが、
妙に嬉しい。

恋愛というより、
生活に近かった。

でも、
それがよかった。

若い頃みたいに、
駆け引きがない。
返信速度で悩まない。
既読に怯えない。

ただ、
相手が今日も生きていて、
どこかで頑張っている。

それが嬉しい。

四十代の恋愛とは、
そういうものなのかもしれない。

その日、
晋太郎はスーパーで買い物をしていた。

玉ねぎ。
じゃがいも。
鶏肉。

カレーを作る予定だった。

すると、
背後から声がする。

「またカレー?」

振り返ると結衣だった。

「怖っ」
「たまたまです」
「ほんとですか?」
「本当です」

結衣は笑う。

私服だった。
白いシャツ。
デニム。

シンプルなのに、
妙に似合う。

「今夜、父が退院祝いで何か食べたいって」
「おお」
「でも母が疲れてるから、
私が作れって」
「で?」
「カレーなら失敗しないかなって」

晋太郎は吹き出した。

「みんなカレーに頼りすぎ」
「だって美味しいじゃないですか」

二人で買い物カゴを見ながら歩く。

まるで夫婦みたいだな、
と晋太郎は思った。

その感覚に、
少し驚く。

若い頃は、
結婚に夢を見ていた。

でも、
今は違う。

派手な幸せなんかいらない。

こうして、
スーパーで玉ねぎを選ぶ。

それだけでいい。

それが、
どれほど難しいことか、
もう知っているから。

「そういえば」
結衣が言う。
「今度文化祭やるんですよ」
「文化祭?」
「出版社のイベント」
「へえ」
「著者呼んだり、
トークやったり、
読書会したり」

結衣は少し笑った。
「なんか学生みたいですよね」

晋太郎は思った。

人は、
何歳になっても青春をやり直したいのかもしれない。

会社。
家庭。
責任。

そういうものに押し潰されながら、
どこかで、
もう一度ワクワクしたいと思っている。

だから人は、
ライブへ行く。
旅へ行く。
夢を見ようとする。

「晋太郎さん来ます?」
「いいんですか」
「スタッフ足りないし」
「労働力扱いだ」
「あと」

結衣は少し笑った。
「来てほしい」

その一言が、
胸に残る。

・・・・・・
夜。

晋太郎の部屋。

カレーが煮えている。

窓の外の秋風。

そこへ、
結衣が来た。
「こんばんは」
「どうぞ」

自然だった。

まるで、
ずっと前からこうしていたみたいに。

結衣は鍋を覗く。
「美味そう」
「まだです」

二人でビールを開ける。
テレビはつけない。
ぐつぐついうカレー。
静かに換気扇が回る

こういう時間が、
昔から欲しかったのかもしれない。

結衣が突然言った。
「ねえ」
「はい?」
「もし二十代で会ってたら、
どうなってたと思います?」

晋太郎は少し考える。

「多分ダメだった気がします」

結衣は笑う。

「分かる」
「俺、若い頃めんどくさかったし」
「私もです」
「絶対ケンカしてた」
「ですね」

二人で笑う。

でも、
本当にそう思った。

若い頃は、
自分を分かっていない。
理想ばかり高い。
愛されたい。
認められたい。

でも、
四十代になると、
ようやく少し分かる。

幸せとは、
何かを手に入れることじゃない。
失いたくないものがあることだ。

カレーを食べる。
うまい。

「これです」
結衣が真顔で言う。

「何が」

「幸せ」

晋太郎は笑った。

「安い幸せですね」

「最高じゃないですか」

確かにそうだった。

高級レストランじゃない。
海外旅行でもない。
タワマンでもない。

カレー。
ビール。
好きな人。

それだけで、
人生は結構満たされる。

食後。

結衣はソファで少し眠そうにしていた。
仕事が忙しかったのだろう。
晋太郎はブランケットをかける。

すると、
結衣が目を開けた。

「……帰りたくない」

小さな声だった。

晋太郎の心臓が跳ねる。

結衣は少し照れながら笑った。

「酔ったかも」

でも、本音だと分かった。

晋太郎は静かに座る。
二人の距離が近い。
呼吸が聞こえる。
秋の夜は静かだった。

結衣が言う。

「私ね」

「うん」

「普通の未来が欲しい」

晋太郎は黙る。

「朝起きて、
ご飯食べて、
仕事行って、
疲れたって帰ってきて」

結衣は少し笑った。

「たまに旅行して、
カレー作って、
年取って」

その未来は、
若い頃なら退屈に思えたかもしれない。

でも今は違う。

それが、
どれほど奇跡みたいな幸せか知っている。

晋太郎は、
ゆっくり結衣の手を握った。

温かかった。

結衣は、
その手を握り返した。

窓の外で、
どこか遠くの電車が走っていく。

東京には、
何千万もの孤独がある。

でも今、
この部屋には、
孤独じゃない二人がいた。


次の話
第十章「夜の体温」

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viva la vida いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。