【短編小説】栞がわりの葉書

叔父が遺したのは、日の当たらない通りの、小さな古本屋だった。

畳んで売るつもりで通ううち、一冊の文庫から、宛名のない一枚の絵葉書が出てくる。

――渡せなかった言葉は、どこへ行くのだろう。

本と、人と、言えなかった想いをめぐる、短い物語です。静かな夜のおともに、どうぞ。

(木野なぎの読み切り短編です。よろしければ、スキやフォローで見守っていただけたら嬉しいです。)

 シャッターの鍵は、三度目でやっと回った。

 叔父が最後にここを開けたのは、いつだったんだろう。半分だけ上がったシャッターをくぐると、カビと古い紙の、少し甘い匂いがした。

 「宮田書店」。色の褪せた看板の下に、その店はあった。駅前の商店街から一本外れた、日の当たらない通り。両隣の店はとっくに閉まったままで、平日の夕方だというのに人通りはほとんどない。時代に置き去りにされたような通りだった。

 叔父の宮田信夫が死んだのは、ひと月前だ。心臓の発作で、あっけなかったらしい。七十二だった。独り身で子もなく、両親はもういない。姉——美咲の母も五年前に亡くなっている。だから相続人は、姪の美咲ひとりだった。役所で「あなたです」と言われたとき、まず頭に浮かんだのは、悲しみより先に「面倒だな」だった。そんなふうに思った自分に、あとから少し嫌気がさした。

 三十四になる。平日は市役所の外郭団体で、同じ書類に判を押す毎日。休みの日は、スマホでドラマを流し見て、洗濯物をたたんで終わる。そんな暮らしの隙間に、この店がぽっかり落ちてきた。

 畳んで、売る。それだけのつもりだった。本棚ごと業者に引き取ってもらえば、どうせ大した額にはならない。ネットで調べたら、古い個人店の本なんて二束三文だと、そっけなく書いてあった。

 店の中は、本の壁でできていた。天井まで届く棚に、すきまなく背表紙が並んでいる。文庫、単行本、判のかたちもばらばらのまま、通路にまで積み上がっている。数える気にもなれなかった。レジの奥の机に、叔父の老眼鏡が置いたままになっていた。片方のつるが、セロテープで留めてある。美咲はそれを見ないようにして、棚のほうへ目をやった。

 「あら、開いてる」

 声に振り返ると、店先の百円均一のワゴンのところに、年配の女の人が立っていた。手にトートバッグを提げている。近所の人だろう。

 「宮田さん、亡くなったって聞いたけど」
 「はい。姪です。片づけに来てて」
 「そう……。まあ、本の一冊も、ここで安く買わせてもらったからねえ」

 女の人はバッグの中から、一冊の文庫本を取り出した。

 「これ、この前ここで買ったんだけど。中に、こんなのが挟まってたのよ。宮田さんのじゃないかと思って、返しに来たの」

 差し出された文庫の間から、一枚の絵葉書が半分のぞいていた。美咲は受け取った。片面は、どこかの海の写真。灯台と、白い波。もう片面には、宛名も切手もなく、青いインクの少し右肩上がりの字で、たった二行だけが書いてあった。

 『あの家のことは、俺が悪かった。一度、茶でも飲まないか。』

 美咲はふうん、と思った。誰かが栞のかわりに使ったのだろう。よくあることだ。

 「ありがとうございます。こちらで処分しておきます」
 「あら、いいの? 誰かの大事なものかもしれないよ」
 「宛名もないですし。書き損じか何かだと思います」

 女の人は少し困った顔をして、それでも「そう」と言って帰っていった。

 美咲は葉書を、レジ横のかごにポイっと投げ入れた。ゴミ箱がまだどこにあるのかも分からなかった。その日はそれで終わりだった。

 次に来たのは、三日後の日曜だった。

 業者を呼ぶ前に、値の張りそうな本だけでも分けておこうと、美咲は棚を一段ずつ見ていった。ほとんどは二束三文にしかならない古い文庫や実用書だ。ときどき、叔父のきちんとした字で、値札の裏に仕入れの日付と値段が書いてある。昭和の日付のものまであった。

 昼過ぎ、棚の整理に飽きてレジに戻ったとき、あのかごが目に入った。青い字の葉書が、ちり紙の間からのぞいていた。

 『あの家のことは、俺が悪かった。』

 なぜか、その一行が目に引っかかった。俺が悪かった。——大の大人がそう書きつけるまでに、どれだけの時間がかかったんだろう。書いて、それでも切手を貼らなかった。貼れなかった。宛名すら書けなかった。

 美咲は葉書をつまみ上げた。海の写真の下に、小さく地名が刷られていた。聞いたこともない、遠い海辺の町の名だった。

 馬鹿らしい、と思った。他人の書き損じだ。自分には関係がない。それでもその日、美咲は葉書を捨てなかった。レジの引き出しにそっとしまった。しまってから、なぜこんなことをするんだろうと、自分でも思った。

 「宮田さんはね、律儀な人だったよ」

 そう言ったのは、戸村という七十くらいの男だった。この商店街で長く金物屋をやっていて、今は息子に店を任せて、暇つぶしにあちこち歩いているらしい。美咲が姪だと知ると、頼みもしないのに話し始めた。

 「律儀すぎて、損ばっかりしてた。こんな儲からない商売、とっくにやめときゃよかったんだ。あの人は、本を売るというより、本の番をしてるみたいだったな」

 口は悪かった。

 「あんたも、さっさと売っちまいな。ここいらはもう終わってる。本屋なんか、いちばん先に潰れるよ」

 美咲はあいまいにうなずいた。売る気なのは、こっちも同じだった。ただ、他人にはっきりそう言われると、なぜだか少し腹が立った。

 「あの、」美咲は引き出しから葉書を出した。「これ、心当たりありませんか。叔父の本に挟まってたみたいで」

 戸村は葉書を受け取り、老眼鏡をずらした。海の写真を見て、それから字を読んだ。読むあいだ、いつも威勢のいい口元が、少しずつ動かなくなっていった。

 「……ああ。これは、江口さんのだ」
 「えぐち、さん」
 「江口幸一。この店のいちばんの常連だったよ。毎日みたいに来ちゃ、そこの隅の椅子に座って、何時間も本を読んでた。買いもしないでな。宮田さんは、それでも何も言わなかった。お茶なんか出してやってたよ」

 美咲はレジの脇の隅を見た。座面のすり切れた木の椅子が一脚。その、ひじかけのところに、湯のみを置いた跡なのか、白い輪のしみがいくつも重なっていた。

 「去年、死んだよ。江口さんも。八十を越してた。この字は間違いない。あの人の字だ」

 戸村は椅子の輪のしみを、指でそっとなぞった。

 「あの人はね、一度だけ、ここで弟の話をしたことがあるらしい。宮田さんから聞いた。『おれには弟がいてな。もう何年も口をきいてない』って。それだけ、ぽつりと。宮田さんは何も聞き返さなかったそうだ。ただ黙って、お茶を注ぎ足してやった。それがあの人には、よかったんだろうな。何も聞き出そうとせずに、そばにいてくれるのが」

 美咲はその椅子を見た。誰もいない椅子は、ただそこにあった。江口が何時間も背を預けていた椅子。何を思いながら、ページをめくっていたんだろう。謝れないままの弟のことを、考えていたんだろうか。それとも、考えないために本を読んでいたのか。

 「宮田さんも、口下手な人だった」戸村は続けた。「よく似た者どうしが、この店で黙って本を読んでたわけだ。おかしなもんだよ」

 江口幸一のことを、美咲は少しずつ聞いて回った。

 自分でもなぜそんなことをしているのか、うまく説明できなかった。店の片づけはちっとも進まない。それなのに、暇を見つけては、商店街の古い人に江口のことを尋ねていた。金物屋の戸村。角のたばこ屋の女将。店をたたんだ豆腐屋の老人。

 分かってきたのは、こういうことだった。

 江口には弟がいた。健二という。二人は、この土地の古い一軒家で育った。庭に大きな柿の木のある家だったと、豆腐屋の老人は言った。秋になると、二人で長い棒を持って実を落としたそうだ。

 両親が亡くなったあと、その家をめぐって兄弟はもめた。売る、売らない。金の話だった。どちらが多く親の面倒を見たとか、見なかったとか。そういう、どこにでもある、それでいて当人たちにはどうにも譲れない類いの話だ。

 結局、家は人手に渡った。柿の木は、新しい持ち主が切ってしまったという。そうして兄弟は、それきり口をきかなくなった。もう三十年以上も前のことだ。

 「立派な話じゃないさ」と戸村は吐き捨てるように言った。「金だよ、金。兄弟が、たかが親の家で。しかも、片方が謝ろうとしたときには、もう遅かったんだ。馬鹿な話さ」

 馬鹿な話だ、と美咲も思った。けれど、笑えなかった。譲れない、というその感じが、なんとなく分かる気がした。ほんの小さな意地。それがいつのまにか、取り返しのつかない隔たりになる。

 健二は、七年前に死んだ。江口がそれを知ったのは、葬式がとうに済んだあとだったという。もう詫びることも、詫びられることもできなくなってから。

 美咲は葉書の字をもう一度読んだ。

 『あの家のことは、俺が悪かった。一度、茶でも飲まないか。』

 書いたのはいつだろう。健二がまだ生きていたころか。何度も書こうとして、書けずにいたのか。それとも——死んだと知ったあとに、もう届くはずのない場所へ宛てて、それでも書かずにいられなかったのか。

 だから宛名がなかったのだ。書く相手が、もうこの世のどこにもいなかったから。

 江口はその葉書をどうしたか。ポストには入れられなかった。捨てることもできなかった。だから本に挟んだのだ。毎日通うこの店の、一冊の本に。栞のかわりに。

 その本のことに気づいたのは、まったくの偶然だった。

 葉書が挟まっていたあの文庫を、美咲はなんとなく捨てずに取っておいた。ある雨の午後、それを手に取ってぱらぱらとめくってみた。古い海外の短編集だった。ずいぶん読み込まれていて、ページの角がいくつも折られていた。

 すると、最初のページの隅に、小さな鉛筆の字があった。叔父の字だった。

 『江口さん。売らないこと。』

 美咲はその字を、長いあいだ見つめた。

 売らないこと。——つまり叔父は知っていたのだ。この本に江口の葉書が挟まっていることを。江口がそれを、どんな思いでこの店に置いていったのかを。そして売らずに取っておいた。百円のワゴンにも出さず、棚のどこかにそっと。

 なのにあの女の人は、それを百円で買っていった。きっと、叔父が病気で店を閉めがちになっていたあいだに、手伝いの誰かがワゴンに紛れ込ませてしまったんだろう。そうして町をぐるりと回って、美咲の手元に戻ってきた。危うく捨てられそうになりながら。

 美咲は思い出していた。

 子どものころ、この店が好きだった。母に連れられて来ると、叔父はいつも、奥から一冊、美咲のための本を選んでくれた。「これは、みさちゃんに」と言って。ぶっきらぼうで口下手で、あまり笑わない人だったけれど、本を選ぶときだけは、少し嬉しそうだった。そして本を渡すとき、叔父はいつも、手書きの栞を挟んでくれた。紙を細く切って、そこに美咲の名前と、へたな絵を描いたものだ。犬なのか猫なのか分からないその絵に、美咲はいつも笑った。

 一度、こんなことがあった。小学生の美咲が、選んでもらった本を雨で濡らして、だめにしてしまった。表紙がぶよぶよに波打って。泣きながら謝る美咲に、叔父は怒らなかった。「本は、また買えばいい」と言って、奥から同じ本をもう一冊、探し出してきた。「濡れたのは乾かして、うちに置いとく。誰か、それでも読みたいって子が来るかもしれん」。そう言って、少し笑った。目尻の下がるあの笑い方を、美咲は久しぶりに思い出した。もう二度と見られないんだと思うと、胸の奥のほうが静かに痛んだ。痛みはいつも遅れてやってくる。いなくなってから、ずいぶん経って、やっと。

 母と叔父は、仲のいい姉弟だった。母が「この人はねえ」と笑いながら、子どものころの叔父の失敗を話すと、叔父は「いや、それは違う」と、むきになって言い返していた。そういう、なんでもない光景が、たしかにあった。

 いつから、来なくなったんだろう。

 高校、大学、就職。忙しいというのは、たぶん半分は嘘だった。母が死んでから、この土地に来る理由がなくなった。母のいた場所に来ると、母がいないことを思い知らされる。それが嫌だった。叔父からはときどき、下手な字の年賀状が来た。『元気ですか。たまには顔を見せてください』。判で押したような、同じ文面。美咲はいつも「今度」と思った。今度。今度ね。

 その今度が来ないうちに、叔父は死んだ。

 美咲は、自分がしていることに、ようやく気づいた。

 叔父の店を、在庫として片づけている。値をつけて、売って、終わらせて、忘れようとしている。江口が、健二との三十年をそのままにしてしまったように。届けられなかった葉書を、引き出しの奥にしまい込んでいたように。

 言えなかった言葉は、どこへ行くんだろう。

 どこへも行かないのだ。ただ栞のように、どこかの本の間に挟まったまま残る。誰かがいつか、ぱらりとめくる日まで。

 美咲はその晩、店の隅の椅子に座って、江口の読んでいた短編集を、はじめから読んでみた。江口が角を折ったページを、たどるように。

 どれも静かな話だった。名もない人たちが、日々のなかですれ違い、悔い、それでも小さな灯りを絶やさずに生きていく。そんな、人のぬくもりの話ばかりだった。折られたページの、ある一行に、鉛筆でうっすらと線が引いてあった。江口が引いたのだろう。

 『言えなかったことは、言えなかったのではない。言わないと決めた、その時々の、小さな積み重ねなのだ。』

 美咲はその一行を、長いこと見ていた。江口もここに線を引きながら、弟のことを思ったんだろうか。そして叔父は。このうっすらとした線をあとで見つけて、何を思ったんだろう。似た者どうしの二人の男が、同じ一行の上で、それぞれの言えなかったことを抱えていた。その隣に、いま自分もいる。美咲はそう思った。

 業者に電話をするのは、やめた。

 かわりに、店の掃除を始めた。棚を拭き、床に積まれた本を、一冊ずつ種類ごとに並べ直した。何日もかかった。市役所の仕事が終わると、まっすぐこの店に来て、夜まで手を動かした。ほこりで指先が真っ黒になった。叔父が、この店で何十年もそうしてきたように。

 戸村は呆れた顔をした。「売るんじゃなかったのか」
 「まだ決めてません」と美咲は言った。「もう少し、考えます」
 「儲からないぞ」
 「知ってます」
 戸村は何か言いかけて、やめた。それから、ぼそりと言った。「宮田さんも、そう言ってたよ。儲からないのは知ってる、って。何度言ってもな」

 その日の帰りがけ、戸村は店先のワゴンから文庫を一冊抜き取り、百円玉をレジの台にこつんと置いた。「また来る」とも言わずに、背を向けて出ていった。何十年も、そうやってこの店で本を買ってきたみたいに。

 葉書のことを、美咲はしばらく考えた。

 届ける相手は、もういない。江口も健二も、この世にいない。この二行が本当に届くべきだった場所は、永遠に失われてしまった。届けようがない。

 それでも。

 美咲はレジの奥から、真っ白な絵葉書を一枚取り出した。叔父が客への礼状に使っていたのだろう、輪ゴムで束ねてあった。少し黄ばんでいた。万年筆を借りて——それも叔父の机にあったものだ——少し考えて、それから書いた。宛名は書かなかった。江口の葉書にならって。書く相手は、もういないのだから。

 『おじさん。今度、今度って言ってて、ごめんね。店は、もう少し私が開けてみます。』

 書いてしまうと、目の奥が少し熱くなった。泣くほどのことでもない、と思った。ただ、鼻の奥がつんとした。指の先で目頭を押さえた。

 美咲はその葉書を、店のいちばん奥の棚の、いちばん厚い本——古い植物図鑑の間に、そっと挟んだ。栞のかわりに。柿の木のページの、あたりに。

 いつか誰かが、この本を手に取る日が来るかもしれない。そのときこの葉書が、ぱらりと落ちる。宛名のない、二行の言葉が。拾って読んだ人は、きっと少しだけ、誰かのことを思い出すだろう。まだ言えないでいる、何かを。会いに行けていない、誰かのことを。

 江口の葉書は、レジの引き出しにしまったままにした。捨てることは、どうしてもできなかった。あれは江口のものだ。誰にも届かなかったけれど、たしかに書かれたものだった。書かれた、というだけで、意味があるような気がした。届かなくても、なかったことにはならない。

 冬が来た。

 商店街の外れの、その小さな古本屋の灯りが、また灯るようになった。

 相変わらず、人通りは少ない。儲かってなんかいない。戸村の言うとおりだ。いつまで続けられるか、美咲にも分からない。市役所の仕事と二足のわらじが、いつまでもつのか。それも分からない。

 それでも夕方になると、美咲はシャッターを半分だけ上げて、店先のワゴンに百円の文庫を並べる。立て付けの悪い金具は、今も三度目でやっと回る。叔父が直さないままにしておいた、その渋い手ざわりが、なぜだか嫌ではなかった。直してしまうのは、なんだか惜しい気さえした。

 ときどき、客が来る。本を一冊買っていく。

 美咲はその一冊ずつに、手紙や、栞や、そういう誰かの残したものが挟まっていないか、そっと確かめてから渡すようになった。誰かの、渡せなかった言葉が、そこに眠っているかもしれないから。

 もしあったら。そのときは、捨てずに取っておこう、と思った。この店の引き出しのどこかに。いつかその言葉が、行くべき場所へ行ける日が、来るかもしれない。来ないかもしれない。

 それでも栞は、栞のまま、そこにある。

(了)

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