【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第一章 薄いコーヒー

病院の向かいに、喫茶けやきという店があります。

コーヒーの薄い店です。

木野なぎの新しい連載『病院の向かいの喫茶店』を、はじめます。第一章「薄いコーヒー」を、まるごと置いておきます。二十二歳の中原さやが、三年ぶりに働きはじめる朝からの話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。

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「もう一回だけ、行ってみたら」

三年、何も言わなかった母が、朝ごはんの皿を下げながら、そう言った。わたしの顔は見ていない。

言ったのは、それだけだった。

求人の紙は、母が台所に置いていた。どこで見つけたのかは、聞かなかった。

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面接は、三分で終わる。

「うち、時給は安いで」
「はい」
「わしとあんただけだでね」
「はい」
「前は、何しとったの」
「……バイトを、いくつか」
「そうか」

それ以上は聞かれなかった。

「朝七時から、三時まで。ほんじゃ、明日から」

二十二歳。高校を出て就職した会社を、三ヶ月で辞めた。

始業は八時半だった。毎朝、八時には着いていた。三ヶ月、一日も欠かさず。

ある朝、体が動かなくなって、それきり起きられなくなった。そこから三年ぶん、続かなかった勤め先の名前が並んでいる。

履歴書は裏返したまま、レジの下に押し込まれた。たぶん、見られてもいない。

店を出て、道路の向こうを見た。総合病院の白い建物が、朝の光をぜんぶ跳ね返している。片側だけ、継ぎ足したみたいに色がちがった。

その向かいに、この店はある。

喫茶けやき、という名前だった。看板には、木が一本だけ描いてある。塗りがはげて、枝の先が白くなっていた。

店の前に、ほんとうにけやきの木が立っていた。幹は太くて、四月で、葉が出たばかりだ。

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初日の朝、戸を開けると、上で小さく鈴が鳴った。それから、匂いがした。焦げたのと、甘いのが混じったような匂い。壁にも椅子にも、しみついて取れない匂いだと思った。

七時十五分に、最初の客が入ってきた。作業着の男の人が三人。

「おはようございます」
「はいよ」

それだけ言って、あとはだまって新聞を取って、だまって座って、だまって食べて、二十分で出ていった。注文を聞きに行く必要はない。座った時点で、篠田さんはもうトーストを焼いていた。袖を肘までまくった腕が、二度だけ動いて、それで焼き上がっている。

八時前、上着を脱がないまま入ってきた女の人がいた。首から、病院の名札を下げたままで、目の下が黒い。カウンターのいちばん端で、卵をむいていた。

「あー……もう朝か」

誰に言ったのでもない。篠田さんも、何も答えない。

八時半、五十くらいの男の人が来た。窓ぎわの、いちばん奥の席。わたしがおしぼりを出すと、受け取らずに、自分でカゴから取った。わたしは、おしぼりを持ったまま戻る。カゴは、はじめからその人の手が届くところに置いてあった。コーヒーを一杯だけ飲んで、九時ちょうどに出ていった。

その席のまわりだけ、空いている。

九時をすぎたころ、別の席でスマホが短く鳴った。その人は残りのトーストを置いたまま、伝票をつかんで、道路を渡っていった。

ただ、見ていた。

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初日の、十時をすぎて、客が切れた。

湯が沸くと、ポットが細い音を出す。その音が鳴ってから篠田さんが動くまで、だいたい二秒あった。

篠田さんが、コーヒーを一杯、カウンターに置いた。わたしのぶんだと分かるまで少しかかった。何も言わずに、奥へ行ってしまう。

一口飲んで、少し驚いた。

お湯を足したみたいな味がした。

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篠田さんは、教えてくれない。

「そこ拭いといて」
「はい」
「そこ終わったら、そっち」
「はい」

教わったのは、それだけ。エプロンの結び方も、注文の取り方も、レジの打ち方も、説明はなかった。

カウンターの木は、肘の当たるところだけ色が濃い。指を置くと、そこだけ浅くくぼんでいるのが分かる。前のバイトでやっていたことを思い出しながら、なんとなく手を動かす。グラスを伏せるときだけ、向きを全部そろえた。

棚の横を拭くと、画びょうで留めた古い紙に手が当たった。コーヒーの分量らしい。そのまま上から拭いた。

昼に一時間、篠田さんはわたしを外に出す。近くの公園のベンチで、コンビニのパンを食べた。

その日、グラスを一つ割った。篠田さんは、ほうきを持ってきて、自分で掃いた。何も言わない。

上がる前に、エプロンをたたんで棚に戻して、店の裏に出た。スマホを開く。

「バイトを始めたばかりのとき、店の人に何を聞けばいいですか」

『まずは業務の全体像を把握するため、一日の流れ、優先順位、困ったときの相談先を確認しましょう。積極的に質問する姿勢は好印象につながります。』

三つとも聞けないまま、初日が終わった。

帰りに、百円のノートを買った。

一ページ目に、今日のことを書いた。作業着の人は三人。新聞は自分で取る。トーストは座ってから焼く。奥の席の人は、おしぼりを自分でカゴから取る。

誰かに見せるつもりはない。忘れると、また同じことをするからだ。

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二日目に、伝票を一枚なくした。あとから見つかった。そのときも篠田さんは黙っていた。

怒られないのは、楽だった。

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三日目の朝、その人が来た。

四十くらいの女の人。紺色のカーディガンで、髪をひとつに結んでいて、手に病院の封筒を持っていた。

窓ぎわの、入口寄りの席。

奥の席には、いつもの人がもう座っている。あの人には、おしぼりを出さない。カゴのそばに寄せておく。

三日でひとつ分かったことがある。あの奥の席には、ほかの誰も座らない。空いていても、座らない。

「モーニングで。呼ばれたら行くから」

テーブルの上に、画面を上にしてスマホを置いた。ほかの席の人も、みんなそうしている。

運んでいくと、「ありがとうございます」と言って、それきり、カップにも、トーストにも、卵にも手をつけない。

窓の外を見ていた。見ているのは、道路の向かいの、白い建物。

十分たった。

その人は一口だけ飲んで、また置いた。スマホの画面をつけて、消して、またつけた。

二十分たった。

封筒を膝の上に置いて、そのはしを、折っては、のばしている。

三十分たった。

トーストが、皿の上でかたくなっていく。カーディガンの人は、まだ同じ姿勢だった。見ていられなくなったのは、こっちのほうだ。

水を替えに行くべきなのか、行かないほうがいいのか、分からなくなった。

左手首の時計を見た。時間はさっき見たばかりだ。

奥のほうを見た。篠田さんは、こっちを見ていない。豆をひく音だけが、低く続いている。

トイレに入って、鍵をかけて、スマホを開いた。

「検査の結果を待っている人に、なんて声をかけたらいいですか」

すぐに返ってきた。

『相手の不安に寄り添う言葉を選びましょう。「きっと大丈夫ですよ」「お気持ちお察しします」「無理をなさらないでください」などの表現が、安心感につながります。』

なるほど、と思った。

そういう言い方があるのか。わたしには思いつかなかった。

もう一度、頭の中で言ってみる。きっと、大丈夫ですよ。悪いことは何も入っていない。

水差しを持って、その席へ行った。グラスに水を足して、それから、練習したみたいに言った。

「あの。きっと、大丈夫ですよ」

その人が、こっちを見た。

顔から、表情がなくなった。

「……そうだといいですね」

そう言って、また窓のほうを向いた。

カウンターへ戻って、耳のうしろを触った。

言わなければよかった。

篠田さんが、ポットを持ってカウンターから出てくる。

その席のそばに立って、ポットを少しだけ持ち上げた。

「おかわり、いかがですか」

それだけだった。

その人は、少しのあいだ黙っていた。それから、カップをこっちへ寄せた。

「……はい。お願いします」

篠田さんは注いで、何も言わずに戻ってきた。

わたしは、水差しを持ったまま動けずにいた。

二杯目が、ゆっくり減っていく。

カップを持つ手が、両手から片手になった。

一時間がすぎたころ、その人が、わたしを呼んだ。

「すみません」

さっきのことを謝ろうとする。

「あの、さっきは」

そこで止まった。

「謝らないで」

短かった。カップのふちを見たまま言う。

それから、カップを両手で持ちなおして、その人は言った。

「ここのコーヒー、薄いのよ」

あわてて頭を下げた。すみません、と言った。いれたのはわたしじゃなくて、でも、そういう問題でもなくて。何を言ったのか、自分でもよく覚えていない。

その人は、初めて少し笑った。

「ちがうの。ずっと薄いの。わたしがここに来はじめてから、十年、ずっと」

「……はい」

「でもね、それがいいの」

意味が分からなくて、その人の顔を見た。

「濃かったら、一杯で終わっちゃうでしょう」

そう言って、また窓のほうを向く。

「わたし、ここで二時間待ったことがあるのよ。母の付き添いで。二時間、一杯で」

「……二時間」

「そう。長かった」

カップの中を、少しだけ回した。

「……あの」

その先が出てこなかった。

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その人のスマホが鳴った。

画面を見て、立ち上がる。伝票を持って、レジに来た。

おつりを財布にしまいながら、独り言みたいに言った。

「行ってきます」

いってらっしゃい、とも、がんばってください、とも言えなかった。

小さく、頭を下げるだけで終わる。

うなずいて、出ていった。

道路を渡って、白い建物のほうへ歩いていくのが、窓から見えた。自動ドアが開いて、閉まって、それで見えなくなる。

窓ぎわの席には、空になったカップが一つと、手をつけないままのトーストと卵が残っていた。

わたしの持っていた伝票を、篠田さんがひょいと取って、レジの横に置いた。

「桑島さん」

それだけ言って、奥へ戻っていく。

わたしはその名前を、口の中で一度だけ、繰り返してみた。

エプロンのポケットからノートを出して、さっき聞いたことを、そのまま書いた。

濃かったら、一杯で終わっちゃうでしょう。

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上がる時間になっても、なんとなく帰れない。

昼の客が引けて、店は静かだった。エプロンを外してから、聞いてみようと思った。コーヒーのこと。どうして薄いのか。

篠田さんは、ふきんでカウンターを拭いていた。ふきんが、同じところを二度通る。

口を開いて、閉じた。

「……おつかれさまでした」

言えたのは、それだけだ。

篠田さんは、拭き終わると、カウンターの椅子に座った。

そのまま、しばらく立たない。

わたしは戸のところで、それを見ていた。

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家に帰って、夕飯を食べた。母とは、ほとんど話さない。

夜になって、台所の電気がまだ点いているのに気がついた。母はもう寝ている。消して、二階に上がった。

布団に入ってから、スマホを開いた。

「今日、あの人に、なんて言えばよかったですか」

打ってから、送らずに消した。

おかわり、いかがですか。

暗い部屋で、小さく、声に出してみる。

起きて、ノートを開いた。その一行だけ書いた。

目覚ましを、六時半にした。

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(第二章へつづく)

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第二章「かたいゆで卵」も、全文をここに置いてあります。

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