【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第二章 かたいゆで卵
この店のゆで卵は、かたい。
『病院の向かいの喫茶店』第二章「かたいゆで卵」です。
朝七時四十分に来る、夜勤明けの人の話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。
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四日目の朝、六時五十分に着いた。
早く来いとは言われていない。家から自転車で十分だから、六時半に起きれば着いてしまう。着いてしまったから、中に入った。
篠田さんはもう店にいた。何時から来ているのかは、いまも知らない。
「おはようございます」
「はいよ」
それだけで、手は止まらなかった。
店の中は、まだ外の温度のままだ。エプロンをつけると、生地が冷たい。夜のあいだに冷えたコーヒーの匂いが、床のあたりに低くたまっている。
鍋の湯が沸いている。篠田さんは卵を六つ、そっと入れて、菜箸で一度だけ回した。
「まだ時間だで、座っとりゃええ」
「はい」
言われたけれど、座っているのも落ち着かない。七時になってから、グラスを洗いはじめた。洗いながら、横目で時計を見ていた。篠田さんは見ていない。湯の音と、湯気の出方だけを見ている。
十二分たったところで、鍋を火から下ろした。
きっちり十二分。時計は、一度も見ていない。
冷たい水を張ったボウルに、卵をひとつずつ移していく。ことん、ことん、と六回。
わたしはそれを、口の中で数えていた。
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七時をすぎて、作業着の三人が来た。新聞を取って、座って、食べて、二十分で出ていく。
七時四十分ごろ、その人が入ってきた。
上着の前を合わせたまま。病院の名札を下げたままで、目の下が黒い。
名札に、早坂、と読めた。
「おはようございます」
返事はなかった。
聞こえていないのかと思って、もう一度言おうとしたけれど、その人はもうカウンターのいちばん端に座っている。
篠田さんが、何も聞かずにモーニングを出した。注文を聞いていない。
返事もしない人だ、と思った。
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この店のゆで卵は、かたい。
その人は、殻を三回だけカウンターに当てて、そのまま指で全部むいた。白身に一つも傷がついていない。
わたしがむくと、いつも白身が半分くらい殻に持っていかれる。
「じょうずですね」
言ってから、また返事がないことに気づいた。
その人は、殻を小皿にまとめて、コーヒーを一口飲んで、それきり動かなかった。
七分くらい、そのまま。
食べ終わった皿は、フォークとナイフがきちんとそろえてあった。飲み終わったカップは、取っ手がこちら側を向いていた。下げるとき、持ちやすかった。
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八時半に、奥の席の人。おしぼりは出さない。カゴのそばに寄せておく。九時ちょうどに帰っていった。
窓ぎわの、入口寄りの席は、今日も空いていた。
そこを拭くとき、少しだけ長く拭いてしまう。
あの紺色のカーディガンの人は、今日は来なかった。
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その日の夜、ノートを開いた。
卵は十二分。殻は三回当てる。
書いてから、少し考えて、下にもう一行足した。
朝の人は、返事をしない。
書いてから、消した。
朝の人は、話しかけないほうがいい。
台所に行って、冷蔵庫から卵を一つ出してゆでた。十二分きっかりで火を止める。
殻を三回当てて、むいてみた。
半分、持っていかれた。
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次の週も、その人は来た。
三日にいっぺんか、四日にいっぺん。だいたい七時四十分。
「おはようございます」は、やめなかった。返事はやっぱりない。
三度目に、店の裏でスマホを開いた。
「挨拶を返してくれないお客様には、どうすればいいですか」
『笑顔と明るい声を心がけ、めげずに続けることが大切です。相手が答えやすい問いかけ(「今日は寒いですね」など)を添えると、会話のきっかけになります。』
なるほど、と思った。
次に来た日、水を置くときに言ってみた。
「今日、寒いですね」
その人は、こっちを見ないで、小さくうなずいた。それだけ。
四月の朝で、そんなに寒くもなかった。
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家で試してみても、白身はまだ半分持っていかれる。
店の卵は、朝のぶんとして毎朝六つ。作業着の三人で三つ、早坂さんで一つ。あとの二つは、日によって出たり出なかったり。昼の休憩から戻ると、奥の小皿に殻が二つ残っている日がある。足りなくなれば昼にまた足すけれど、朝は六つと決まっている。
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その朝は、朝から雨が降っていた。
六時五十分に着いて、いつものように座って待った。鍋から水に移す音が、六回。それを聞いてから、グラスを洗いに立った。
けやきの葉がぬれて、色が濃くなっている。傘の水を切る音で、入ってきたのが分かった。
早坂さんは、いつもの端の席に座って、それからカウンターに肘をついた。
わたしが卵とトーストを出したときには、もう寝ていた。
起こしたほうがいいのか分からなくて、篠田さんを見た。
篠田さんは、こっちを見なかった。ふきんでコップを拭いている。
そのあいだに、傘を二本、入口の傘立てに差す音がした。常連さんが二人。二人とも、端の席のほうを一度見て、それから、いちばん遠いテーブルに座る。
椅子を引く音が、いつもより小さい。注文の声も小さい。この店の人たちは、こういうときに何をすればいいかを、たぶん全員が知っている。
知らないのは、わたしだけだった。
二人が来てくれてよかった、と思った。誰かがいれば、わたしの番が来ない。
雨の音が、思っていたより大きく聞こえる。窓のガラスに水の筋が何本もできて、向かいの白い建物が、ぼやけて縦に伸びていた。
傘立ての水が、床にゆっくり広がっていく。いつもなら拭きに行くところだけれど、そのために端の席の横を通ることになる。わたしはふきんを持ったまま、レジのところに立っていた。
篠田さんは、豆をひかなかった。あの音は、たぶんいちばん大きい。
かわりに、冷蔵ケースの低い音が、ずっと続いていた。店がこれだけ静かなのは、初めてだった。
二人が帰ったあと、テーブルを片づけた。下げた皿に、殻が二つぶん。
コーヒーから湯気が出なくなるまで、誰も何も言わない。
早坂さんの背中は、息をしているのかどうか分からないくらい、動かない。
わたしは伝票の束を、二度そろえ直していた。
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二十分くらいして、早坂さんが顔を上げた。
「……あ」
しばらく、自分の手のあたりを見ていた。
「すみません。寝てました」
わたしに向けて言った、初めての声だった。思っていたより高い。
「いえ、大丈夫です」
「あー……これ、冷めちゃいましたね」
「いれ直します」
「いいです、そのままで。冷たいの、平気なんで」
そう言って、冷めたコーヒーを飲む。おいしそうには見えなかった。
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「ここ、七時からやってますよね」
「はい」
「助かってるんですよ」
早坂さんは、卵の殻を小皿に集めながら言った。
「うちの病棟、夜勤明けが七時なんですけど、着替えて出てくると七時半すぎで」
「……七時半」
「そう。向かいの食堂はお昼からだし、その時間、この辺どこも開いてないんだよなあ」
うまく返せない。
「コンビニ、座れないし。家まで四十分あるし、あの状態で運転するのも、ちょっと」
殻を集める指が少し震えているのを、わたしは水を替えるふりをしながら見ていた。
「一回、あたし、車で帰ろうとして駐車場で寝ちゃったことがあって。五分だけのつもりが、起きたら十時で」
その人は、それがおかしいみたいに、少し笑った。
「あれからは電車にしてるんです。ここが七時に開いてなかったら、たぶん、家まで持たないなあ」
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おつかれさまです。
その言葉が、口の中まで来ていた。
言えなかった。
この人が働いてきた十二時間を、わたしは一分も知らない。
だから、水を足した。
それだけだった。
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篠田さんが、奥から出てきた。
小皿に、ゆで卵をもう一つ乗せて、早坂さんの前に置く。
「これ、余ったで」
早坂さんは、少しのあいだ卵を見ていた。
「……いただきます」
そう言って、また殻を三回、カウンターに当てた。
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わたしは、レジのところで手を止めていた。
余っていない。
今朝、出たのも六つ。作業着の人が三人で三つ、早坂さんが一つ、常連さんが二人で二つ。
数が合わない。
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食べ終わって、早坂さんは伝票を持って立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
それから、その人は首に手をやった。
名札を外して、かばんに入れた。
外の雨は、まだ降っている。傘を開いて、道路のほうへは行かずに、反対の、駅のほうへ歩いていった。
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その日、上がる前に、篠田さんに聞いてみようと思った。
卵のこと。今朝、七つゆでましたよね、と。
昼の客が引けて、店は静かだった。篠田さんはレジの釣り銭を数えている。百円玉を五枚ずつ、指で滑らせるように分けていた。
口を開いて、閉じた。
「……おつかれさまでした」
篠田さんは、数える手を止めずに、小さくうなずいた。
聞いたら、たぶん「そんなことないて」と言われる。
言われたら、それ以上は聞けない。
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家に帰ると、台所に卵が四つ残っていた。
一つゆでて、十二分待って、水に入れた。
殻を三回当てて、むいた。
今度は、白身が少しだけきれいに出た。
母が起きてきて、それを見て、何も言わずにまた寝に行った。
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布団に入ってから、スマホを開いた。
「夜勤明けの人に、なんて声をかけたらいいですか」
『「おつかれさまでした」「ゆっくり休んでくださいね」など、労をねぎらう言葉が適切です。相手の状況に配慮し、長い会話は避けましょう。』
一番上に、わたしが言えなかった言葉が書いてあった。
正しいのだと思う。
正しいのに、朝のわたしは、それを言わなかった。
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起きて、台所に戻った。ノートを開く。
卵は十二分。殻は三回当てる。朝の人は、話しかけないほうがいい。
その下に、一行だけ足した。
篠田さんは、卵を余らせない。
冷蔵庫には、まだ三つ残っている。明日も一つ使う。
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(第三章へつづく)
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第一章「薄いコーヒー」から読む
作品のもくじ
第三章「落とした一枚」も、全文をここに置いてあります。
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