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【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第三章 落とした一枚

五百円玉は、見えない。

『病院の向かいの喫茶店』第三章「落とした一枚」です。
はじめてレジに立った日に、五百円玉を一枚落とした話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。

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五月になって、けやきの葉が厚くなった。

朝、店の前を掃くとき、去年の枯れ葉にまじって、緑のままの若い葉が何枚か落ちている。風の強かった日の翌朝は、それが多い。ほうきの先で集めると、乾いた葉と生きた葉で、音がちがった。

七時前の店で、篠田さんは小銭を数えている。

箱から棒を一本出して、紙を裂いて、レジの引き出しに落とす。百円玉が五十枚。落ちる音が、いつも同じだけ続く。

五十円玉も、十円玉も、同じようにする。五百円玉だけは、棒を崩したあとに、さらに何枚か手で足す。

毎朝、それを見ていた。数えているところを見ていても、篠田さんは何も言わない。

七時四十分に早坂さんが来た日、篠田さんはレジに五百円玉を足していた。その手つきを見ながら、独り言みたいに言ってみた。

「毎朝それ、大変じゃないですか」

「まあ、な」

返事は、それだけ。

早坂さんは卵をむきながら、こっちを見た。

「あれ、覚えられます?」

「……たぶん、無理です」

「ですよねえ」

そう言って、笑った。わたしに向けて笑ったのは、初めてだった。

「わたし、数えるの苦手で」

「あー、それは、まずいんじゃないですかね」

卵の殻をむきながら、そう言われた。

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「レジ、やってみりゃええ」

言われたのは、五月の二週目。

「え」

「立っとりゃええ。分からんかったら呼びゃええ」

「あの、まだ、打ったことないんですけど」

「打っとるとこ、見とったやろ」

「……見てました」

「ほんじゃ、できる」

はい、とだけ返す。それしか言えない。

篠田さんは、レジの前をわたしにあけて、自分は奥へ行った。教える気配はない。ボタンの位置は、ひと月そばで見ていたから、たぶん分かる。

分かるはずだった。

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この店は、千円札で払う人が多い。

小銭を持っていない人が多いのか、細かいのを出す気にならないのか、理由は聞いたことがない。

だから、釣り銭がすぐなくなる。

レジに立った日、五百円玉が昼までになくなった。

八時半に、奥の席の人が来て、九時ちょうどに帰っていく。窓ぎわの、入口寄りの席は、そのあとも空いていた。

桑島さんは、あれから来ていない。ひと月になる。

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その人が来たのは、十時をすぎたころ。

二十代の男の人で、上下とも黒っぽく、髪はしばらく切っていないように見えた。カウンターではなく、いちばん手前のテーブルに座って、コーヒーだけ頼んだ。テーブルの上に、面会の名札みたいなカードが伏せてある。

コーヒーを飲むのが速くて、三分もかからずに空になった。

伝票を持って、レジに来る。財布から千円札を出した。

レジの引き出しから、五百円玉を一枚と、五十円玉を一枚。数えるあいだ、その人は財布を持ったまま、指で角をこすっていた。

手を出してもらおうと思って、こちらから差し出した。その人は、伝票のほうを見ている。

差し出したとき、指と指のあいだで、五百円玉が滑った。

カウンターに当たって、跳ねて、床に落ちる。硬い音が二回して、それから、レジの下のほうへ転がっていった。

「あ」

出たのは、わたしの声。

手前の席の人は、動かなかった。

「すみません、すぐ」

しゃがんで手を伸ばしたけれど、届かない。立ち上がって、引き出しから五百円玉をもう一枚出す。手に残っていた五十円玉といっしょに、今度は落とさずに渡した。

受け取ると同時に、ポケットのスマホが鳴った。画面を見て、耳に当てて、「はい」と短く言って、そのまま店を出ていく。

戸の上で、鈴が鳴った。

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レジの下に手を入れた。指の先が届く範囲には、何もない。

膝をついて、床に頭をつけるようにして、奥のほうを見た。ほこりと、輪ゴムが一つ。柱のきわに、丸い跡がついている。長いあいだ何かが置いてあった跡で、五百円玉ではなかった。

五百円玉は、見えない。

篠田さんは、奥でカップを拭いている。こっちを見ていない。

立ち上がって、エプロンで手を払った。

弟が入院してるからって、と思いかけて、やめた。

その人が弟の話をしたことは、一度もない。わたしが勝手に、そう決めていた。

やめたのに、もう一度、同じことを思った。

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昼の休憩に、公園のベンチでスマホを開いた。

「おつりを落とさないようにするには、どうすればいいですか」

『相手の手のひらを確認してから、両手を添えてお渡ししましょう。片手で差し出すと落下の原因になります。釣り銭皿をご使用になるのも有効です。』

正しいのだと思う。

うちに、そういう皿はない。

それに、あの人は手を出さなかった。伝票を見ていた。声もかけた気がするけれど、聞こえなかったんだと思う。

皿のない店で、相手も手を出さないとき。

そこだけが、書いていなかった。

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その日、上がる前に、レジの引き出しを開けた。

五百円、足りない。

自分の財布を出そうとした。

「触らんでええ」

篠田さんの声。

それだけ言って、レジの引き出しを閉めた。

聞きたいことがあった。わたしが弁償するんじゃないんですか、と。

聞けなかった。

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家に帰って、ノートを開いた。

おつりは、両手で。相手の手を見てから。

書いてから、それはもう知っていることだと気づいた。知っていて、できなかった。

線を引いて消して、下に書き直した。

相手が手を出さないことがある。

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次の朝、店の前を掃いてから、レジの下を拭いた。

柱のきわに、五百円玉が一枚あった。

昨日、そこは見た。頭をつけて、見た。

篠田さんは、いつものように小銭を数えている。百円玉を五枚ずつ、指で滑らせていた。

聞かなかった。

七時四十分に、早坂さんが来た。座って、こっちを一度見る。

「顔、ひどいですよ」

「……すみません」

「謝ることじゃないですって。そういう日ってあるんですよね」

それだけ言って、卵をむきはじめた。

そういう日のことを、話したことはない。

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五月の終わりに、篠田さんが言った。

「両替、行ってきて」

「え」

「銀行。九時前に着いとけば、いっとう先や」

紙に、必要な枚数が書いてある。五百円玉が何本、五十円玉が何本、百円玉が何本。字は大きくて、少し右に上がっていた。

いちばん下に、手数料の金額も書いてある。

篠田さんは、財布からカードを一枚抜いて、紙といっしょに渡した。

「あんたが行ってきて」

それで終わり。

銀行は、商店街を抜けて、歩いて八分のところにある。行きは八分で、帰りは十分かかった。小銭は重くて、かばんの持ち手が指に食い込んだ。

商店街は、半分がシャッターだった。開いている店の前だけ、水がまいてある。

帰り道、けやきから三軒先の八百屋の前で、声をかけられた。

「けやきさんの子やろ」

エプロンをしたおばあさんが、水をまいていた。

「……はい」

わたしは、そこで働いていることを、誰にも言っていない。

「篠田さん、元気にしとる?」

「……はい」

「そうか」

「あの、いつも、ありがとうございます」

言ってから、何がありがとうなのか自分でも分からなくなった。

おばあさんは、少し笑った。

「あんた、うちの前も掃いとるでしょう」

「……はい」

「見とるよ」

それだけ言って、また水をまきはじめた。

わたしは、はい以外を言えないまま、頭を下げて歩き出した。

店に戻ると、篠田さんはカウンターの椅子に座っていた。

「ありがとう」とは言わない。わたしが箱に入れるのを、座ったまま見ていた。

それから、毎週わたしが行くことになった。

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その人が、また来た。

六月の、雨が降りそうな日。同じように手前のテーブルで、同じようにコーヒーだけ。

コーヒーを出しに行ったとき、テーブルの上のカードは、前と同じように伏せてあった。角のところが、少しやわらかくなっている。何度も持ち歩いた紙の角だ。

カウンターに戻って、レジの引き出しを開けた。五百円玉と五十円玉を、指のあいだにはさんで持っておく。まだ呼ばれてもいないのに、そうしていた。

飲むのは、やっぱり速い。カップを置く音が、こっちまで聞こえる。

下げに行って、受け皿に手をかけたところで、その人が立ち上がった。

レジに来て、千円札を出した。

「四百五十円です」

手のひらの硬貨を、いったんカウンターの上に置いた。

今度は、相手の手が出るまで待つ。

三秒か、四秒。長いと思ったけれど、たぶんそのくらい。

手前の席の人は、手のひらを上に向けて、こちらへ差し出した。

爪が短い。指の関節のところが、少しかさついている。

硬貨を置いたとき、その手が少し震えていた。

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「あの」

言ってから、続きがなかった。

その人は、財布のふたを閉めるところだった。手が止まって、それから、ゆっくりこちらを見る。

目が赤い。寝ていない人の目だと思った。まぶたの上のほうが、うすく腫れている。

何か言わないといけないのに、口の中が乾いていた。

「なんですか」

「あの、コーヒー、おかわりとか」

「いえ、もう出るんで」

「……すみません」

「……いつも、ありがとうございます」

その人は、少しのあいだ黙っていた。

「いつも、って言われるほど来てないですよ」

「……すみません」

「いや」

言うつもりだったのは、それではなかった。

その人は、五百円玉を財布の小銭入れに落とした。五十円玉は、そのまま指でつまんで、上着のポケットに入れた。

ふたを閉める音が、思ったより大きかった。

伝票を置いて、出ていく。

道路を渡って、白い建物のほうへ歩いていく。傘は差さなかった。自動ドアが開くまで、一度も立ち止まらない。

ドアが閉まって、それから、雨がはっきり降りはじめた。

手に、皿を持ったままだった。さっき下げた、その人のカップの受け皿だ。いつから持っていたのか、思い出せない。

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家に帰って、ノートを開いた。

手前の席の人。コーヒーだけ。飲むのが速い。千円札。

その下に、一行足した。

落とすのは、渡すほうだけじゃない。

書いてから、しばらく見ていた。

台所の引き出しから、使っていない小皿を一枚出して、かばんに入れた。

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次の朝、それをレジの横に置いた。

篠田さんは、それを見て、何も言わなかった。

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(第四章へつづく)

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第一章「薄いコーヒー」から読む


第二章「かたいゆで卵」を読む


作品のもくじ


第四章も、この場所に置きます。
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