共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
未だ、わたしは何を書きすすめようとしているのかわからないでいる。これまで56回、こうした記事を書きつづけてきたし、その度に明快なテーマと明瞭なモチーフを持ち得たことなど、わずか数回あるかないかとは思うが、それでも書きはじめる段になってここまで混乱してはいなかったのだが──。
共同主観的現実とはなにか?
わたしたちは現在、AIを代表とする情報科学が長足の進化を果たし社会の隅々にまでテクノロジーが浸透する時代に生きている。ことにOpenAIがChatGPT3.5を公開した2022年以降について、その進化は年表では表せない。月単位で、それ以前の時代を画するが如きイノベーションが起きているからだ。
それに牽引されるかのように、国際政治、国際経済の様相も変化が激しい。ひとつにはGPUといった半導体が提供する計算資源をめぐる地政学的な対立の表面化があるし、もうひとつにはSNSの普及、浸透によってまったく新しい世論が形成されることによる政治状況の変革だ。
ユヴァル・ノア・ハラリは最新の『NEXUS 情報の人類史 人間のネットワーク』上下(柴田裕之訳/河出書房新社)で、こうしたAIという、ある意味ですでに自律したアルゴリズムが人間の介在しない新しい“現実”を生み出している状況を論じている。ハラリはすでに『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』上下(柴田裕之訳/河出書房新社)で、農業革命に先立つ認知革命によって人類が共通のフィクションを信念としていくことで、現実を生み出してきた壮大な歴史について、科学革命の只中であるAIの時代にまで連綿たる歴史を論じていた。
今回のこの『NEXUS』では、人間同士のネットワークのなかで増幅、増強される、この共通のフィクションを「共同主観的現実」と呼んでいる。共通のフィクションには、宗教神話における幻想、あるいは全体主義国家における虚構。それらを、いわば自己言及的に強固にして人々に浸透させる政治体制としての官僚制──文書と情報の保管が人類史に付与した決定的な意味──について、古今東西の広範な歴史からの事例をとりあげている。
わたしはこれまでにハラリの論調に現れるユダヤ=キリスト教的(あるいはイスラム教も含むアブラハムの宗教的)な世界観と論理についてかなり警戒心を持ってきた。AIを次の神として見ることに大きな違和感がある。ハラリは『NEXUS』でいよいよ、その部分を鮮明にする。
AIのアルゴリズムが果たす機能は宗教神話が行なってきた機能に匹敵すると論じている点に端的だ。その機能は“共同主観的”な現実を生成することであり、AIも神と同様に“不可謬”とされてしまう点にある。
わたしはかつてレイ・カーツワイルのシンギュラリティやトランスヒューマンの思想に一神教的な偏狭を感じ、ハラリの論と合わせて懐疑的に見てきた。ユダヤ教にもキリスト教にも歴史的に縁の薄い日本人のインテリたちが、こうしたカーツワイルやハラリの論調をもてはやすのを苦々しい気持ちで見てきた。
近代化へのいくつかの反動に共通するもの
『NEXUS』のなか、ハラリがカーツワイルの思想に対する違和感を述べる箇所がある。本書の冒頭、プロローグだ。
アメリカの投資家であるマーク・アンドリーセンが、その小論「AIが世界を救う理由」において、AIが人類の問題をすべて解決、改善して世界を救う。ゆえにAIの開発は「自らや子供たちや未来にとっての道徳的義務」だとしたと紹介した後で、こう述べる。
レイ・カーツワイルも[マーク・アンドリーセンと]同意見であり、『シンギュラリティはより近く』で次のように主張している。「AIは、病気や貧困、環境悪化、人間のあらゆる弱点の克服といった、私たちが直面している差し迫った難題に対処することを可能にしてくれる、肝心要のテクノロジーだ。この新しい有望なテクノロジーを実現させることは、私たちの道徳的な責務だ」。カーツワイルはテクノロジーの潜在的な危険性を痛感しており、その危険性を詳しく分析しているが、それらは首尾良く軽減しうると考えている。
記載のようにこれは未来学者のレイ・カーツワイルの『シンギュラリティはより近く 人類がAIと融合するとき』(高橋則明訳/NHK出版)の一節なのだが正確な引用ではない。日本版の該当箇所を引用すれば、次のように書かれている。
病気や貧困、環境悪化や人間の欠点すべてなど、私たちが直面している喫緊の課題を克服するのにAIは欠かすことのできないテクノロジーだ。この新しいテクノロジーの有望さを理解し、それがもつ危険を軽減することは道徳的要請である。
同じ箇所を比較すればすぐにわかることだが、カーツワイルは「道徳的要請」と述べており、それが必要なのはAIというテクノロジーのリスクの軽減についてであり、ハラリの引用のように、このテクノロジーの進化、実現を「道徳的責務」とは言っていない。語句についてはただの翻訳上の違いなのだろうが、ハラリの意図が込められているように読まずにはいられない。
カーツワイルは、引用文に続けて核戦争に怯えながら核兵器を管理しきたように「超知能AI」を人間の管理下に置いて責任を持って利用することを提唱している。カーツワイルの主張のポイントはむしろこちらにある。そして、このポイントは字面でみればハラリの『NEXUS』での主張とも大きな違いはない。
カーツワイルの『シンギュラリティはより近く』は、『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』(井上健、小野木明恵、野中香方子、福田実訳/NHK出版)、『シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき』(NHK出版編/NHK出版)に続く一冊であり、これまで同様にバイオテクノロジー、ナノテクノロジーとの進化と合わせて人類の──知能も含む──身体的な条件の改善によってもたらされる幸福な未来を、さまざまな過去のデータを駆使して語られる。ある意味で、現在のテクノロジストの主張を集約している。この身体の問題については後でもう一度、触れたい。
わたし自身は一神教的世界観による現在とテクノロジーの読み解きという点で、ハラリとカーツワイルとを同じ俎上に上げてきた。科学革命以降の近代化というコンセプトは、常にヨーロッパ化、民主主義化、資本主義化、そしてキリスト教化とニアイコールであり続けており、その世界観の枠内での議論は普遍性の一部分でしかないのではないかと、わたしは考えている。
近代化への反発こそ、ハラリがとり上げるナチズム、スターリニズム、イスラム原理主義、ポピュリズムなどの背景にあるものだと、わたしは暴論はなはだしくも思っている。民主主義に反対する国家社会主義、資本主義に反対する共産主義、キリスト教に反対するイスラム原理主義、グローバリズムを嫌悪するポピュリズム……といえば単純すぎるかもしれないが、大きな見通しにはなるだろう。付言しておけば、戦前日本の八紘一宇的なイデオロギーもヨーロッパ化、個人主義化に対抗するための東洋回帰であり集団主義への回帰であったのではないだろうか。
そういう見通しのなかでは、ハラリの悲観とカーツワイルの楽観に大差はないように思ってきたのだが、わたしは短絡にすぎるだろうか? 新しい神を巡る神学論争に見えてしまう。
大きな物語というイデオロギーへの回帰
前回の記事(#56 答えなき時代の思考術──ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション)で、わたしは反近代の動きがユク・ホイのいう「形而上学的ファシズム」に通ずる新たなイデオロギーによって分断を生み出さないためにも、多様性に対して即興的に評価を加えながら流動性を保持し、小さな物語をネットワークしていくことが重要ではないかと述べた。
ジャン・フランソワ・リオタールは『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』(小林康夫訳/水声社)で、近代化の世界観の根底にある人類共通の──普遍的な──幸福を目指す歩みとしての“大きな物語”を批判して、ポスト近代は個別の論理と価値観によるそれぞれの──言語ゲームに閉ざされた──小さな物語を生きることで共通の価値観が喪失すると唱えたことはここでもとりあげた。
歴史上、失われた大きな物語への回帰は繰り返し起きてきた。そのたびに、大きな物語を求める動きは原理主義的に過激になった。カトリックに対するプロテスタントであり、イスラム教のスンニ派とシーア派であり、平安仏教や密教系二宗に対する鎌倉新仏教などである。原理原点(伝統)という大きな物語への回帰こそ、宗教にたびたび見られる動きだ。宗教にかぎらず回帰運動に伴い過激化せざるを得ない思想に対する危険をわたしはなんどか述べてきたつもりだ。
だから、カーツワイルについても、最新刊に至るまでのハラリについても、そういう回帰の運動の最新バージョンとして読んできた。最新刊に至るまでと書いたのは、ハラリがむしろ大きな物語への回帰──「大きな物語の生成」というべきかもしれない──を警戒していることを最新刊の『NEXUS』から明確に読み取ったからだ。
ハラリが危険視する「共同主観的現実」こそ、大きな物語のことであり、おそらくはユク・ホイが警戒する「形而上学的ファシズム」に通底するものだろう。それどころか、ハラリはテクノロジストたちのあいだに見え隠れするユダヤ=キリスト教的価値観さえ明確に批判する、次のような意見を紹介する。
哲学者のメーガン・オギーブリンは著書『神、人間、動物、機械(God, Human, Animal, Machine)』で私たちがコンピュータをどう理解するかは、伝統的な神話に強く影響されていることを証明している。特に、ユダヤ=キリスト教的神学の全知で人知を超えた神と、下す決定が不可謬でしかも不可解に思える今日のAIの類似性を強調している。
ハラリは神話のような虚構を現実化する共同主観──大きな物語──を生成するのはネットワークだという。実はわたしはここでページを捲る手が止まった。なぜなら、前回に書いたような多様性を担保するのは、小さな価値観のネットワークであるべきだと考えていたからだ。ネットワークこそ、包括的なイデオロギーに対抗しうる方法だと考えていたからだ。
ハラリの「ネットワーク」が指すもの
述べておきたいことがある。ハラリが『NEXUS』で述べたネットワークとわたしが前回から考えているネットワークの考え方の違いである。
わたしは、ネットワークは多様な人々や多層な価値観を架橋して、それぞれが互いを認め合うことで初めて回路が通じ合って成立するものだと考えている。ネットワークとはそもそも異質なもの同士を繋げる概念として捉えている。よって多様性を担保し、その流動性も保持できる。
現代社会においては、性別や国籍、文化、価値観などの違いを受け入れ、多様性を尊重することが、組織や社会全体の持続的な成長やイノベーションの源泉となっている。それは均質化、同質化した集団では発見的あるいは創発的な瞬間が減少してしまうせいだ。異質なもののなかにこそ、次の可能性が秘められている。
しかしながら、インターネットやSNSの普及によって、個人が自由に意見を発信し多様なコミュニティが生まれ、より開かれた社会が実現しつつあるという見方はもはや困難なものになっているという実感もある。フィルターバブルという同質の価値観のなかに分断され、価値観同士の回路が閉ざされているからだ。ネットワークはむしろ弊害をもたらす側面が多く、気掛かりではあった。
ハラリはこのフィルターバブルなどの同質的な集団を生み出すのがアルゴリズムだという。ユーザーの注意を惹くもの、心地の良いものだけを選り分けて提供するのが、現在のネットワークというわけだ。ハラリのいうネットワークとは、宗教組織のそれであり、政治制度──官僚社会──のそれである。ハラリのいうネットワークはむしろ異質性を排除する閉じた回路のことだ。それは現在のインターネットやSNSがもたらす世界とそっくりだ。
ハラリはそうした考えから、情報ネットワークの持つ、「秩序」と「権力の集中」に強い警戒感を示している。情報ネットワークは必ずしも真実や多様性を前提としたものではなく、むしろ共通の物語や神話、虚構によって人々を結びつけ、巨大な協力体制や社会秩序を生み出してきたと指摘する。その際、ネットワークを支配する者――かつては王家や宗教、現在はAIや巨大テック企業――が、情報の流れや内容をコントロールすることで、社会全体を効率的に統合し、ときには全体主義的な支配へと導く危険性があると論じる。現代のテクノロジーがもたらしたアルゴリズムが自律的に情報を選別・拡散し、個人の思考や行動を精密に操作できるようになったことで、民主主義の基盤である情報の分散や「自己修正メカニズム」が失われ、少数の権力者が大多数をコントロールする全体主義的な社会が現実味を帯びてきていると警告する。さらに言っておくと、AIの不可謬性が全体主義はもはや独裁者だけのものではない可能性に、ハラリは言及する。
わたしが多様性と自由な交流の場として肯定的に捉えていたネットワークを、ハラリは情報や権力の集中による統制と操作のリスクを重視し、ネットワークは必ずしも多様性や自由を保証するものではないとする。ネットワークの力が協力や信頼を生み出す一方で、虚構や偏見、プロパガンダによって分断や対立、さらには全体主義をも生み出しうるという洞察は、テクノロジーの未来を見極めるうえで、間違いなく重要な視点だ。この点で、わたしはこれでまですべての日本版の著作を読んできて初めてハラリに宗教性を超えてシンパシーを覚えた(ずいぶん偉そうな話なのだが)。
AIによってアルゴリズムが自律することで、人類は初めて自分たち以外の知能に出会うことになる。その知能は人間には架橋不能な存在になりうる。『ソラリス』(スタニスワフ・レム著/沼野充義訳/早川書房)に登場する「ソラリスの海」のごとく、人間には一切、その意図も目的もあるいは意識や感情さえ不確かながら、確かに知性を持つ存在になりうるのだ。ハラリはそういった知性を「エイリアン・インテリジェンス(Alien Intelligence)」と書く。
この架橋不能は、人間とAIの間に決定的な分断が生まれる。それがハラリのいう「シリコンのカーテン」というわけだ。
「シリコンのカーテン」にはもうひとつ意味が付されており、現在の米中のような国際対立のなかで、それぞれ異なった文化と思想をもった陣営内のネットワークに閉じることで起きる分断をも指す。ハラリは、ネットワークが「ウエブ(網)からコクーン(繭)」となるという。
AIが求め、人が忌避する身体
先に身体について触れると書いておいた。
AIは研究開発の歴史なかでこれまで何度も身体性を強く求められてきた。身体性の獲得こそ、AI進化の次のブレイクスルーになるといわれ、ロボティクスとの接近が繰り返されてきた。しかし、現在までのところ大きな成果は得ていない。
東京大学の松尾豊教授もベストセラー『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』(角川EPUB選書)のなかで、「身体を持つこと」が単なる技術的な課題を超え、知能の本質に迫る問いであると論じていた。それが2020年ごろから、松尾先生はAIの進化に身体は必ずしも必要ないのではないかと述べるようになった。AIは人間の知能を目指す必要はないのではないかという論点に立てばおのずと身体の必要性は減じる。これは人間的知能を目指す「汎用型AI」と、画像処理や数理推論といった特定タスクに最適化された「特化型AI」の違いに起因する。「特化型AI」には当然のこと身体性は求める必要はない。
論点を広げてみる。世界モデルといわれる技術が完成すれば、フレーム問題のような身体を通しての世界理解をも、高度にシミュレーションできるようになる。フレーム問題とは、AIにたとえば単純な家事を指示した場合において、「キッチンでお湯を沸かそうとしたらコンロのうえに猫がいた」というようなことに正しく対処できない事態で、現在でも解決に至ってはいない。この問題は言い換えれば、5歳児にはできるのにAIにはできないという行動があまたあることも示している。
身体性に対する見方が変化した理由には、大規模言語モデルが身体性──身体的経験──と不可分である記号設置問題において、データだけで文脈を理解しうることが常識になったこともある。
わたしがAIと身体性の問題を改めてここで取り上げるのは、そこに倫理の問題が深く関わっていると考えるからだ。AIが社会に受け入れられるためには、もちろん合理性や効率性だけでなく倫理的判断や共感といった人間的価値観への適合が不可欠である。昨今のAIエージェントをめぐっても自由意思や感情といった点が取り沙汰されている。EUの規制もこの部分に大きく関わってくる。
この身体性について言い換えれば、それは心身問題とも通じてくる。心身が合わさったものとすればそれは「汎用型AI」であり、マクルーハンのいうように人間の知能や身体機能の一部分の拡張としてであれば「特化型AI」ということになる。
ハラリの『NEXUS』でも最終盤において心身問題がでてくる。まさにこれはカーツワイルの目指すトランスヒューマニズムとの神学論争の様相を呈する箇所かもしれない。
競合するキリスト教の宗派間や、ヒンドゥー教徒と仏教徒の間、プラトン主義者とアリストテレス主義者の間で見られたような、宗教や文化をめぐる多くの対立は、何千年にわたって、心身問題についての意見の衝突によって煽られてきた。人間は物質的な身体なのか、それとも非物質的な心なのか、ひょっとすると身体の中に囚われた心なのか? 二一世紀にはコンピューターネットワークがこの心身問題を激化させ、個人間の、あるいはイデオロギー上、政治上の主要な対立に変えるかもしれない。
人間は長らく宗教や哲学を通じて身体性を精神性から切り離そうとしてきた歴史がある。身体を「超えるべきもの」「抑えるべきもの」とする霊肉二元論はキリスト教や仏教をはじめとする多くの伝統的宗教に共通する特徴である。近代科学の扉を開いたデカルトの二元論も同じだ。
しかし、ハラリはユダヤ教においても、初期のキリスト教においても身体は個のアイデンティティそのものを示すものであり、イエスの復活劇こそ魂ではなく身体──現世──の重要性を表すものだったと述べている。肉体こそ、飢えや渇き、欲の源であるという見方は多くの宗教で共通だ。ブッダが若き頃にヒンドゥー教の苦行に身を投じたのも同じことである。
わたしたちは肉体を離れ、精神の高みを目指すことに大きな価値を見続けてきた。それは現世を離れ来世(天国)での幸福を約束するものとして。もちろん先述したように、宗教では幾度も新しい宗派が、大きな物語に回帰する際に身体性の見直しを図ってきた。ただやはり身体はつねに心にとって枷であった。それが苦悩の一端でありつづけた。
だからこそ、わたしは前回の記事で道元の放下をネガティヴケイパビリティと同時にとりあげたし、同じく道元が「正法眼蔵」でいった「心身脱落」が今なお意味をもつものだと考えている。
身体をめぐる宗教思想
現在においてAIの進化の過程で、改めて身体性が話題にされロボティクスへの期待が高まるのは、ある意味で身体への回帰ともいえるかもしれない。
カーツワイルのトランスヒューマニズムは、まさに身体の重要性を物語るもの、神に代わるテクノロジーによって“受肉”されることを望んでいるように感じる。カーツワイルが求めるものが新しい大きな物語だとすれば、彼の身体性への関心には納得しかない。
受肉と言って思いついたのだが、メタバースのようなヴァーチャルな世界でヴァーチャルな身体を得ることも「受肉」と言われる。してみると、身体性はロボティクスのみに向かうわけでなく、先にみた世界モデルのような高度なシミュレーションに向かうことも理解できる。受肉という語はキリスト教において「イエス・キリストが神の御子として人間性を得たこと、つまり神の御子が人間の姿でこの世に現れたこと」に由来する。
わたしが関心を向ける点がそれである。それは多くの宗教が身体を蔑む一方で、宗教儀式が激しい身体的参加を求めることである。祈り、断食、苦行、踊り、巡礼──宗教は身体を通じてしか精神的な体験や共同体への帰属、聖性の感覚を得ることができない。苦行や身体的犠牲は、信仰の真剣さを示し共同体の結束を強化する。儀式は日常から切断され、聖なる領域を体験するためのものであり、身体的な行為は非日常的な高揚や一体感を生み出し、精神の鍛錬や浄化をもたらすのだ。
宗教は、身体という現実を超えるべきものとしつつも、身体という現実を通じてしか超越や救済に至れない。この逆説が、宗教の本質であり、人間の根源的な身体観でもあるとわたしは考える。たとえばプロテスタントの予定説からくる勤勉さも身体によって表現されるものだ。そしてウェーバーによれば、そういう身体が資本主義を産み落とした。
とはいえ、心や魂には身体にはない永遠性があるというのが宗教の霊性だ。カーツワイルはみずからの知能をデータ化して保存することを目指すといっているが、これは心や魂に永遠性をもたらす宗教的な行為だ。
この永遠性はむしろ倫理観を阻害しはしないだろうか。わたしは以前、身体の有限性、つまり限りある生命だからこそ倫理というものが求められるのではないかと論じた。老いも病もある身体を正しく理解し運用することこそ、倫理的な振る舞いにつながることにならないか。身体への理解への契機となるのが、宗教儀式の類なのではないか。信仰の切実さを証明するものとして身体があるなら、その切実さは身体の正しい運用によって示され、身体の運用は心や魂のあり方を表すという論理ではないか。
身体性と倫理の問題は、AIのフレーム問題として考えることもできる。5歳児にできることができないAI、成熟した知識人にできないことができるAIとは、身体運用の未熟さと考えることができるし、AIの倫理の未成熟をみることもできる。非常に宗教的な部分があるとわたしは考えるが、これ以上は論をつなぐことができない。
現代文化に表れた身体を通じた宗教性
宗教性と身体性が深く交差するアクチュアルな例をもうひとつ挙げておきたい。
2013年、わたしは社会哲学者の清家竜介さんと共著で『ももクロ論 水着と棘のコントラディクション』(実業之日本社)を上梓した。そのなかで、ももいろクローバーZというグループのパフォーマンスの魅力について、まさに身体性と即興性について論じた。Wikipediaにもその箇所が残っているので、引用しておく。
ももクロのステージにつねに魅力的な即興性が現れるということはもちろんないが、高確率にそれが生み出される現場を、多くの大人たちは目撃した。その瞬間、彼女たちはステージの上で“生きている”。この生きている姿こそ、私たちを感動させるものの正体ではないか。
魅力的な即興性が生じてしまう要因を身体にかけられた負荷にあると考えた。それはまさに苦行であり、ひとつの祈りのように感じた。それが生きる姿そのものを現していた。「生きている姿」には倫理がある。単純に一生懸命だとか必死という精神性以上のものを示すのは身体性だったと思う。
『ももクロ論』のなかで、もうひとつ考えたのは、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』(佐々木甚一訳/晶文社)で論じたアウラだ。近代に入り、写真や映画といった複製技術によって、芸術作品のもつ再現不能な唯一性としてアウラが失われたとベンヤミンが同書で論じたことはつとに有名だ。
2010年代、音楽配信サービスが普及するにつれ、CDは握手券としてしか売れなくなったなかでライブの重要性が見直されるようになっていた。欧米では、アーティストたちがレコード会社ではなくイベント会社と契約を結ぶようになっていた。
わたしはこの時代を、ビートルズがライブ活動をやめ長尺のアルバム音源の発表をメインとする活動に切り替えた時代が、50年ぶりに切り替わった時代だと考えた。即興性、一回性をそれまで以上に人々は求めはじめたのではないかと。それは、精神性から身体性への回帰ともいえたかもしれない。
この動きは10年を経た現在でも継続されている。「推し文化」の根底には、この即興性、一回性に通じる身体性がある。「生身の身体による唯一のパフォーマンス」や「現場体験」の価値が高まる。ライブ、舞台、握手会、チェキ会──これらは、デジタル化・AI化が進む現代において、逆説的に身体性への渇望が強まる現象である。
この10年における変化を「萌えから推し」と位置付けたのはエンタメ社会学者の中山淳雄氏が書いた『推しエコノミー 「仮想一等地が変えるエンタメの未来」(日経BP社)である。同氏の他の書籍と同様に膨大なデータから現状を鮮やかに解き明かしてくれるだけでなく、以下のような節もあり同氏のコンテンツビジネスへの深い想いが伝わってくる。推しの経済圏は単純なものではない。イベント、物販のみならず、イベント参加のためにファンたちは着飾り、推しのためにイベントに通い、同じコンテンツを繰り返し観る。
クリエイターは希望でなく絶望の中から生まれる。映画やアニメやゲームといった映像の世界に限らない。マンガ家であっても、タレントであっても、俳優であっても同じだろう。およそ創作に携わる人種のなかで自分自身への絶望を味わわずにスターダムに立った人間を私は知らない。
絶望という痛みを知っている“選ばれし者”に帰依するという推しの姿には、宗教との類似も垣間みられる。「巡礼」といったワードが、この経済圏に定着しているのも同じ理由だろう。
推しのライブやイベントは複製できない、その場限りの体験=身体性の祝祭である。ファンは推しの身体的存在を直接感じることで、デジタルでは得られないリアルな充足感や一体感を得る。推し文化は、偶像(アイドル、アーティスト、キャラクター)を中心に、儀式(ライブ、イベント)、聖地巡礼(現場参戦)、共同体(ファンダム)を形成する。ファンは推しに“救済”や“癒し”を求め、グッズやライブ参加を通じて信仰告白や布施に近い行為をする。
推しの言動や存在が教義や聖典のように語られ、SNS上で布教活動も行われる。宗教儀式が身体的な参加を伴うように、推し文化も、身体を現場に運ぶ、声を出す、踊るなど、身体的な関与が重視される。推しのライブは、現代の“宗教的祝祭”とも言える。
推し活動はこのような身体性を通じている。ゆえに倫理とも接近する。推しの裏切り(失言、不倫など)はだからこそあそこまで過剰に反応され、宗教団体の弾劾に似た様相を呈してしまうのではないか。
身体という現実の不確かさに耐える
思えば、身体性という現実そのものがあまりにも複雑で、予測不可能で、矛盾を内包したものだ。だからこそ、わたしたちは宗教や哲学においてそれを避け、心や精神と切り離そうとしてきたのではなかったか。
飢えや渇き、欲望、老い、性、病──身体とは他者との関係そのものであり、変化と不確かさに晒された生の現場である。その不安定さに人は耐えきれず、代わりに「魂」や「精神」を求め、そこにこそ真理があると信じた。共同主観に支えられたネットワークによる秩序とは、そうした身体の混沌に対する処方でもある。
ハラリの指摘する共同主観に支えられたネットワークによる秩序と、LLM(大規模言語モデル)の統計に支えられたアルゴリズムによる秩序──人間らしい言葉遣い──が同根であるような気がしてならない。共同主観に支えられたネットワークによる秩序が生み出してしまう虚構と、LLMが統計に支えられたアルゴリズムによる秩序(尤度)によって生成するハルシネーションは双子の片割れ同士ではないか。
生成AIは、ときにもっともらしい語りを提示し、身体を通じて得られる揺らぎや違和感、異質なものの手触りを削ぎ落としてしまう。それは、心地よいが平滑化された統計結果にすぎない。そうした語りは、事態の複雑さを減衰させ、判断の責任や関係の摩擦を回避させる。それは同時に、身体のように理解しがたく制御しきれない他者の現実を受け入れる回路を閉じてしまう。いや、閉じるからこそ人は安心し納得する。
整合された意味や秩序を欲する衝動に抗いながら、わたしたちはむしろ複雑で不可解な身体性に対して開かれた姿勢を保たなければならないのではないか。そのためには、理解不能なものに対して即答や制御ではなく、放下によって応じる態度が必要だ。あるいはネガティブ・ケイパビリティ、すなわち「答えのなさ」に耐える力こそが、現代の知性に問われている倫理なのだと思う。わたしが前回の記事(#56 答えなき時代の思考術)で訴えたかったことはここに通じている。
秩序のなさに耐える力がなければ、そもそも事態を複雑にしてしまう多様な価値観を伴う他者と共に生きることはできない。多様性は統一や調和ではなく、差異と衝突、翻訳不能性とともにある。だからこそ、わたしたちが構想すべきは、秩序や一貫性によって閉じられたネットワークではなく、ズレや混乱を許容する外に開かれたネットワークのはずだ。それは自己完結的なシステムではなく、異質なものに晒されつづける接触の場である。ネットワークとは本来、秩序ではなく接続であり、支配ではなく応答であるはずだ。
社会に虚構を求めておきながら、AIの幻想を危険視するわたしたちは、どちらにしろ、矛盾している。わかりやすさだけでどうやって考えることができるのか。
ずいぶん長くなってしまった。
最後に、テクノロジーと身体性の問題は、さらにもうひとつの問いをわたしに与えていることを付言しておきたい。
AIなどの先端テクノロジーを考えるときにいわれる、「メガネや車椅子だってテクノロジーじゃないか。テクノロジーは多くの人を救っている。AIによって救われる人もある」という話だ。ここ数回の議論のように、マイノリティの生きる選択肢となるテクノロジーという考えもできる。
しかし、それをカーツワイルのような身体の改造や身体機能の拡張と同じ延長線上で論じることができるのか。BMIのような侵襲性のテクノロジーと非侵襲性のそれとの違いをどう定義づけすればよいのか。
ハラリの論に従って、なおかつ宗教的な視点を失わずにいえば、カーツワイルのそれはユダヤ教や初期のキリスト教における身体を伴う信仰への回帰ではないか。その信仰はAIに向けられるものなのか。
どこまでもわからない。混乱のまま筆をおきたい。
